第24話硝子の風葬
虚影ばかりが美しいこの国にあって、記憶すらもノイズが走り、その正誤の判断もあやふやになってゆく。失われた父の記憶を求めて、この辺境の島まで小舟に乗って波間に揺られてやってきたものの、瀑布のうちにありし日の父の横顔が重なって、やがて溶けてゆく。悔悟の念に押し負けて、首都から遠路を辿って着いたこの地には、かつて異教を逃れて隠れ住んだ人々の祈りと、そして散っていった命の痕跡が息づき、その重みに耐えかねて教会で頭を垂れてもわたしに残されたなけなしの信仰は、もはや天上の父を信じはしない。砕け散る瀑布の水滴のうちに、微かに水害で侵されたかつての街が浮かび上がり、やがて霧散してゆく。父の託したノートを胸に、ついにそれを紐解けないまま十年の月日が流れた。今ようやく開くとき、万年筆のブルーブラックの文字が滲んで、父の幾度となく修正を施された癖字のかすかな痕跡のうちに、彼の背負ってきたあまりに長い苦難と、この土地に刻まれた受難の歴史とが絡み合う。判別できる文字列を追ううちに、父はわたしに道を諭そうとしたことが朧げながらに浮かび上がり、市井の一人の男の胸の内に仕舞われたその道が、もはや時代によって滅び去ってゆくのを目の当たりにする。無辜であった、とは云わない。彼が蔑視した人々の列は、今なお増幅の一途を辿り、道幅いっぱいに広がって抗議の声を上げる。巡礼を終え、その声を首都にある窓の奥から聴きながら、わたしは硬く口を閉ざす。全面に張り巡らされた窓硝子が遮断しているのか、わたしを隔離しているのか、彼らを遠ざけているのか、多義的な性質を秘めて、硝子はそこにある。かつて爆風によって爆散し、人々の体の奥に根深く傷を残した破片は、風化という名の金継ぎが施されてわたしを覆っている。声にならない言葉を、父はノートに閉ざし、わたしは唇の奥に押しこめたまま地上35階の硝子窓の奥で膝を抱える。伝えるべき言葉は、すでに奪われている。そう、このテキストからも。わたしは父の故郷で採れた枇杷を剥いてフォークで口に運ぶ。その種子に閉ざされた記憶を、こじ開けないようにそっと取り出しながら。
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