第6話閑雅な復讐
S嬢へ
すべての美なるものに幸いあれと願うおまえの手には手錠のごとき腕輪がつけられて、主人の手によって鍵を外されるのを待っている。市井に暮らす絵描きにすぎなかったおまえがこうして飼われることになったのも、無名の画家たちがたむろするバーでの諍いに端を発したことだった。品評会で異端の烙印を捺されたおまえにしきりに酒を勧める一方で、自らは入選の誉れにあずかった絵描きはほくそ笑み、おまえの描く静物画を安宿の壁にもかからぬ代物だとこき下ろしたのだった。
種々の花が生けられたガラスのフラワーベースも、芳醇な香りが匂い立つような果物も、その横に描き込まれた髑髏の頭と、その眼窩からこぼれる宝玉や薔薇の類いによって貶められ、あるいは中世の装飾写本に置かれた死者の手によって弾じられた。ひからびて青ざめた手には大粒の忌まわしいホープダイヤモンドの指輪が輝いていて大いに不興を買ったし、深紅のハイヒールをしとどに濡らす潰れたラズベリーやワイルドベリーの数々とその下に踏みにじられた鴉の亡骸、その手前に描かれた陰惨なフォルムで殻をこじ開けられた胡桃と、それを歯をむき出しにして食む栗鼠の姿も、人々には受け入れがたかった。孔雀の羽が幾多も描かれた絵には、その一枚を食む真紅の唇だけが描かれて、暗黒の画面の中に浮き上がっていた。その唇にはラブレットと呼ばれるピアスが施され、鋭利で淫靡な光を宿していた。
傍で様子を眺めていた仲間たちも皆一様におまえを笑い、胸の悪くなるような酩酊感も相まって、おまえには小太りのゴブリンたちが酒宴を催しているさまが重なって見えた。醜悪きわまりない様相を呈したバーにあって、グラスを磨いていたバーテンダーは素知らぬ顔をしていたが、頼みもしないキス・フロム・ヘブンを差し出し、おまえは名前も知らぬままそれを干した。バーテンダーは悪夢のような宴をよそにおまえの手を取り、中指のルビーの指輪から連なるブレスレットをはめたかと思うと、「少々このお方を拝借します。どうぞ宴を続けてください」と告げた。その場に群れなしていた絵描きたちはおまえを侮蔑する中傷まじりの冗談を交わして笑いさざめいたが、バーテンダーはおまえの手を取って、カウンターの奥にある部屋へといざなった。
重厚感のある緋色の壁紙に囲まれた部屋には、おまえが十六歳のときから描きつづけてきた静物画の数々が飾られ、そのほとんどが画廊主に断られたり、品評会の出展に頓挫したものばかりだった。パンに事欠いておまえが細々と売りに出していたのを、このバーテンダーはひとりで蒐集していたらしい。もっともおまえはそれを知る由もなく、すでに上演が終わって久しいオペラのポスターや、安っぽい風俗画の数々とともに露店に並べられているのを、おまえはぐっと手を握りしめて見ていたが、買い手がついたという知らせが入っても満足な金にはならなかった。パンにスープの野菜を買えばたちまち懐は寒くなり、安アパートメントの屋根裏部屋で古ぼけた毛布を頭からかぶって暖をとる日々が続いていたのだった。
さてこの奇妙な画廊の中央に配された絵には銀食器のティーセットとともにアメジストの指輪をつけた貴婦人の手だけが描かれ、その手首はちぎれそうなほどに細やかなロザリオで戒められていた。ナイフとフォークからは鮮血がしたって美しい手を濡らし、ロザリオの先端には十字架が表わされ、磔刑に処せられたキリストの沈痛な面持ちも血にまみれて判別できなかった。聖書の上に描かれた白い鳩もまた真珠のネックレスで縛り上げられ、翼は力なく垂れていた。背景に掛かった画中画にはエデンの園が描かれていたが、あらゆる花々は
「あなたにはここで絵を描いてもらいます。私だけのための絵を。ここはあなたのアトリエであり、あなたという作品そのものになるのです」
バーテンダーはそう云っておまえの手に絵筆を握らせて、再びカウンターへと姿を消した。ひとり残されたおまえは、椅子の前に鎮座する年代物のキャンバスに向かい、今日も絵筆を走らせる。時折主人から差し入れられるものと云えば、季節の果物とチョコレート、そしてザクロのカクテルだけだった。甘美な食物とふつふつと胸の内にこみ上げる憎しみだけを糧として、描き出す静物画に毒を宿し、その毒がこの部屋を満たすまでおまえは一心不乱に筆を動かすだろう。いずれはたっぷりと毒をしたたらせたこの部屋が画廊の主人や仲間とは名ばかりの絵描きたちの前に開け放たれ、そのときはじめて彼らはおまえが復讐をなし得たことを知るだろう。数々の絵はキリストを尊ぶ人々の心を踏みにじり、ただ美を崇拝する狂信者となったおまえの信仰の証をここに見るだろう。ただ絵の中に信仰を閉ざし、己をもこの部屋に閉ざすことによって、おまえは誇り高き美の殉教者としてとこしえに名を留めることになるだろう。そしておまえがここから出る頃にはバーテンダーは、はだけた胸に髑髏とその眼窩からあふれる葡萄の果実を描きこまれて死んでいるに違いない。
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