九月の怪

走れ、軟弱者!(一)


 カーテンの隙間から射し込む光の具合で、本日の天候はわかっていた。それでも僅かな期待を胸に、濃紺の帳を押し開く。


 窓の外は、天気予報通りの快晴。物干し竿に吊るした逆さのてるてる坊主が、僕を嘲笑うかのように秋風に吹かれ揺れている。下手くそな顔が描かれた九つのそれらは、僕が思いの丈を込めて作ったものだ。


 しかし、願いは届かなかったらしい。


 僕は溜息を吐き出し、仕方なくパジャマを脱いで嫌々ジャージに着替えた。



 今日は、運動音痴な僕にとって最悪のイベント――運動会なのである。



 小中高はずっと、この忌むべきイベントに苦しめられてきた。徒競走ではいつもビリ、他の競技だって皆の足手まといになるばかりで白い目で見られるだけだったし、良い思い出なんか一つもない。


 今年入学したばかりの大学では、運動会という名の運動音痴晒し上げ地獄がないと知り、密かに喜んでいたのだ。




 なのに、何故こんなことになってしまったかというと――――はっきり嫌だと言えなかった自分のせいなのである。




 事の発端は二日前。


 大学の夏休みは長く、九月上旬の現在も授業は開始されていないのだけれども、来年の専攻コース分けに向けて少しでも勉強しておきたくて、僕は学内にある図書館に毎日通っていた。


 電気代を節約したかったから、というのもある。まだまだ暑い日が続いているし、一人暮らしのアパートにずっといたらエアコン代もバカにならないからね。


 本を読んだり気になった事項を書き留めたりして午前を過ごし、昼食を食べようと売店に向かっていた僕を、呼び止める男子がいた。



結城ゆうきー!」



 確か彼の名は、中森なかもりくん。


 ちなみに大学には、友達と呼べる人は一人もいない。悲しいかな、一年の春学期を終えた今も絶賛ぼっち驀進中である。


 なので僕を呼んだ中森くんは、ただの顔見知りで苗字と僕と同じ文学部の一年生いうこと以外は殆ど知らない。

 わかるのは、Jの文字みたいにアンバランスに前髪を垂らした変な髪型してることと、事あるごとに僕からノートを借りる厚かましくも要領の良い奴だということ――そして『モテようとして激しく失敗している』ということくらいだ。



「ちょうど良かった、お願いしたいことあってさ〜」



 J型前髪の先っぽをいじりながら、中森くんはヘラヘラと笑った。



「今度の日曜日なんだけど……俺の代わりに行ってほしいところがあって」



 確か日曜は、バイトしているレストランのシフトに入っていなかったはずだ。

 というのも、親戚の結婚式のために家族で海外に出かけている彼女が戻ってくる日だから、久々に二人の時間を作りたくて空けていたんだけれど……。



「実は俺さ、彼女ができたんだ。それでその日、彼女から親に会ってほしいって言われて、どうしても断りきれなくて」



 えっ? 中森くんに彼女!?


 とても『そんな幸せな雰囲気』には見えないよ!?


 それよりその変ちくりんなJ髪で彼女のご両親に会うの!? 明らかにダメでしょ!


 戸惑う僕に、中森くんは両手を祈りの形に組んで頭を下げてきた。



「な、お願い! まだ付き合って間もないけど、俺、彼女のこと大切にしたいんだよ。それをご両親にもしっかり伝えたいんだ。結城ならこの気持ちわかるだろ? 何たって、羨ましいくらい可愛い彼女がいるんだからさ」



 くっ、ズルいぞ!


 いつも『あんなショボい奴があんな美少女と付き合えるなんておかしい』『俺の方がイケてるのに結城みたいなのの何がいいんだ』『弱味を握ってるか、彼女の頭がおかしいかのどっちかだ』なんて聞こえるように僕をディスってたくせに、こんな時ばかり同意を求めるなんて!


 でも……中森くんの思いは、よく理解できる。


 僕だって彼女を幸せにしたいし、逆に彼女に幻滅されるようなことはしたくないし、彼女に嫌われたらどうしよう、怒らせたら死ぬどころか世界が終わるだろうな、と思っているから。比喩ではなく、本気中の本気で。


 必死にお願いする中森くんに自分を重ねた僕は、ここで愚かにも内容を聞かずに頷いてしまった。



「わ、わかったよ……僕で良ければ」

「マジで!? ありがとう、結城!」



 途端にぱぁっと笑顔を咲かせた中森くんは、斜め掛けしていたショルダーバッグを漁り、何やらグッズを取り出した。



「これ、ハチマキと帽子な。それとプログラム。俺が出る予定だった競技には丸ついてるから。場所は開井かいい小学校、朝八時半までに集合で。運営委員会の奴には俺から伝えとく!」


「えっ……ええ? 何、何なの、これ……え?」


「何って、村民運動会だよ。じゃ、頼んだぜ!」



 ウ、ウソでしょーー!?


 行ってほしい場所って、運動会? しかも行くだけじゃなくて、参加しろって?



 冗談じゃないよ!!



 文句を言われる前に逃げるが勝ちと思ったのだろう、中森くんは既に僕に背を向け、駆け出していた。重荷から解放され、身軽になったとばかりに。


 けれど残念ながら――真の重荷、というより『呪縛』から解き放たれることは叶わなかったようだ。


 遠ざかる彼の背中には、相も変わらず『二人の男の霊』がしがみついている。


 一人はよれよれのランニングにステテコ姿の、でっぷりと太った中年の男。何故か常にカップ酒を手にしていて、赤ら顔でグヘヘヘヘ〜と揺れながら笑っている。


 もう片方はよれよれのスーツを着た、頭頂部の毛根だけが死滅した落ち武者みたいな髪型の男。こちらは絶望一色といった表情で、いつもホヨヨヨヨ〜と呻いている。


 僕の知る限り、グヘヘおじさんとホヨヨおじさんの二人は、ずっと中森くんの側にいた。いつどこで拾ってきたかまではわからないけど、中森くんの女運が低迷したまま一向に上昇する兆しが見えないのは彼らのせいだ。


 あんなのに『憑かれて』いるんじゃ、今の彼女とも長続きしないだろう。



 ――――僕、結城リョウには『普通の人には見えないモノ』が見える。見えるだけでなく、時には周りの人にも影響を与えることもある。



 僕が今年入学した大学でも友達を作ろうとしないのは、そのためだ。元々引っ込み思案でコミュ障で不器用だというのもあるけれど、この力のせいで自分に関わった人々にも怖い思いをさせてしまった。それと気付いてから、僕は人付き合いを断つ道を選んできたのだ。


 しかし、中には稀に例外もいる。愛しの彼女、そしてバイト先で出会った友人達だ。


 彼らは『何が見えても気にしない』と笑い飛ばせるだけの豪胆さと、『半端な悪霊など寄せ付けない』ほど高位の守護霊を併せ持っている。なので僕の力のことを知っても気軽に接してくれるし、僕の方も気兼ねなく付き合えるのだ。


 幸いにも、中森くんはとても鈍感なタイプらしい。

 何度か会話したことはあるものの、何か見えたり感じたりはしていないようだけど……うーん、彼の場合に限っては、少しは見えた方が良いのかもしれないなぁ。

 このままじゃ、せっかくできた彼女とも悲しい結末を迎えてしまいかねない。


 などと悠長に人の心配をしている場合じゃないって!


 プログラムを確認してみると、殆どの競技に丸が付いている。ちょっとちょっとちょっと、これ全部出なきゃいけないの? 僕、超絶運動音痴なのに!


 それ以上に不安なのが、会う予定の日に用事が入ったと彼女に伝えなくてはならないこと。果たして、生きて無事に説得できるだろうか?


 それを考えるともう昼食を取る気にもなれなくて、僕は構内のベンチに重い腰を下ろし、スマホを取り出してあれこれ文面を考えることに専念した。



 と、そこへ。



「だーれだっ!?」



 背後から目を覆われると同時に、鈴の音のように可愛らしい声が耳を打つ。そして、後頭部にはふんわりと柔らかな感触が。


 こ、これは間違いない……世界に一つ、いや二つで一組の最高級ファビュラスオパーイだ!



「ハ、ハルカ!?」

「あったり〜!」



 華やかな歓声を上げ、ファビュラスオパーイの保持者――もとい最愛の彼女、芳埜よしのハルカは僕の目を塞いでいた両手を離した。



「すごいね、リョウくん。どうしてすぐにあたしだってわかったの? やっぱり愛の力? だよね、そうに決まってるよね、それ以外考えられないよね、そうじゃなきゃ世界の摂理が狂って全生物滅亡の宇宙崩壊、森羅万象の全てが無に帰してるはずだもんね! もー、リョウくんってば大好きっ!!」



 アイドル並、いやそれを凌駕するほどの美貌を誇る彼女の顔を久しぶりに見ることができたのはほんの一瞬で、僕はすぐにファビュラスオパーイ・パラダイスに引きずり込まれた。ハルカが感極まって、自分の胸に僕の頭を抱き締めたのだ。


 愛の力なんて大層なものじゃなくて、ダサくてブサくてショボい僕などに声をかける女の子はハルカしかいないというだけなんだけど……ああっ、柔らかくていい匂いがするー! このまま無に帰してしまいたいくらい幸せーー!!


 って、コラコラダメダメ!

 ここは学校、勉学に励む場所でイチャイチャなんてしちゃいけません!!


 推定Eカップの魅惑なる双丘の狭間から必死に抜け出し、僕は彼女に尋ねてみた。



「ハ、ハルカ……どうしてここに? 帰ってくるのは明後日だったはずじゃ」


「パパにね、急に仕事の用事が入っちゃったの。あたしとママは残って予定通りゆっくり観光しておいでって言われたんだけど、ママは愛しのパパと離れたくないって泣き叫んで暴れて手が付けられなくなるし、あたしもリョウくんに早く会いたかったし……だから皆で一緒に帰って来たの。えへへ、ビックリした?」



 そう言って彼女は、天使すら恥じ入って消えてしまいそうなほど可憐な笑顔を咲かせた。


 僕に会いたくてって言葉はとっても嬉しいんだけど……ご両親も、相変わらずラブラブなんだね。


 にしても暴れて手が付けられなくなるって……ハルカの母上であらせられる芳埜レイさん、黙ってると有名イラストレーターであるご自身が描く美麗なイラストのような素晴らしい美人でいらっしゃるのに、どんな暴動を起こしたんだろう?


 父上であらせられる芳埜剛真ごうしんさんは建築会社の社長さんだけど、格闘家みたいなガチムキ体型で山育ちの野生児なのに、それでも手に負えないって……相当デンジャラスな状況だったんだよね?


 いや、聞くのはやめておこう。尋ねたところで聞くんじゃなかったって後悔するに決まってる。ここは『情熱的に愛し合う素敵なご両親』ってことで納得しておくのが賢明だ。



 それより、僕からもハルカに言わなきゃならないことがある。



「あ、あの、ハルカ……日曜日なんだけど」


「うん、二人共バイトない日曜なんて久々だもんね。どこ行く? そうだ、せっかくだからちょっと遠出するのもいいよね。パパにお願いして、また車借りよっか!」



 日曜日という単語を聞いて、ハルカは周囲にハートマークと音符マークを撒き散らす勢いでウキウキと提案してきた。


 そんな無邪気な表情が眩しすぎて、それが曇るところを見たくなくて、僕は彼女から目を背けるように俯き、頭を下げた。



「ごめん! その日、駄目になっちゃったんだ。どうしても外せない用事ができちゃって」


「え……何で? 約束、してたよね? あたしが帰ってくる日だから、予定空けて待っててって……」



 ハルカの声が、どんどん暗く沈んでいく。それを聞いただけで、ひどく落胆しているのがわかった。



「本当にごめん。この埋め合わせは必ず……」



「…………おいぃ……もしかしてぇ……女かぁ……?」




 低く唸るような音声に、僕ははっとして顔を上げた。




 すると何ということでしょう――少し前までハッピー・エンジェルだった彼女が、ヤッベー・デーモンに変貌しているではありませんか!




「あたしが留守にしてるのをいいことにぃ、何人もの女に言い寄られたんだろぉ……? その中のクソが『彼女がいない間だけでもいいから』とか何とか抜かしてぇ、可愛いリョウくんを我が物にしようと近付いたんだなぁ……? リョウくん、良く言えば優しすぎて突き放せないタイプだけどぉ、悪く言えばクソクソ優柔不断でクソクソクソ自衛できねえクソ・オブ・クソなところあるもんなぁ……?」




 ふっくらと瑞々しい唇が紡ぐのは、呪詛の如き恨み節。


 色素の薄い大きな瞳に満ち満ちているのは、重く深く暗い殺意と狂気。


 そして、ふんわりと春風を纏ったような明るい雰囲気は、地獄の業火に包まれたかのような凶悪なオーラに。




 まずい! 闇ハルカのお出ましだ!!




「ちちち違います! ぼぼぼ僕はクソ・オブ・クソですが、誰にも言い寄られてません! だってクソ・オブ・クソですから!」


「なぁにぃがぁ違うんだよぉ……? それでぇ……あたしのクソ・オブ・クソ可愛いリョウくんを誑かしたのは、どのクソだぁ? どうせ『最後にもう一度だけ会いたい』なんてクソ寒いクソ泣き真似してぇ、邪魔者のあたしとの仲を拗らせるためにぃ、わざと日曜に予定ブッ込みやがったんだろぉ……? 燃やさずして力技で灰にしてやるから、今すぐここに連れて来いやぁ……」



 何でそうなるの!

 何でこのクソ・オブ・クソのショボショボショボーイなんかに、女の子が言い寄ってくると思うの! そんな物好き、ハルカくらいだってば!!


 というか、力技で灰にって何する気!? めっちゃ怖いんですけど!!



「だだだだから、ごごご誤解です! そ、そうだ、これ!!」



 睨まれただけで射殺されそうな視線から目を逸らし、僕は慌ててバッグから中森くんに渡されたプログラムを取り出した。



「な、中森くんに頼まれたんだ。代わりに運動会に出てくれって。運悪く彼女のご両親にお会いする日と重なったらしくて……」


「中森ぃ? 誰だぁ、そいつ?」


「えっと……同じ一年の文学部で、ほら、前髪がJの」


「ああ、あいつか……そういやここに来る途中、リョウくんを探してる時に第一食堂で見たなぁ……? ちょっと待ってろ」



 鋭く命令するや、ハルカは目にも止まらぬ早さで食堂の方向へと走って行った。恐らく、本人に確認しに行ったのだろう。



 彼女の姿が視界から消えると、僕はここでやっと思い出したように息を吐き出した。



 ふぅ……ハルカは顔も可愛いしスタイルも良いし、料理上手で手先も器用でセンスも抜群で人付き合いもそつなくこなすパーフェクトガールなんだけど、『度を超えて嫉妬深い』ところだけが難点なんだよなぁ。


 顔も頭も人並み以下、性格だって陰気で根暗、おまけに奨学金とバイトで何とか一人暮らししてる貧乏学生の僕にモテ要素なんて一つもないのに、こうしてあらぬ疑いをかけては激しく追及してくる。

 スマホチェックなんて当たり前、ワンルームのアパートには監視カメラまで設置して、逐一僕の行動を注視しなければ気が済まない。



 こんなにも愛してくれて嬉しいとも思うんだけど……でも、もっと信頼してほしいもんだよ。わざわざ監視なんてしなくても、僕はハルカ一筋だし。ハルカが一番好きだし、ハルカしか見えてないし。


 ……って、ちゃんと言葉にしない僕が悪いのかも。だだだだって、恥ずかしすぎるんだもん!



「リョウくーん!」



 一人で赤面していたら、その彼女が戻ってきた。恐る恐る目を向けてみれば、声色も表情も明るい。


 どうやら誤解が解けて、天使に戻ってくれたらしい。



「中森くんに会って、話を聞いてきたよ。疑ってごめんね?」



 ベンチの隣に座り直したハルカは、僕の手をぎゅっと握って素直に謝った。


 うう……このうるうるの上目遣いは反則だ! 可愛いが氾濫して越流の大洪水で、いまだに慣れないよ!



「う、ううん。わかってくれればいいふぉ。ぼっ僕こそ、楽しみにしてくれてててたのにごめぬむっ!」



 ほら、噛んだし! んもうんもうんもう、ハルカが可愛すぎるのが悪いんだからねっ!



「あ、それなんだけど、あたしも参加することになったから安心して」



 事もなげにそう告げながら、ハルカは笑った。



「クソ森を脅し……じゃなくて中森くんにお願いして、二人で参加できるように、その場で運営の方に交渉してもらったの。若い人は少ないらしくて、すぐに了承いただけたよ。断られたらリョウくんの人の良さにつけ込んで無理矢理用事を押し付けた中森のクソ野郎を拷問にかけて、その音声を電話で垂れ流して無理矢理にでも許可もらうつもりだったんだけど、そんな心配は無用だったみたい」



 ねえ、それ脅迫ーー! とってもやっちゃいけないことーー!!


 ていうか中森くん、大丈夫!? 生きてるよね!?



「これで日曜も一緒にいられるねっ。運動会デートなんて、新鮮だなぁ。ふふっ、今から楽しみ!」



 まだ残暑の名残が色濃い真昼の陽気の中、燦々と落ちる日差しにも負けない笑顔で、ハルカが嬉しそうに僕を仰ぐ。


 僕にできたのは、曖昧に返した笑顔の裏で中森くんの無事を祈ることだけだった――。

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