第8話 墨絵の猫
「お向かいの浪人さんが墨絵から出てきた猫を飼っているというんだが、見たいと思わんか?」
佐吉は床に就いた妻に薄い布団をかけてやりながら囁いた。
冬が近い。日の当たらない長屋暮らしの悲しさで、体の芯まで冷えるような日が続くようになった。病に冒されたおさよの体には障るだろうと、せめてもの心づくしに己の半纏も重ねてかける。
「浪人というと、文之助さまのことですか? 先日もうちの
文之助はかつて名のある藩に仕えていたという浪人で、嫁をもらっていい年頃にも関わらず、女を全く寄せつけず、趣味はといえば書画とあって、武士というより若隠居のような風情の優男。
酒も博打も遠ざけて、猫を愛でるのがもっぱらの楽しみだという一風変わった人物だった。佐吉の見世は小さいながらも代々書画に用いる墨を扱っており、文之助は客のひとりでもある。
その文之助が見世に訪ねてきた折に、
「あなた、また私をからかおうっていう魂胆なんでしょう?」
病に臥せるおさよの楽しみといえば、佐吉のこしらえる湯豆腐と、面白おかしい法螺話だけとあって、佐吉は妻に嘘か
おさよも夫の心遣いをありがたく思っているのだが、この話も法螺話だと勘ぐるのも無理はない。
「いやぁ、これが真らしいのだ。それも絵に使ったのはうちの見世の墨なんだと。宣伝にはもってこいだ。ちょっくらそいつをお借りして、見世番にすりゃあ、鼠は捕れるし客も来る。商売繁盛間違いなしだ」
「どうせ近所で拾った野良ですよ。文之助さまもお人が悪い」
夫婦が話している間に、黒猫を抱えた文之助が訪ねてきた。銭湯帰りの湯上がり風情で、着崩した藍染めの浴衣に覗く白い肌が艶かしい。
おさよは慌てて目を逸らしたが、そんな彼女にかけられた布団に黒猫がまろびこんだ。墨のように黒い和毛をおそるおそる撫でれば、猫はにゃあと鳴声を上げた。
「文之助さま、真なのですか? この猫がうちの見世の墨で描いた墨絵から出たというのは」
「真ですとも。試しにご覧に入れましょう」
文之助は机上の紙と筆を手に取ると、さらさらと猫を描いた。たちまち紙から先の猫と瓜二つの黒猫が現れ、彼の腕の中でごろごろと喉を鳴らした。
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