第5話惜春記
かつて世を去った詩人の遺した書物には悪鬼羅刹が封ぜられ、さる私設図書館の地下深くで数世紀の時を経てなお眠りつづけていると聞く。その図書館には死せる人々が置き去りにしていった数億を越える本の数々が収められ、代々司書を務める白檀という家の子息が管理していると云う。香木もまた失われて久しく、白檀も
しかし今、私はおまえの遺した本を手に途方に暮れている。二十余歳にして世を去ったおまえを悼む父母から遺言と云い添えて本を預かったものの、大学で生物学を学ぶ私にしてみれば畑違いもいいところで、話は合わず、そりも合わず、ただ偶然にも生体番号が前後していたからという理由だけで母親同士が意気投合して幼なじみとなって十余年が過ぎた。利害もなければ情も薄い付き合いだ。多くの時間を共にしてきた間柄ではあったが、互いの心はついにぴたりと重なることはなかった。少なくとも私はそう思っている。
今だから云えるが、幼いころから秀でた兄に負い目を感じ、母親からの情愛の多くを兄に奪われてきた私は、たしかにおまえをうらやんでいた。両親にひとしく愛情を注がれて、何不自由なく育ったかに見えたおまえを。兄への、そして母への心に巣食う血への憎悪というものに無縁だったおまえを。おまえは父から受け継いだという万年筆を手に、いつも私に手紙を寄越したものだが、そのブルーブラックのインクは、清く気高いおまえの心を映じて、血の色に濁った私の心とは相容れないものだった。おまえが
本の表題には
仏教史を専門とするおまえの指導教官に連絡を取り、そこからつてをたどって白檀家の現当主にまで行き当たった。果たして目の前に現れた彼は、折目正しい挨拶ののちに私の手から日本霊異記を受け取り、そのまま白衣を翻したかと思うと終わりの見えない地下室の階段を下って行った。ひとり取り残されて、広大に立ち並ぶ本棚をぼんやりと眺めている、私は己の名が記された本を目の当たりにした。おまえは私にこの本を見せんがためにここに導いたのか。この名に託された秘密を、おまえと、そして忌まわしい私の母だけが知っていたというのか。その秘密を明かさんとおまえは私は
「僕は二十一年生きて、儚いとも虚しいとも思わないが、ただひとつ心残りがある。僕の両親は僕の本を燃やすだろう。彼らは悪人なのではない。根っからの善人だ。ただ彼らにとっては紙の本というものが目ざわりでしょうがないんだ。老い支度をするにはなおさら無用の長物と云ったところだろう。だから僕の墓標をきみの手で立ててほしい。
たしかにおまえはそう云ってほほえみを浮かべ、やがて長い眠りについたのだった。その顔に一切の翳りはなく、ああ、おまえはそうして死の床にあって親を恨むこともなく、おまえの母が手ずから生けたスイートピーの香りに包まれ、祝福された春の死者として逝くのかと、私の頬を敗北の涙が伝ったのだった。
荼毘に付された遺骨は、遺言によって桜の巨木の根元に埋められた。私はあと何度あの桜の下でお前を想えばいいのだろう。忘却がやすらぎをもたらすまで、たとえ夏が逝き、秋が巡って冬になっても、私の春は終わらない。この書物は私の春を終わらせてくれるだろうか。
私は沙石集と記された本にそっと手を伸ばし、ページを捲りはじめた。背後に差し込む日の光が白衣を翻した人影を刻みつけるのにも気づかずに。
「沙石、あなたをこの本に収めることをご友人はお待ちかねだったのですよ」
白衣を纏った男はふわりと笑った。
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