八月の怪

おかえりなさい(一)


 毎年、八月の上旬になると僕の元へ一通の手紙が届く。

 大学入学をきっかけに、今春からアパートで一人暮らしを始めたのだけれど、それは変わらないようだ。


 郵便受けに入っていた白い封筒を取り、僕は溜息をついた。手紙は、小学生から高校卒業まで過ごした施設から転送されていた。


 差出人の名前はない。細長い封筒には、白い一枚の用紙が入っている。



『準備は整っております』



 綴られているのは、このたった一言。出力する環境が変わるせいか、フォントに違いは多少あるけれど、印字された文字は判で押したように毎年変わらない。


 ぐしゃり、とこれまた毎年のように握り潰したそれをゴミ箱に捨て、僕はローボードの棚を開けた。そして、二段目の奥底にしまってある小さな箱を取り出す。


 蓋を開くと、キーホルダーも何も付いていないシンプルな鍵が僕を出迎えた。


 およそ一年ぶりの逢瀬。一年にたった一度だけ使われる、大切な大切な僕の――――。




「ねえぇぇ…………それぇぇ、なぁぁにぃぃ…………?」


「ひいっ!?」




 突然、背後からおどろおどろしい声がして、僕は胡座の姿勢のまま飛び上がった。その弾みで足がこんがらがり、無様にフローリングへと叩き付けられる。


 したたかに打った後頭部をさすりさすり振り向くと――――閉めたはずのクローゼットが開いていた。



 それだけではない。


 細い指がクローゼットの扉を掴み、ギギギ、と音がするほど強く爪を立てている。



 そして恐怖で凍り付く僕目掛けて、中から何かが四つん這いで飛び出してきた!



「ひょぃぃぃやぁぁぁ!!」



 情けない悲鳴を上げ、僕はひっくり返った。

 白いワンピースを纏った『それ』は僕に馬乗りになり、長い髪の隙間から覗く目でこちらを睨んだ。


 あ、これ映画で観たことある……目が合った瞬間、呪いで死ぬやつだ!



 じゃなくて!!



「ハ、ハルカ!? 一体いつからクローゼットに……」



 涙目になりながらも、僕は某ホラー映画の主役より恐ろしい存在であるその人の名を呼んだ。


「あぁん? 質問してるのは、あたしなんだけどぉぉ? それぇ……鍵だよねぇぇ? それにこの手紙は、何なのかなぁぁ……?」


 いつの間に拾い上げたのか、僕が捨てた便箋を広げて突き付け、僕の恋人である彼女――――芳埜よしのハルカは、背筋が寒気で氷結しそうなほど恐ろしい声で尋ねた。


「その鍵はぁ、どこの誰のお宅のものなのかなぁ? で、この文面……どこのどいつがぁ、何の準備をしたのかなぁ? 何で隠してたのかなぁぁ? どうしてぇ、彼女のあたしにぃ、秘密にしてるのかなぁぁ……?」


 瑞々しい果実みたいにふっくらとした可愛い唇が紡ぐのは、呪詛の如き詰問。


 ハルカは普段こそアイドル飛び越えて天使のように可愛い彼女なのだが、僕に疑惑が生じるとこのように闇堕ちする。


 疑惑といっても、ブサくてダサくてモサくてショボい僕なんかに、浮気する甲斐性もなければ相手する人だっていない。彼女が心配性なだけだ。


 いや、心配性なんて言葉じゃ片付けられないほどのレベル。そう、ハルカは俗に言う『束縛女』なのだ。


 こっそりクローゼットに忍び込んでいたのも、僕の行動の抜き打ちチェックのために違いない。部屋と玄関に監視カメラを取り付けられたけれど、トイレやバスルームに設置することだけは断固として拒んだからね……。その代わりに、こうしてたびたび潜入捜査することにしたんだろう。



 かといって、文句など言えない。言えるわけないじゃないか……だって、こんなに怖いんですよ!?



「その鍵とこの手紙は何なんだって聞いてるんだよぉぉ……。女かぁぁ? 女なのかぁぁ? 隠してるってことは怪しいよねぇぇ……? 名前はぁぁ? 住所はぁぁ? 連絡先はぁぁ? 会って、どちらがリョウくんに相応しいか、生き残り賭けて闘いたいからさぁぁ、教えてぇぇ……?」



 長い睫毛に縁取られた色素の薄い大きな瞳には、明確な殺意が既に満ち満ちて、溢れこぼれていた。

 容貌は天使、しかし纏う空気は悪魔。悪魔というより魔王。可愛いけれど怖い、怖いけれど可愛い。可愛いけれど、やっぱり怖い! とてつもなく怖い!!


 ひぃぃぃ……これは相当怒ってるぞ。


 このままじゃ無為なるデスゲームの開幕と共に、僕の寿命消費期限切れも待ったなしだ!!



「ちちち、違うんです! こここ、これは……あのっ、実家の鍵で、その手紙は親戚からのものなんです!!」


「…………実家?」


 途端にハルカは闇の支配から解放され、代わりに憂いの表情を浮かべた。


「僕が毎年、お盆になると実家に帰ってるのは知ってるよね? その家をずっと管理してくれてる人がいて……ええとね、ぶっちゃけると母方の親戚なんだ。実は施設に入る前に、一度引き取ってくれたことがあったんだよ。でも……そこで、いろいろあって」


「いろいろあったって……もしかして、リョウくんの『能力』に関係してる、の?」


 躊躇いがちに尋ねる彼女に、僕は頷いてみせた。


「僕のせいで、皆にすごく怖い思いをさせてしまったからね。もう顔も見たくない、関わりたくないって言われたよ。あの家も本当は売りたかったようだけど……それについても、まあ、いろいろあって」


 ハルカには、僕のこれまでについて様々なことを伝えてある。両親に先立たれたことも、施設で育ったことも。


 更に『おかしな能力』を持ち、そのせいでずっと孤立していたことも。


 けれど、施設に入る前の事情を話すのは初めてだった。



「二度と会うことはないだろうけど、感謝してるんだ。それと同時に、申し訳なくて。仕方ないとはいえ、誰も住んでない家をずっと管理してもらってるんだもん。早く一人前になって、僕が引き継いで、関係を完全に断つのが唯一の恩返しだと思ってる」


 自嘲的に笑った僕を、ふわりと温かな感触が包んだ。


「そんなことがあったんだ……ごめんね。あたし、何にも知らなくて」


 両腕を僕の首に回して抱き包み、ハルカがそっと囁く。


「ハ、ハルカが謝る必要なんてないよ! ちゃんと説明しなかった、ぼぼぼ僕が悪いんだ! たたったった、たらったったった、大切な彼女にっ、誤解させてしまうような行動を取った、僕こそごむぇんねん!!」


 肝心なところで噛んだのは、もちろん申し訳なさもあったけど……それ以上に!


 オパーイ!

 軽く上げてたマイライトハンドに、めっちゃいい具合にハルカズ・ライト・オパーイが乗ってしまったよう!!


 やっわらか〜! もっちもっちのむっにゅむにゅ〜!


 推定Eカップ、掌からはみ出るほど大きくて重量感あるのにエアリーな触り心地が堪りません! EカップのEは、いいえっちのE! E、いい、イイー!!


 このような素晴らしきオパーイを持つハルカは、天使を通り越してもはや神! えっちを司る、えっち女神だ!!



 この最高すぎる幸せに、もっと浸っていたかったのだが。



「……リョウくん、どうしたの!? 上顎の骨が外れて藻掻き苦しむ、ひょっとこみたいな顔になってるよ!? どこか痛いの!? 苦しいの!? もしかして熱中症!?」



 体を離したハルカが鼻の下を伸ばした僕の顔を見て驚き慄き、叫び声を上げて慌てふためき、救急車を呼ぼうとしたせいでオパーイ堪能どころではなくなってしまった。



 わかってたけど、僕ってつくづく不細工なんだなぁ。普段もブサイクなのにヱロ顔は更に酷かったらしい。ブサイクを更にブサイクに歪めた面を晒してしまってごめんよ……。




 僕、結城ゆうきリョウは、救急車案件レベルのブサイクというだけでなく、頭も要領も悪い上に超絶コミュ障で友達も少ない。おまけに奨学金で何とか学校に通わせていただいてる、貧乏底辺大学生だ。


 極め付けに『おかしな能力』まであるという、まるで曰く付き物件のような存在――それが僕なのである。


 そんな僕にとっての唯一の光は、芳埜ハルカという天使みたいに可愛い恋人。ハルカは僕とは正反対。顔もスタイルも抜群で、頭もセンスも良い。何でもそつなくこなしてしまうし、なのに気取らず誰とでも気さくに打ち解けるから、どこにいても人気者になってしまうタイプだ。


 陰気で根暗で、気の利いた言葉も言えなければ愛を示す行動も取ることができないこんな奴を、何で好きになってくれたんだろう? といつも思うけれど、ハルカは嫉妬で闇堕ちするほど僕のことを想ってくれている。


 それはもう、度を超えすぎてドン引くくらいに。


 だから彼女にも、いつか見せてあげたいんだ。僕が生まれ育った場所を。

 そして――――僕を生み育て、先立ってしまった両親を。



 でも、それはまだまだ先の話。



 大学を卒業して就職して、奨学金を返しながらあの家を僕が受け継ぎ、それから最高の舞台を整えた上でハルカにプロポーズしてOKがもらえたら、その時に…………って、うわあ、想像しただけで道程の遠さに気まで遠くなりそう。まるで夢物語だ。



 でも、これだけは夢物語で終わらせたくない。


 小さな願いごとはたくさんあるけれど、この夢は僕にとって何より大切なものだから。

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