誰が為に夜景は輝く(二)

 五月三日。午前八時五分前。


 僕はハルカを迎えに、自宅アパートから徒歩三十分ほどのところにある芳埜よしの家を訪れた。


 豪邸ばかりが並ぶこの辺りは『ゴールデンエリア』と呼ばれており、芳埜邸も周りに引けを取らないほど立派な御宅だ。広さ以上に家屋はもちろん、門構えから庭の造りにまでセンスが行き届いている。


 初めて家を教えてもらった時は『こんな良家のお嬢様と僕なんかが仲良くしていいはずがない!』なんてドン引きしたけれど、まさか付き合うことになるとは。人生って、本当にわからないものだ。



「おはようございます。結城ゆうきです」


「はぁい、今開けますね」



 インターフォンを押して名乗ると、自動で門が開いた。白御影石が敷き詰められたアプローチの向こうでは、玄関扉からハルカによく似た美女が顔を出している。



「おはよう、リョウくん。いつも迎えに来てくれてありがとう。今日は楽しんできてね」


「い、いえ……こちらこそ、ありがとうございます……」



 これでも、僕にしてはまともに受け答えできるようになった方なのだ。


 何たってこの美女は、ハルカの母にして『美しすぎるイラストレーター』と話題の芳埜よしのレイ様でいらっしゃるのだぞ!?


 僕も大ファンなのだ! 緊張するなという方が難しいのだ!



「リョウくん、おはよ! お待たせっ」



 母の背後から飛び出してきたのは、普段に比べるとアクティブな装いのハルカ。


 肩を大胆に露出したレモン色のオフショルダーのトップスと形良い足にピタッとフィットしたデニムが、朝日より眩しい。ふわふわのロングヘアは編み込みをお団子にしてまとめていて、華奢な首筋がモロ見えデリシャス!


 うわあ、こんな可愛い娘と二人っきりで車という密室に閉じ込められちゃうの? そんな幸福が、僕に許されていいの?


 天にも昇る気持ちに浮かれていた僕だったが、ぎこちない笑顔で愛する彼女を迎えようとして――一気に突き落とされた。



 天国から現実へ、現実を突き抜けて地獄へと。



「あ……おはよう、ございます……」



 ハルカの背後に、彼女の父である芳埜よしの剛真ごうしんさんの姿を認めたからだ。


 口を真一文字に結び、分厚い瞼の下から覗く目でギョロリと僕を睨む様は、まさに仁王像吽形である。


 わあ、初めてまともに目が合ったよー……やったー歩前進だー……なんて喜べませんって!


 うう、いつもは玄関扉から半顔覗かせてるだけなのに、今日は門の方にまで近付いてきたぞ……おかげで、これまでで一番怖い!


 車貸す代わりに一発殴らせろとでも言うつもりか? いや、ハルカとのドライブデートのためだ。一発くらいなら、耐えてみせる! でも、二発は無理かも……。


 などと考え、心臓バクバク冷汗ダラダラで固まっていたら。



「…………リョウくん、気を付けて行ってきてね」



 ハルカを挟んだ向こう側で、聞こえるか聞こえないかの声で低く呟くと、剛真さんはさっと踵を返して家の中に走り去ってしまった。


 へ……?


 初めて話しかけられたのに、その言葉は想像と全く違いすぎて――僕はポカンと口を開けたまま、返事をするどころか瞬きすら忘れてその後ろ姿を見送った。



「パパ、すごーい! よく頑張ったね! 今日こそリョウくんに話しかけるって意気込んでたんだよ〜。一つ夢を叶えられたね!」


「おかげで昨晩は一睡もできなかったみたいよ。フフ、リョウくんもビックリしたみたいね? ああんもう、そんな無防備な顔も可愛いわ! 私もいい感じに妄想が捗っちゃう!」


「もーダメだよ、ママ! リョウくんは可愛い顔も全部あたしのものなんだからっ!」


「あら、御本尊には触れないわよ。この萌えは、これから描く新作にぶつけるもの!」


「新作描くの? わぁい、楽しみ! 完成したら真っ先に見せてね!」



 目の前で、美人母娘がキャッキャウフフと戯れる。


 剛真さんもレイさんも僕のことが大好き、とは聞いていたけど、ハルカが僕を気遣って誇張してるものだとばかり思ってた。


 しかし大袈裟でも何でもなく、紛れもない事実だったようだ。


 じゃあ剛真さんのこれまでの態度は、本当に照れ隠しだったのか。


 そしてレイさんが、その捗る妄想とやらに任せ、僕をモデルに絵を描いているっていうのも。


 どんな絵なのかは、玄関先に飾ってあるのがその一つだとハルカに聞いて、この目で見たから一応は知っている。

 けど……あれ、僕じゃないだろ。美化されすぎて原型留めてないよ。あの絵のモデルが僕だなんて、誰に言っても信じてもらえないよ。


 しかしながらのそれでも、芳埜家の皆様には、僕がレイ先生の描くイラストのように美麗で幻想的なイケメンに見えているらしい。


 その証拠に、家に引っ込んだはずの剛真さんは玄関扉からこそっと顔を出し、ほんのり頬を赤らめつつ熱い視線を僕に注いでいる。


 萌えに耐え兼ねたのか、レイさんは僕を見つめながら、小脇に抱えていたスケッチブックを開いて何やら描き始めている。


 更にハルカはスマホを僕に向け、バシバシ写真を撮りまくっている。


 何このカオス……!

 このままここにいたら、僕の精神力が危ない!!


 僕は勇気を振り絞り、ハルカのスマホを握っていない方の手を取った。



「あ、あの、剛真さん、レイさん、ありがとうございます!  大切なハルカさんにお怪我などさせないよう、精一杯お守りしまもももむ!」



 ……また噛んだし。肝心な時に限っていつもこうだ。バカバカ! 僕なんて大嫌い!



 自己嫌悪に陥る間もなく、玄関の方からドゴォンという鈍く重い音が響き渡った。慌ててそちらを見れば、剛真さんが倒れている。


 唖然とする僕に対し、ハルカは『もーまたぁー?』と呆れ、レイさんは『やぁねー、パパったらー』と笑いながら駆け寄っていった。



 剛真さんが倒れる直前、可愛いぃぃぃ〜……と唸るような音声が鼓膜を震わせた気がしなくもなかったけれど――――僕は聞かなかったことにした。




「え……車って、これ……?」


「そうだよ。運転したことあるのは、これだけなの。気に入らなかったかな……?」



 ハルカが不安げに僕を見上げる。


 天使が上目遣いの小悪魔に! 小悪魔ハルカも可愛いぞ……ってそれどころじゃない。


 気に入るも気に入らないも、門に隣接するガレージには高級車ばかりが何台も揃っていた。ハルカが無造作に初心者マークを貼り付けたのは、中でも車に疎い僕でも知っているメルセデス・ベンツというやつだったのだ。


 美しくも重厚感溢れる漆黒のボディは、まるで新品のようにツヤツヤのピカピカ。


 こんなすんごい車、本当にお借りしちゃっていいの!? 道走らせて、埃付けちゃって大丈夫!? というか初心者マークなんて貼っていいのか!?



「……リョウくんが嫌なら、パパに言って変えてもらうよ。待ってて」


「いやいや、大丈夫! カッコ良すぎて見惚れてただけだから!」



 初心者マークを剥がして家に戻ろうとしたハルカを、僕は慌てて引き止めた。


 剛真さんは多分、まだ目覚めてない。彼のことが心配だったけれど、レイさんは『いつものことだから』と笑って背中を押してくれ、やっと車に乗るところまできたのだ。


 今の時点でもう、予定してた時間を大幅に過ぎている。できれば急ぎたい。


 それに剛真さんを叩き起こして、更に格上の高級車にチェンジなんてことになったら、申し訳なさすぎて、せっかくのお出かけも楽しめなくなってしまう!



「ホント? 無理してない? この車で一日デートするんだよ? 嫌じゃない……?」


「嫌じゃないよ、むしろすごく嬉しい。その……ごめんね。こんなカッコ良い車に乗れるなんて思ってなかったから、ビックリしちゃって」



 するとハルカは、心底ほっとしたような顔を見せた。かと思ったら、ぽすん、と僕の胸に頭をもたせかけてきた。



「……良かった。男の人は車にうるさいって雑誌で読んだことあって、心配だったの。初めてのドライブデートなのに可愛くない車だから、リョウくんに嫌われちゃうんじゃないかって……」


「ぼ、僕がハルカを嫌うなんてありえないよ! そんな心配しなくていいよ! ハルカも車も最高だよ!!」



 ハルカがそっと顔を上げる。色素の薄い大きな瞳は微かに潤んでいて――本当に不安だったんだとわかった。


 胸がキュンと熱くなる。


 ああ、何て一途で愛らしいんだ!

 やっぱりハルカは、僕の天使だ!

 スウィート・マイ・エンジェルだ!!


 デートに使う車にこれだけ気を使うくらいだ、きっと服やメイクだって選びに選んでくれたんだろう。僕だけのために。



「あのさ…………今日のハルカ、いつもより可愛いね。えっと、いや、いつも可愛いんだよ? けど、それよりもっと、何かこう、パワーというか、エネルギーが漲って、すごいのがもっとすごくなってるというか……」



 んもう! 褒めたいのにうまく言えない!


 パワーとかエネルギーとか、戦闘力の話してるんじゃないんだぞ? バカか?

 こんなんじゃ僕の方こそ嫌われちゃうよ……。


 項垂れかけた僕の頬に突然、柔らかくてほんのり湿った素敵な感触が走った。


 ハルカが、不意打ちでほっぺにチューしたのだ!



「えへへ、リョウくんが褒めてくれるから嬉しくて! それじゃ行こっか!」



 熱湯で茹でられるタコみたいに真っ赤になりながら、うねうね変な動きをする僕に、天使は一目見ただけで昇天しそうなほど甘い笑顔を向けた。


 いよいよ初めてのドライブデート開始。


 だが、しかし――――シートベルトを締め、いざ出発となった途端、スウィート・マイ・エンジェルはあっという間に悪魔に変貌した。



「うっしゃああああ! 今日もぶっ飛ばして行くぜぇぇぇぇぇぇ!!!!!」



 そう咆哮するや、ハルカはジェットコースターのような勢いで車を発進させた。



 ああ、ハンドルを握ると本性が出……いやいや、豹変するタイプだったのですね。彼女の新たな一面を発見しちゃったよ。嬉しいなあ。彼氏冥利に尽きるなあ。



 って、無理無理無理無理! 死ぬ! 死んじゃうぅぅぅ!!



 凄まじい速度と素晴らしいハンドル捌きで爆走するメルセデスは、そこらのアトラクションなんかよりスリリングでエキサイティングで――僕は恐怖のあまり、本気で昇天しかけた。


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