蝸牛

冴草

蝸牛

 飯山耳鼻咽喉科クリニックの一帯は、やたらとカタツムリの多い所だった。何故かは誰も知らないし、そもそも近所に住んでいたとしても、クリニックがとっくの昔に閉院していたのを知っている人間がどれだけいるのだろうか。

 かく言う僕も、あそこは開店休業状態だとばかり思っていたのだが、つい最近そうではないと教えられた。教えてくれたのは中学校で同じクラスのYで、「だからさ、今度あそこに入ってみようぜ」という誘いとセットだった。僕は渋っていたけど、断りきれないと初めからわかっていた。Yとは幼稚園の頃からの付き合いだが、言い出したら聞かないし、僕は内心「入ってはいけない」「してはいけない」を敢えて冒すスリルを求めていた。そんな自分たちがガキだとも理解していたけれど、それでもYと一緒に、夜中の公園でネズミ花火をしたり、学校帰りにこっそり買い食いをするのは、それなりに楽しかった。

 日曜日の深夜、クリニックの裏で待ち合わせた。建物は結構大きく、開業していた当時は院長一家がここの二階に住んでいたという。庭も大きく、外縁はブロック塀で囲われている。その塀を僕らは乗り越えて、中に侵入した。

 「そういえば、なんで辞めたの、ここ」

 Yに尋ねる。彼は「わかんないんだよ」と答えた。「なんか閉める前に、ちょっとした事故だか事件があったらしいんだけど、オカンも父さんも教えてくれない」

ふーん、と返事をしつつYの顔を見た。緊張しきっている。彼はいつもこうだ。自分で悪い事を提案するけど、実行する段になると弱い。でもいつもと違い、僕も緊張していた。こういう肝試しみたいなのは初めてだ。

 走って庭を横切る間、草むらに光る円を幾つも見た。目を凝らすとそれは無数のカタツムリで、懐中電灯を向けるとぬらぬらと光を反射した。何度かスニーカーの裏に感じた、くしゃっという違和感も、恐らくは彼らを踏み潰した際のものだろう。ごめんね、と手を合わせておく。

 庭の側からクリニックまで真っ直ぐ突っ切ると、大きな窓がある。カーテンは空いている。僕らはそこで一度立ち止まった。少し相談して、しゃがんだ姿勢から、「せーの」で立ち上がり、中を覗こうという事になった。僕はそれで満足したことにして、帰るつもりだった。多分Yもそうだった。

 緊張の一瞬だ。何事も、最後の締めをやる前はちょっと力が入る。なんだかんだで僕らは怖がりだから、覗いて何かいたらどうしよう、という不安もあった。でもこんな事を続けるのは、二人でいたら心強いからだ。

顔を見合わせ、頷きあう。

 「「せーの」」

 ぱっと起き上がり、ガラスの向こうを見た。

 診察室だろうか。部屋の真ん中に、巨大なカタツムリがいた。こっちを見ていた。明らかに遠近法を無視している。暗くて細かいところはわからないが、やけに生々しい肉色の殻は硬質な感じはしなかった。静かにこちらを窺い、角を振っている。

僕たちは怖いだとか、それどころではなく、ただその神々しい姿に見入っていた。一方で、頭のどこかでは、見てはいけないものだということもわかっていた。Yは隣で息をするのも忘れたようだった。お互い震えが止まらなかった。

 長いのか短いのか、実際には恐らく数分がゆうに経過したであろうその時、ゆっくりとカタツムリが角を回し始めた。反時計回り。同時に、左耳の奥に違和感を覚えて掌で押さえる。Yも同様に、右耳を塞いでいる。

 角の回転はますます早くなる。と、先程とは異なる感覚に思わず悲鳴を上げる。耳の穴から何かが這い出る感じ。押し付けた指の間から抜け出し、えらの所まで下りて貼り付くそれを必死に剥がした。懐中電灯で照らす。

 摘んでいたのは、小さな肉色のカタツムリだった。

 叫んだ。それを放り出し、Yの腕を掴んで走る。一緒になって叫んでいるのが聞こえる。うじゃうじゃ這う渦巻きを蹴散らして塀まで辿り着き、夢中でよじ登る。


 月曜日、僕は学校を休んだ。心配した母さんに事情を説明して、しこたま怒られ、そんなもの幻覚だろうとまで言われたが、一応病院には連れて行ってくれた。結果は何の問題もなし。母さんが電話してくれて、Yも休んだらしいことを知った。Yは火曜も学校を休んで、顔を合わせられたのは水曜日のことだ。顔色が悪かった。会うなり彼は、ごめん、変なところに誘って、と頭を下げてきた。僕は、別にとだけ答えた。なんだかお互い気まずくて、話をする気になれなかった。

 あれからしばらく経ったけど、現状何も起きていない。強いて言えば、なんだかYの声を聞かなくなったことくらい。何事か話しているのはわかるんだけど、不思議と脳まで届かないような感じだった。それは彼も同じのようだ。

 Yとはもうずっと遊んでいない。


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