七月の怪

山の幸フルコース、怪異風味(一)

 いつの間にか、全身にまとわりつく湿気は晴れ、代わりに昼夜問わずうだるような熱気が世界を包むようになった。


 気が付けば、もう七月下旬。

 そんな季節の移ろいすら忘れるほど、僕は切羽詰まった日々を送っていた。


 大学前期の試験期間に突入したのである。


 おかげでこの一月ほどは、寝る間も惜しんで必死に勉強する毎日。先月から始めたアルバイトも休み、学生の本分に集中させていただいている。


 たかがテスト、されどテスト。僕がこうして普通の人以上に頑張らなきゃならないのは、頭も要領もとてつもなく悪いからだ。


 初めての一人暮らしでバタバタしてたせいもあったけれど、それを言い訳にして地道に復習しなかったことを悔いても後の祭り。思えば昔から、バカのくせに宿題を後回しにするタイプだったっけ。おかげで、夏休みの最終日には毎年泣いたもんだ。


 はあ……己の学習能力の低さを痛感して、自分で自分が嫌になる。


 こんな感じで自己嫌悪に陥りながら、大学に入って初めての七月は、テストやらレポートやらに追われ過ぎ去ろうとしていた。


 海水浴やらイベントやら遊びの話で盛り上がっている周囲を見ると、羨ましい気持ちにならなくもないけれど……誘惑なんかに負けてられない。


 ここでしっかり単位を取っておかないと、後期の授業にも来年からの専攻コース分けにも響く。それに何より、僕と違って頭脳明晰で優秀な彼女に置いていかれたくないのだ。


 愛する彼女と一緒に卒業して、相手のご両親にも納得していただけるような仕事に就き、いずれは給料三ヶ月分を込めた指輪を用意して、最高にロマンチックな舞台でプロポーズを…………って、バカバカ!


 妄想してる時間なんてないだろ! 夢を現実にしたいなら、手を動かせ!!


 現実逃避しかけた自分を叱咤し、僕は改めてノートパソコンに向き合った。画面に映し出されているのは、明日提出期限のレポート。これさえ書き上げれば、テストとの戦いは全て終わりとなる。


 授業でもらったレジュメやノート、そして参考文献とにらめっこしながら、遅々としたスピードで文字を入力していると――――インターフォンが鳴った。



「こんばんは! お邪魔しま〜す」



 僕の返事を待たずに鍵が開かれ、続いて澄んだ高い声が玄関から響く。


 部屋に入ってきたのは、アイドルすら霞みそうなほどの超絶美少女。


 彼女こそ、僕がこんなにも頑張ることのできるエネルギー源――マイスウィートハニー、芳埜よしのハルカである。


 壁の掛時計を見てみれば、時刻は既に夜の十一時過ぎ。


 いつもこうしてバイト帰りに顔を出してくれるんだけど……もうそんな時間になっていたとは。彼女が来る前に終わらせるつもりだったのに、全然進められなかったよ……。



「リョウくん、お疲れ様。どう? 進んだ?」


「あ……うん。ぼちぼち……」



 天使のような笑顔を向けられた僕は、眩しさのあまり目を逸らして俯いてしまった。情けないことに、付き合って数年経つというのにいつまで経ってもハルカの可愛さに慣れられないのだ。


 いやいや、彼氏の贔屓目なんかじゃなくて、とんでもなく可愛いんだよ? すっさまじく可愛いんだよ?


 色素薄めの大きな瞳はトパーズ、ふっくらと滑らかな曲線を描く頬はピンクパール、ほんのり赤みを帯びて艶めく唇はローズクォーツ……と、どのパーツを取っても宝石級に美しい。

 その美パーツを最高に女の子らしく、最強に可愛らしく配置したのが、ハルカの顔なのである。


 可愛いだけじゃないぞ?


 ふわふわのロングヘアをアップにしてるから、細い首筋がモロ見えでとってもえっち。


 しかも……カーディガン脱いで、白いキャミワンピ一枚になっちゃってるんですよ!? 推定Eカップの胸がボバァァーンですよ!? 細い腰がキュィィーンですよ!? 生足がスラァァーンですよ!?


 こんなに可愛くてえっちな生物を直視したら、ハルカ性熱中症になってしまうじゃないか!!


 そんな僕のえっち乱れる心など知らず、ハルカはそっと背後から身を寄せ、パソコン画面を覗き込んできた。



「んー、どれどれ……もう半分くらい、かな? この調子なら、朝までには終わりそうだね」



 ウホーイ! オパーイが背中に当たってる!

 おっぱいラッキー、いっぱいハッピー!!



「リョウくん、今夜も何も食べてないんでしょ? すぐに何か作るから、待ってて」



 耳元にそっと優しく囁くと、ハルカは立ち上がってキッチンに向かっていった。


 ファビュラスオパーイのバックタッチ攻撃から解き放たれた僕は、残念なような安心したような、でもやっぱり残念な気持ちで彼女の後ろ姿を眺めていた。しかし、はっと我に返り、慌ててパソコンに向き直る。


 何としても、これだけは仕上げなくちゃいけない。同じ授業を選択していた彼女は一時間で書き終えたというのに、僕の方は三日もかかってるんだ。これで間に合いませんでした〜なんて情けない結果になってしまったら、今度の今度こそ愛想尽かされるかもしれない。


 ハルカが食事の支度をしてくれている間に、少しでも進めようと奮闘していたら――パソコンのモニターの背後から、ニュッと白いものと黒いものが出てきた。



「ひょうっ!?」



 ビックリして、僕は情けない声を上げてしまった。



「リョウくん、どうしたの……って、何それ?」



 リビングに飛び込んできたハルカも、ポカンとして固まる。


 テーブルに置いたノートパソコンの向こう側に、二匹の動物が乗っかっていたのだ。


 一匹は、ふてぶてしいまでにむっちり太った白い猫。もう片方は、パグのミックスと思われる小さな黒い犬だ。



 しかし普通の動物とは違い、薄っすらと透けている。つまり、『生きたモノ』ではないというわけで――。



 あれ? こいつら、確か……。



板垣いたがきさんと君枝きみえださんの……元ペット、だよね?」



 ハルカの問いかけに、僕は頷いた。



 この二匹は、バイト先のファミレスで僕に良くしてくれる先輩二人の守護霊だ。ハルカも同じところで働いているから、仕事帰りの彼女にくっついて来たんだろう。


 何故、と考えかけて、しかし僕はすぐその理由に思い当たった。



「えっと、もしかして……僕のこと心配して、様子を見に来てくれたのかな? ご主人様の代わりに」



 デブカワ白猫はギニョー、ブサカワ黒犬はドゥボンと、それぞれ変な声で返事した。


 う、うん……見た目だけじゃなくて鳴き声も個性的なんだね。



 バイトにお休みをもらって、もう二週間以上が経つ。その間、二人には会っていないし、板垣さんも君枝さんも全く連絡を寄越さなかった。


 けれどそれは、新入りの後輩なんかどうでも良いと思っていたからではなくて、連絡を控えて僕が勉強に集中できるよう『友達』として気を遣ってくれていたからに違いない。



 外見はオタク丸出しで不気味だし、喋ると更にオタク剥き出しになって不気味さ倍増するけど……本当に優しくて良い人達なのだ。



 僕はそっと半透明の二匹に手を伸ばし、それぞれの頭を撫でてやった。本物の犬猫のモフモフとは違った、ホヨホヨとした頼りない感触が掌に伝わる。



「ありがとう。僕は大丈夫、だからご主人様達にも心配しないでって言ってもらえるかな?」


「ギニョー」

「ドゥボン」



 二匹はそう鳴いて瞳を閉じ、僕の手に自ら頭を擦り寄せて甘えてきた。ウフフ、可愛いなあ。動物ってやっぱり癒される。



 ついつい笑顔になって、モフモフならぬホヨホヨを楽しんでいたら――――地獄の底から湧き出たようなおどろおどろしい声が、鼓膜を揺らした。




「お前らぁ…………何、勝手にあたしのリョウくんに頭ナデナデされてんのぉ……? 彼女のあたしですら、まだそんなことしてもらってないんですけどぉ……?」




 恐る恐る顔を上げてみると――――可愛らしいエンジェルだったはずの彼女は、暗黒のオーラに包まれ、恐ろしいデーモンに成り代わっていた。


 やばい……嫉妬させた!

 束縛クイーン、闇ハルカの降臨だ!!



「ハハハ、ハルカ、お、落ち着いて! あ、相手は動物だよ?」


「種族なんて関係ないでしょぉぉ……? 世の中にはねぇ、無生物と結婚する奴だっているんだよぉ……? 愛を止める壁なんて、どこにもないんだよぉ……? つまりこいつらはぁ……あたしの敵なんだよぉ……。したがって抜け駆けした責任をぉ、速やかにぃ、取ってもらわなきゃならないんだよねぇ…………」



 普段は優しくて明るくて気が利いて、抜群の容姿も相まって、男女問わず誰からも愛される完全無欠の彼女――なのだが、しかしその裏にはこのように『超束縛気質』な一面を持つ。


 彼氏のスマホチェックは当たり前、彼氏の部屋には監視カメラ設置、彼氏に少しでも不審な点を発見したら問い詰め追い詰め、責め立て攻め立て、奈落にまで闇堕ちする――――それが、ハルカの本性なのだ。



 言っとくけど、僕が超絶イケメンでモテすぎて心配かけてるわけじゃないからね?


 むしろ逆だからね?


 死にかけて半分腐った魚みたいな顔だし、暗くて寒い冬の日陰みたいな性格だし、キモがられて周りには避けられてるくらいだからね?

 ハルカが心配しすぎなだけで、浮気なんて一瞬たりとも考えたことないんだからね?


 僕にはずっと彼女しか見えてないし、彼女のことしか考えてないんだからね?



 誰彼構わず嫉妬して、あらぬ疑いをかけるのは今に始まったことじゃないけど……ふれあいの対象が動物でも容赦なしなの!?



 お願いだから、包丁持って凄むのやめて!


 美少女に刃物って組み合わせ、素晴らしく怖いよ!


 今夜の料理は『彼氏のフルボッコたたき、犬猫オバケの血涙ソース添え』にするつもりですか!?



 ほら、オバケ猫もオバケ犬も恐怖で縮こまって――――なかった。



「きゃっ!?」



 ハルカが悲鳴を上げる。


 テーブルにいた二匹が、事もあろうか彼女に飛び移ったのだ!


 命知らずにも程がある……ってオバケなんだっけ。ええと、怖いもの知らずにも程がある!


 バカバカ、何やってんだ!

 相手は武器を装備した魔王なんだぞ!?


 このままじゃ、友達の守護ニャンコと守護ワンコが文字通り八つ裂きにされてしまう!!



 慌てて彼女を止めようと、僕は立ち上がり……かけて、止まった。



「ギニョッフ、アナタ可愛いわねぇ〜。心配しなくても、アタシ達は敵じゃないわよぉ〜? だから安心なさいなぁ〜」


「ドゥボヌフ、彼氏に一途なのねん? この子なら大丈夫よん、アナタみたいに可愛い彼女を裏切ったりしないからぁん!」



 ……は?



 片膝だけ立てて半端に開脚するという『エッサッサ』の失敗例みたいなポーズで見上げた先では、ハルカの右肩と左肩にそれぞれ乗った猫と犬が、オッサンの裏声みたいな珍妙ボイスで楽しげに話している。



 こ、こいつら、人の言葉を喋れるの!?


 何だよ何だよ、それなら早く言ってよ!!



「あ……えっと、ありがとうございます?」



 僕と同じく面食らったせいで、嫉妬の炎がかき消されたらしい。ハルカは素に戻り、何故かとんちんかんにお礼を述べた。



「ギニョニョニョ、謙遜しちゃってぇ〜。それにしても、アタシと同じ猫毛なのにツヤがキレイねぇ〜? ヘアケアは何使ってるのぉ〜?」


「ドゥボルフォフォ、エリザベスったら相変わらず美容マニアねぇん。キレイの秘訣は恋よん、恋! ねえん、アナタ達、どこまで進んでるのぉん?」



 二匹がキャッキャウフフ、ギニョギニョドゥボドゥボと恋バナ女子トークを始めようとしたところで――――我に返ったハルカが、低く尋ねた。



「お話を窺った感じですとぉ……お二方はぁ、女性なんですよねぇ……? あたしにくっついて、リョウくんに会いに来たということはぁ……やっぱり彼にぃ、気があるから、なんじゃないですかぁ…………?」



 鎮火されたかに思えた嫉妬ファイヤーは、完全に消えてはいなかった。


 燻る灯火に新たな燃料を投下され、不死鳥の如く闇ハルカ――今一度の再降臨である!



 しかし二匹は、そんな彼女をまたカラカラ笑い飛ばした。



「そうねぇ〜、『体』は微妙に男の部分も残ってるけど『心』はそこらの乙女より乙女だから、心配するのもわかるわよぉ〜。でもアナタの彼氏には全く興味ないわぁ〜。ヒラメ顔だけどヒラメじゃないしぃ〜、本物のお魚より猫缶の方が好きだしぃ〜」



 あ、なるほど。女性口調なのにオッサン声なのは『元はオスで去勢済』だからなのか。


 このオカマっぽさがそのせいなのか、先天的なものなのかまではわからないけど。



「あらん、アナタの彼氏がダサくてモサくてイモくてブサくてショボくて、陰気臭くて辛気臭くてドン臭くてモブ臭くてウンコ臭そうだからじゃないわよん? アタシ達、二次元専門なのよねん。二次のイケメンじゃなきゃ心が動かないのよぉん」



 うっわぁ、飼い主がアニメオタクだとペットもそうなっちゃうのかぁ。


 って、何気にひどいこと言ったよね!?


 ほぼ当たってるけど、ウンコ臭そうだけは撤回してほしい! お風呂はもう入ったし、ちゃんと毎回ウォッシュレットしてるし!!



「ギニョッ! 忘れてたわ、今夜は推しアニメの放映日じゃなぁ〜い! 帰るわよぉ〜、アンジェリーナ!」


「ドゥボッ! やっば、もうそんな時間なのん!? 全速力で走るわよん、エリザベス!」



 しかし、僕が不平を申し立てようとしたのを見計らったかのように、二匹は掛け時計を見てハルカの肩から飛び降りた。



「それじゃ、結城ゆうきリョウ殿、だったかしら? 王子には元気でやってるって、そこはかとなく空気で伝えておくわねぇ〜!」


「アタシの殿下にも何となぁく伝えておくわぁん! それと芳埜ハルカ殿、アナタの『イケメン守護霊様達』によろしくねぇん!」



 慌ただしくお別れの言葉を告げると、エリザベスなる白いデブ猫霊とアンジェリーナなる黒いブサ犬霊は玄関扉に突進し――そのまま突き抜けて、消えてしまった。



 ヒョロ長オカッパ眼鏡の板垣さんが『王子』、太っちょサイコロ体型で坊っちゃんカットの君枝さんは『殿下』、か……。


 どちらも熱く激しくオタ臭くて、とても二十二歳のフレッシュガイとは思えない雰囲気なのに、僕の扱いはそれ以下のウンコ臭そうなショボーイ、か……。



 うう……動物にまで小馬鹿にされるとは。正直、自分のレベルの低さにがっくりだ。



「変な子達、だったね。板垣さんと君枝さんにそっくり」



 玄関扉を見つめていたハルカは呆然と呟き、それから僕の方を向いて尋ねた。



「ね、あたしに『守護霊』なんているの? 『見える』はずのリョウくんからも聞いたことないけど……何か変なのに取り憑かれてるのかな?」


「さ、さあ? 僕にはわかんないし見えないよ? 気にしなくても大丈夫、じゃないかな……?」



 不安げな眼差しを送る彼女に、僕は曖昧に笑って濁した。




 僕、結城リョウには、『普通の人には見えざるモノ』が見える。それだけでなく、この能力が周りの人に影響を与えることもある。


 霊感皆無のハルカが、気付かずに連れてきたあの二匹の霊を僕と一緒に見ることができたのは、そのせいだ。



 そして――あの二匹が言っていた通り、ハルカには僕の能力などでは捉えられないほど高レベルな守護霊が多数憑いている。



 エリザベスとアンジェリーナは、その存在を感じ取ることができたのだろう。犬猫なのに人と話すことができるってことは、彼女達もかなり霊としてレベルが高いはずだから。



 けれどこれは、ハルカには秘密。


 彼女の守護霊達は存在を知られないよう、影から守り支えると誓っている。


 時折、僕の前にだけ姿を見せてくれることがあるけれど、決して自分達のことは話すなと口止めされているのだ。



 動物霊にすらディスられるほどハイクラスなショボさを誇る僕だけど、彼女の守護霊達は『恋人』として認め、応援してくれている。


 ちょっと……いや、かなり束縛が激しくて怖いところもあるけれど、それを差し引いてもハルカは僕にとって、勿体なさすぎるほどの恋人。


 僕も彼らのように、いつか彼女を守れるようになりたいのである。



 そのためにもまず、このレポートを仕上げてハルカに追い付かなくちゃ!


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