おかえりなさい(十三)


「…………ハルトや」


「お、おばあちゃん!?」



 白装束を纏った上品なお婆さんは、情けない格好の鈴木すずきを見下ろすと悲しげな表情を浮かべた。



「お前、こんな時間に人様のお宅で何をしているんだい? あんなに優しい子だったのに、他人を痛めつけようとするなんて。ずっと墓参りにも来てくれないし、おばあちゃんの知っているハルトはこんな子じゃなかったよ? 優しかった気持ちだけじゃなくて、おばあちゃんことも忘れてしまったのかい?」


「わ、忘れるわけないよ! 俺、ずっとおばあちゃんに会いたかった。でも墓参りに何度行っても会えなくて……もう二度と会えないんだって現実突きつけられるのが辛くて……っ!」


「バカだねぇ。お前が側にいるのに触れられなくて辛かったのは、私も同じだよ。それでも顔を見たい一心で、毎年お墓でお前が来るのを今か今かと待っていたのに」


「おばあちゃぁぁん……ごめんよぉぉぉぉ…………!」



 会いたかったおばあちゃんの膝にしがみつき、鈴木は子どもみたいに泣きじゃくった。きっと、すごくおばあちゃん子だったんだろうな。



「さ、坂田さかた先生!?」



 佐藤さとうの声に振り向くと、彼の側には厳つい顔立ちの中年男性が立っていた。



「おっ、ケイゴ。また野球やる気になってくれたのか?」



 バットを持ったままの佐藤を見て、坂田先生と呼ばれた男性は嬉しそうに笑った。



「才能がないなんて言って、野球部辞めやがってよ……俺はなあ、お前のことがずっと心残りだったんだ。お前には誰よりも強い情熱があった。お前のその思いは、どんな才能にも負けない。それとも、もう野球が嫌いになったのか?」



 佐藤は激しくかぶりを振り、呻くように答えた。



「俺……今も野球が好きです。甲子園に先生を連れていく夢は叶わなかったけど……野球、またやります。亡くなった先生の分まで……っ!」



 そっか、佐藤は野球部だったのか。


 青春だなぁ……って、元高校球児にバットで襲われかけたの!? 危うく死ぬとこだったじゃないか!



「みっちゃん……幼稚園の時に一緒だった、ミチルちゃん?」



 田中たなかの前に現れたのは、小さな女の子。



「シュンくん、もうお医者さんになった? 私の病気を治してお嫁さんにしてくれるって、言ってくれたよね?」


「ごめん……俺、みっちゃんの病気治せなかった。頭悪くて、医者にもなれなかった。本当に、ごめん……」



 田中が俯いて目を逸らす。どうやら相手は、初恋の女の子のようだ。



「お医者さんじゃなくても、シュンくんなら病気で泣いてる子を元気にできるよ。だって私、シュンくんにいっぱい笑わせてもらって、いっぱい元気もらったもん。死んじゃったから、もうシュンくんのお嫁さんにはなれないけど……でもシュンくんのこと、応援してるからね」



 田中の頭を小さな手でナデナデしながら、女の子は拙い言葉で精一杯自分の気持ちを伝えた。


 田中が起き上がり、彼女を抱き締める。そして、声を上げて泣いた。




 皆、会いたい人がいる。『こちらの世界』で生きている人にも、『あちらの世界』に行ってしまった人にも。


 強い思いは『世界』を越えても通じ合い、こうして伝え合うことができる……のかもしれない。




 ウホーーーーイ!




 その雄叫びが聞こえた瞬間、僕は反射的にさっとハルカから距離を取った。



 これは一件落着の合図であると同時に、置物みたいに黙って静観していたゴリラ達がハルカ目掛けてウンチを投げる号令でもあるのだ!



「リョウくん、待って! 何で逃げるの!?」



 しかし、ハルカが追ってくる。

 ごめん、今だけは離れさせて! 勘弁して!



「うわ、何だこれ!?」


「オエッ、臭っ! もしかしてウンコ!?」


「ウンコだ、ウンコが降ってくる! 何でだ、降水確率ゼロだったのに!」


「降水確率は雨だし! それ言うなら、コウンコ確率だろ! つか降ンコ確率なんてあんの!? 聞いたことねーんだけど! ちょ……マコ姉、笑って見てないで助けてよ!」



 僕が彼らの間をウロチョロ逃げ、ハルカがそれに追い縋るもんだから、被害者続出。


 マコちゃんはゴリラの背後に避難、他の霊達も気配を察知してとっくに消えていた。



 僕達には容赦なく命中して、オバケが排出したとは思えないほどリアルな感触や臭気をお見舞いしてくれるゴリウンチだが、しかしハルカにだけは当たらない。まるで見えないバリアに阻まれるかのように彼女に触れる直前で弾かれ、キラキラと輝いては儚く霧散していく。



 このウンチ投げは、ゴリラ達の求愛行動だ。



 彼らはハルカを愛してる――彼女がどんなオスをも虜にする美貌のメスゴリラだった前世から、ずっと。


 届かなかった想いと叶わなかった願いを込めてウンチを投げるこのゴリラ達は現在、ハルカの守護霊として彼女を見守り続けている。


 自分だけのものにしたいという欲望に満ちた恋心は、皆で力を合わせて彼女を幸せに導こうという広く大きな愛に昇華した。愛しい彼女の死によって。


 絶世の美を誇ったメスゴリラはどのオスの求婚も受け容れず、種を超えた愛に生き――その相手と結ばれぬまま、失意の中で命を落とした。




 メスゴリラだった彼女が愛した者、その生まれ変わりがこの僕だ。




 ここにいるゴリラ達は、こちらの言葉を理解できても話すことはできない。


 けれどかつて、彼らの中にも人の言葉を操るまでに魂が成熟したゴリラがいた。


 今、彼はこの中にいない。僕に遠い過去のことを話し終えると、光に包まれて消えていったのだ。



 僕は、ウンチ投げを終えたゴリラ達が集まる玄関先を見つめた。彼らに囲まれ、抱き着かれ、それに笑顔で応えているのは――――。



郡山こおりやまさん……」


「リョウくん、郡山さんって誰? いきなり逃げたり、立ち止まったかと思ったらぼんやりして固まったり。さっきから変だよ?」



 ウンチ雨が止んで漸く足を止めた僕の手を、もう逃がすまいと強く握ったハルカが不思議そうに問う。


 そう、ハルカにはゴリラ達が見えていない。彼らが、自ら彼女に存在を知られないよう仕向けているからだ。


 その辺の地縛霊とは比べ物にならないほど高位の霊である彼らは、影ながら彼女を守る隠密騎士になることを選んだ。危険が迫ればそっと教えるようだけど、ハルカはそれを勘や偶然だと受け止めている。


 今夜彼女がここに来たのも、彼らがこっそりと誘導したからなのかもしれない。



「ハルカ、玄関に何か見える?」


「ううん? 『リョウくんの力の影響』で特攻服の女の子とか、お婆さんとか、おじさんとか女の子とかは見えたけど……あっちには何も見えないよ? 何かいるの?」



 ああ、やっぱり。



 彼女に確認を取ると、僕は再び郡山さんに目を向けた。



 愛する彼女を影で支える。そのルールは、『こちらの世界』から『あちらの世界』に行っても変わらないらしい。



 ううん、きっと変えないと決めたんだ。



 僕の視線に気付いた郡山さんは、照れ臭そうに頭を掻いてみせた。



「もう行かなくては。お前達、これからも頼んだぞ」



 久々の対面にむせび泣く仲間達に力強く告げると、彼は行かないでと縋る皆の手から抜け出し、僕とハルカのところにやって来た。


 けれど彼は何も言わず、深々と頭を下げただけだった。


 後頭部の白髪が、僕の目を射る――これは、恐らくシルバーバックの名残。



 父さんの言っていた『出世』の成果かどうかまではわからないけど、『あちらの世界』でこれまで積み重ねてきた徳が認められ、人の姿を得た郡山さんは、何より僕の成長を確認したかったんだろう。


 彼女を大切にしているか、彼女を守れる男になったか、愛しい彼女を託せる相手であるかどうか。それが彼にとって、一番の気がかりだったに違いないから。


 郡山さんは静かに僕達の前を通り過ぎ、門から外に出て行った。このまま『あちらの世界』に帰るつもりだ。



 行ってしまう。


 ハルカをずっと守り続けてくれた、僕をハルカに出会わせ僕に託してくれた、あの人……いや、ゴリラ……いやいや、元ゴリラさんが。



 そう、彼は僕の――。



「ハルカ、ごめん! ちょっとここで待ってて!」



 ハルカの手を解き、僕は慌てて郡山さんを追いかけた。



 こんなお別れ、嫌だ。



 また会えたら伝えたいことがたくさんあったのに、何も言えないままお別れするなんて……絶対に嫌だ!

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