第20話水妖たちの歌

もはや何ものにも安寧を見出さないわたくしは、ひとり孤舟を漕いで夜更けの湖へと漕ぎ出す。眠れぬ夜の供に物憂い紅茶を淹れて、それを瓶へと注いだものと、日記帳を携えてきたのだった。水音だけを無二の友として櫂を動かす。やがて静かに舟は傾きはじめ、無数の腕がわたくしに向かって伸びるのを見る。水妖たちの宴がはじまろうとしている。そのぬらぬらと濡れた腕に抱かれて、長い髪に身を囚われて、いくつもの口づけを浴び、その小さな口に生えた牙で喉笛を食いやぶられれば、この孤独も癒えようか。異形の者たちが歌う歌の調べが大きくなる。すでに浸水をはじめた舟から紅茶の瓶が転がり落ち、水底へと沈んでゆく。日記帳につけた錠をこじ開ける間もなく水は記された文字を溶かしてゆく。五月の木漏れ日のなかでおまえと交わした約束を反故にしたこと、ついに果たされない夢の、途切れた記憶と、その日々に重ねてきた嘘のこと、もはや忘却の果てへ追いやった別離の痛み、そのすべてを記した紙はまたたく間に濡れて、言葉は魚の歌となり、水妖たちの元へと届く。彼女たちが即興で歌い上げてゆく記録のなかに、おまえの去り行く後ろ姿が浮かび、手を伸ばしかけたところで舟は転覆する。やがて無数の腕の抱擁がわたくしを押し包み、絶え間のない口づけと、彼女たちの歌に呑まれて私は窒息する。言葉を発することができないまま、わたくしの日記の一文は彼女たちの挨拶となり、赤子のご機嫌取りの歌となって遺される。もはや痺れて霞む白夜のなかで、おまえがゆっくりとこちらへと振り返り、その最後の言葉がはっきりと唇で伝わる。おかえり。水妖がかつて犯した罪の記述を延々と繰り返すなか、わたくしはおまえのたましいの故郷へと帰ろうとしている。いつしか辿ってきた道のりが、ふたたび交わるとき、おまえの口元にかすかな笑みが浮かぶのを見た。まもなくこの地も氷で覆われる。そう記した日記帳の、最後の頁が溶けてゆく。

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