第9話羽化

まえがき

この掌編は漆拾晶さんの「幻翅症」へのオマージュ作品です。


刳り舟で海へ流せば舟は木に姉は卵にかえりつづけた


という短歌を元に、以下の掌編を書かせていただきました。

改めまして快く承諾してくださった漆拾晶さんに感謝申し上げます。

以下、作品になります。


姉が死んだのは、世界が終わりを迎えた今年の夏のことで、秋になってもなお灰色に包まれた景色の中を僕は歩く。季節はとうに二分されて久しい。雨季と乾季。今年の雨季はずいぶんと長い。携えた二冊の本のタイトルはすでに文字がぼやけて、いずれふたたび天地をつなぐ大雨が降り注いで水に溶けるだろう。そうして何百万冊のもの本が水に浸食された。世界に冠たる電子図書館が所有する分館には、さながらノアの方舟のように古典籍から現代詩歌に至るまで、様々な紙の本が架蔵されていたが、触れる者もなく、訪ねる者もなく、息をひそめて銀色の繭のような書庫に眠りつづけている。そのしがない司書がさしずめ僕という人間で、勤務態度はきわめて真面目だと78%の評価を受けている。ちなみに小脇に抱えた本は僕が製本を依頼した私物だったが、その印刷所も今ごろ朽ち果てているだろう。惜しいことになった。姉が亡くなったのも、文芸書の製本が叶わなくなったのも、僕にとっては等しく喪失と呼んで差し支えない。長年にわたって研究者たちを支えつづけた学術書専門の老舗の製本所もついに潰えたとニュースになったばかりだ。そのニュースもまもなくネットの海に紛れて消え去った。そうして幾度も喪失を繰りかえしながら次の夏を待つ。雨季がめぐってくるたびに、世界はだんだんくずおれてゆく。その時には強固なプログラムで守られた電子図書館も沈没しているかもしれない。電子データを管理するAIの受付嬢が、水の中で増殖する未知のウイルスに浸食される日もそう遠くないだろう。彼女が「センシティブ」な情報としてネヴィル・シュート『渚にて』のアクセスを拒んだので、職権で侵入し、僕はその一部始終を知ることとなった。その晩はいささか睡眠薬を飲み過ぎた。「センシティブ」というレーティングを突破できるほど僕の神経は図太くなかったらしい。二十世紀はもはや遠くなった。深い眠りの中で姉の声を聞いた気がする。僕の名を呼んでいるのだか、あるいはフォーレのレクイエムを口ずさんでいるのだか、判然としない。いずれにせよ呼ばれるままに渚に出て、刳(く)り舟に横たわる姉を海へと流した。二度目の送葬は悪夢を呼び覚まし、舟は木となって海中の墓標となり、姉は「繭」よりも真白くてやわらかい卵へとかえっていった。陰鬱な灰色の風景の中で、卵だけが有機的な光を帯びていた。あの卵の中には、姉とともに無数の書物が小さく折り畳まれて羽化を待っているといいと願う。職業倫理に触れない、世界へのわずかばかりの望みとして祈る。目覚めた僕は薬が沈殿する重い体を起こし、冷蔵庫から卵を取り出す。こつんとガラスの器にぶつければ、姉とともに卵液にまみれた本たちが孵る気がした。

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