第7話仙魚記

 夢のあわいに見た女を、また見んとて寝たところで、二度とは会えぬものと知りながら、なおも春の暁に、眠りをむさぼる男がひとり。古物商からあがなった、海のものとも山のものともしれぬこいの絵を後生大事に床の間にかけ、憑かれたように日がな一日書斎に座し、書画を漁っては画中の鯉を愛で、琴を弾じてはまた見つめ、ついには池の緋鯉が妬んで干上がったと下女が噂するのもつゆ知らず、三年もの間を過ごしていた。朝餉夕餉に魚が出れば機嫌を損じるということで、小魚一尾膳には載らず、もっぱらいいと菜を食し、されど仏僧の徳にはほど遠い。いつの日にか鯉が眼前に現れて、己を背に乗せ、この俗世から離れて仙界へ連れ去ってはくれぬかと隠者になぞらえて遊び、またあくる日には鯉が千歳ちとせ百年ももとせに一度の美女に変じて共に歓を尽くすことを夢見て遊ぶ。美女は美女でも、傾国けいこく傾城けいせいの類いならよし、一度は時の趨勢に乗じて後宮に入り、のちに飽いて打ち捨てられた秋扇しゅうせんならばなおさらよし、否さらにじょうの上あり、すなわち……と、夢想の中に居を構えて微塵も動かぬとあって、親族からは遠ざけられ、縁談のひとつも持ちかけられず、若隠居と云えば聞こえはよろしいが、穀潰しと云うのが世間から見た姿であった。世間体をはばかり、他に芸のない身なのだから琴の腕を活かして弟子を取ればよかろうと父に諭されてからは、幾人かの弟子が出入りするようになった。さりながらそのうちのひとりが床の間にかけられた画中の鯉が夢に現れて絶世の美女に化けたと口にしたので、男は嫉妬にかられてこの弟子を破門してしまった。人の口に戸は立てられず、噂は隣近所にまで広まって、弟子たちはひとり、またひとりと離れはじめた。その中に木槿むくげという号の青年がいて、これがたいそう眉目秀麗で琴の筋もいいというので男も贔屓にしていたが、弟子をやめると云うので話を聞けば、己も鯉の美女と夢の中で交わったと云う。足はうおにしてぬばたまの髪は絹のごとく、幾千もの真珠を裸身に帯びて美しく、一声歌えば慈母の子守唄にも似て眠りの淵に誘われ、幼子のように乳を含めば桃の香が広がった。まさに夢にまで見た女のありように男は怒りに声を震わせて、琴の弦を小刀で断ち切り、返す刀で木槿の首を掻き切った。たちまち血しぶきが座敷を染めあげて、血の海に崩れ落ちた木槿を見れば、その髪は床に広がって波打ち、胸はしだいに乳房となって、足は鱗きらめく魚と化した。赤き血も白銀色しろがねいろに変じて、男は木槿を抱き起こして血にまみれた髪を梳き、ようやく夢にまで見た女を我がものとしたのだった。

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