第21話水の亡霊たち
忘却していたはずの影が亡霊となって立ち昇り、部屋を圧迫するほどに膨らんでいて、その真下にある寝台のうえで私はうめく。最後の言葉を遺して去っていった人々の群れが頭上で列をなし、葬送の音楽が鳴り止まない。ヴァイオリンで奏でられる短調の調べに合わせて、長い裳裾を引いて亡霊たちは行き過ぎる。その歩みは遅く、見えない足を掴んで引きずり下ろし、この寝台に括り付けて朝日に焼かれるまで眺めていたかった。呪わしい書物ばかりが並ぶ部屋に、小さな燭台があり、その光をもってしても影たちは消えずに歩みつづける。その顔はぼんやりとして明らかでなく、幾つもの男の、あるいは女の記憶がそこに重なってゆく。膨張する不穏な気配に押し包まれた部屋にあって、逃げる場所などどこにもない。扉はとうに浸水しているし、その泥水は未だ引く気配がない。寝台もまた水気を含んで重く湿っている。この水をもたらした豪雨はすでに去ったが、後には影ばかりが残って、私もそのうちのひとりではなかったか、と真白い寝巻きのレースで覆われた足先を見ても、そこに五指があり、自らの意のままに動かせる。その爪先に塗った空色のネイルもまだ色を留めている。濡れたカーテンを開いても闇ばかりが垂れ込めて、辺りは静まり返り、生き物の気配は絶えている。よろよろと起き上がり、机に溜め込んでおいたビターチョコレートをかじる。血の味に似た苦味が広がり、数日前に口の中を怪我していたのを思い出す。もうこのわずかな食料も尽きかけている。居間にいたはずの猫が影となって頭上を駆けてゆく。その尻尾に手を伸ばして体は宙を泳ぎ、足を滑らせて水飛沫が上がる。忌々しいほどに、生きている。ヴァイオリンの音はいよいよ高くなり、ピアノの音色がそれにつづいて連なってゆく。うるさい、と口走ったところで、窓の外にカンテラの明かりがゆらめいているのが見える。ヴァイオレット、我がすみれ、と私の名を呼ぶ歌がかすかに風に乗って聞こえてくる。その声の主は、すでにいない。明かりはやがて窓辺へと近づき、こちらを見つめる青い瞳に、生者の輝きを見出す。ここから出して、早く私を連れ出して。ヴァイオリンの音色を引き裂いて、私の喉から悲鳴がほとばしる。生体認証97618305、ヴァイオレット・エヴァ・レイン、そうですね? 青い瞳が問うに応じて、窓ガラスが割れる音が辺りに響く。亡霊たちは静かに水中へと溶けてゆく。最後に水音とともに跳ねた猫の軌跡をかすかに残して。
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