働く者、恋すべからず(十)

 店長と副店長はまだ残って仕事をしているようで、従業員用の裏口の鍵は空いていた。


 しかし、独特のリズムを刻む妙な音がする。不思議に思い、そっと休憩室の扉を開いてみると、大音量の音楽がわっと漏れ出た。


 音源は、突き当たりにある事務室。


 どうやら店長達は、音楽を流してそれに合わせて大声で歌いながら、仕事をしているらしい。


 奏でられるは、見事なハーモニー。


 音程の外し具合まで綺麗に揃ってますね……。双子って、音痴も似るものなのかなぁ?



 よし、これなら多少物音を立てても気付かれなさそうだ。



 耳を押さえて顔をしかめてるハルカに目配せして、僕達はそっと休憩室を通り過ぎ、ホールへと向かった。



 ここに来るまでに、僕は彼女に事情を説明した。


 僕の目が『原因となるモノ』を捉えられなかったのは、板垣いたがきさんと君枝きみえださんのせいかもしれない、と。彼らがいない今なら、見付けることができるかもしれない、と。



 するとハルカは、こう提案してきた。



『無駄にあちこち探すより、おびき出した方が早いんじゃない? あたし達なら簡単だよ。だって、コビガはカップルが大嫌い……なんでしょ?』



 その時に見せた意味深な目付きは、まるで天使の中に潜む小悪魔がチラリと顔を覗かせたみたいに背徳的で――ドキリとしてしまうほど色っぽかった。


 それと同じ瞳を僕に向け、ハルカは甘い声で囁いた。



「いつも働いてるとこに忍び込むって、ドキドキするね……すごく興奮しちゃう」



 するり、と半袖から剥き出した生の腕が、僕の首に回される。


 灯りは付いていないし、ロールスクリーンも下ろしているけれど、店内は非常口を示す誘導灯があちこちに設置されているため、それほど暗くはない。


 しかも至近距離なもんだから、彼女の表情がしっかりばっちり、とってもえっちに見える。



 うわぁぁぁ! 演技だとわかってても心臓バクバク頭クラクラしちゃうよ!!



「ね……あたしのこと、好き?」



 残像がかき消えるほどの勢いで、僕は激しく何度も頷いた。



「じゃあ…………いつもみたいに、優しくして?」



 踵を上げて、そっとハルカが目を閉じる。



 ひょいやっさーーーー!!


 キッキキキキキ、キスしろと!?


 キスして良いというのですかーー!?



 この状況につけ込んでる感じで、気が引けなくもないけど……い、いいんだよね?


 だって僕達、付き合ってるんだもんね!?



 己に言い聞かせて彼女の肩を抱き、僕が顔を近付けようとしたその瞬間――――鼻先を掠め、何かが凄まじい勢いで通り過ぎた。





「……お前…………許さない…………」





 いや、通り過ぎてなどいなかった。


 僕とハルカを分かつように、隙間に降ってきたそれは――――折れて伸びた首を捻じ曲げ、飛び出た目で僕を睨み付ける青年――――コビガの正体である、臼井くんの成れの果てだった。




 悲鳴を上げるより先に、臼井くんだったモノは僕にぐっと顔を寄せた。と思ったら、そのままずるり、と中に入り込んできた!



 しまった! と慌てても、もう遅い。


 油断していた僕を追いやり、臼井くんはあっという間に意識を支配してしまった。



 彼はこうして、気に入らないカップルを見付けては男の方の中に侵入し、意識を乗っ取っていたのだろう。



 この方法なら、板垣さんと君枝さんの力で弱体化させられても、簡単に目的が果たせる。

 操り人形のように意のままに男を動かし、好き放題『別れ話』ができる。



 僕みたいに相手の正体を知っているならともかく、多くの人は『他者によって別れさせられた』なんて思わなかったに違いない。


 つい弾みで言うつもりのない言葉を吐いてしまった、もしかしたら心の底で考えていたことだったのかも――――そう勘違いして、別れなくても良いのに別れてしまったカップルが何組もいるはずだ。




 クソ…………何て卑怯な奴なんだ!!




「……リョウくん? どうしたの?」



 いつまでもキスされないことを不審に思ったようで、ハルカが目を開ける。



 すると、臼井くんの意識が動揺するのを感じた。



 可愛いモロ好みドストライク超タイプ好き付き合いたい何でこんな奴と俺の方が――――様々な思いが、同化した僕の中に奔流する。




 まさか、こいつ……ハルカに惚れたのか!?


 ふざけるな! お前、死ぬほど好きな子がいたんじゃないのか!?

 あっさり乗り換えるなんて、最低だぞ!!




 それに――――ハルカは僕のものだ!!




「ハルカは、僕のもの……?」



 意志と関係なく、喉から勝手に声が出る。



「そうだよ? あたしはリョウくんのものだし、リョウくんはあたしのものだって、いつも言ってるでしょ?」



 不思議そうに、ハルカが問い返す。


 ギリっと胸が痛んだ。これは僕ではなく、臼井くんの痛みだ。



「リョウくんのもの……ね。ふうん、そっかあ」



 僕の体を乗っ取った臼井くんはそう言い、唇を嫌な感じに歪めた。



 やめろ! そんな卑屈な笑い方、ハルカの前でするな!!



 そう叫びたいのに、声を出すことも許されない。意識はあっても、体の主導権は臼井くんに握られているのだ。



「別れたい、って言ったらどうする?」


「…………え?」



 ハルカの瞳が、大きく揺らぐ。



 ハルカ、違う!

 こいつは僕じゃない! 僕の言葉じゃない!!



「他に気になる子ができちゃって、もう付き合えないって言ったら?」



 やめろ……やめろやめろやめろ!!



「そういう子が……いるの?」



 ハルカは俯き、泣きそうに潤んだ声で問い返した。



 胸がズキズキと痛い。これは、僕の痛みだ。対して臼井くんの方は、暗い愉悦に嬉々としていた。



「まぁね…………でも、君の態度次第では考えなくもないよ?」



 何だ? 何をさせるつもりだ?



 次に僕の口から放たれたのは、反吐が出そうなくらい最悪の言葉だった。




「服、脱げよ。君は俺のものなんだろ? だったらここで……いいよね?」




 自分の声で奏で、自分の耳で聞き、自分の頭でその意味することを理解した刹那――――凄まじい怒りが全身を灼いた。




 いいわけないだろ!

 ハルカはお前のものじゃない!


 ダメだ、ハルカ!

 こんな奴の言うことに従うな!!






 こいつは……こいつだけは、絶対に許さない!!






 怒りが頂点に達して、脳が真っ白になったその時――――横っ面を張り飛ばされ、僕は文字通り吹っ飛んだ。




 僕の――正確には臼井くんの――下劣極まりない命令に、耐え切れなくなったハルカに殴られたのかと思ったけれど……ハルカにしては、張り手のサイズ感が異様だった。



 顔面覆うくらいのデカさだったし。




 そんなことをぼんやり考えながら宙を舞っていたら、客席のテーブルに激突する前に、僕の体はゴツくてデカい何者かに抱き留められた。



 驚いて見上げると――――ゴリラがいた。



 ゴリラのような人ではなく、ゴリラだ。どこをどう見ても、正真正銘のゴリラだ。




 辺りを見渡せば、店内を埋め尽くさんばかりにゴリラがいる。




 右にゴリラ、左にゴリラ。

 上にゴリラ、下にゴリラ。




 『レストラン・カレル』は、パノラマでゴリラが臨める、絶景ゴリラビューが推しの『レストラン・ゴリラミレル』と化していた。




 パノラマ絶景ゴリラビューに呆然としていた僕だったが、すぐ我に返り、元いた場所に目を向けた。




 すると、そこでは――――ハルカが、臼井くんの顔面に、拳をめり込ませていた。




「おんどれぇぇぇぇ…………リョウくん使ってエロいことしやがろうたぁ、クソ以下のゴミ以下のクズ以下のカス以下だなぁぁぁぁ…………? リョウくんは『俺』なんて言わねえし、あたしを『君』なんて呼ばねえし、それに『結婚するまでえっちなことはしちゃいけない』って宣言しながら、おっぱいこっそりチラ見しては鼻の下伸ばして喜んでる、清らかムッツリ爽やかドスケベなんだよぉぉぉぉ…………。バレバレの嘘で、なめた真似しくさりけつかりよってぇぇぇぇ…………」




 強烈なパンチを食らったらしい臼井くんが、ヒッと声にならない声を漏らす。




 彼が心奪われた天使は、残念ながら、もうどこにもいない。




 彼の真正面に立っているのは、先程まで天使だったとは思えないほど恐ろしい存在。




 奈落の深淵よりも深く暗く重い殺意を全身に漲らせた、闇ハルカの超進化形――――真・闇ハルカだった。


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