第4話患者番号08396

 二十一歳の彼の名は何と云うのだったか、今では誰も覚えていない。カルテに記された患者番号の他に彼を呼ぶ名はなく、08396と声をかければ、弱々しい声でかすかに「はい」と返すのだった。原因不明の病に徐々に冒されて、十余年にわたる入院生活と多量の投薬によって足は萎え、もはや満足に歩くことすらままならない。元はといえばさる高貴な家柄の血筋に連なる身とあって、はじめこそは着飾った親族たちが仰々しい手土産とともに見舞いに訪れていたものだが、今やその足も絶えて久しい。座敷牢の代わりにと、この白亜の病院に彼を押しこめたのだろうとおのずと知れた。花を手に友が見舞いに来る様子もなく、隣の病床に眠る顔ぶれが入れ替わっても、彼だけはひとり同じ寝台に横たわたっている。やせ細った体にはいかなる魂が宿っているのか、「はい」と「いいえ」の他には言葉を発さぬ患者からは窺い知ることなどできなかったが、看護婦のひとりが月光の下で観音像を手に涙を流す彼を見たという話が院内に漏れ伝わっていた。治療の折りに訊けば、彼の父の形見だと云う。後光を背に、異形のように三対の翼の生えたその観音像は、父の手によるものだというが、名家に生まれた者の道楽と云うにはあまりに精緻な彫りがほどこされ、名のある仏師の作と聞いたとしても遜色ない。

 医師はあらゆる薬を試したものの、彼の容態が回復に向かう様子はなく、治療をはじめて十三年目にしてとうとう匙を投げた。もはや治療を施しようがないことを告げられても、患者の顔色は変わることなく、ただあの小さな声で「はい」と答えた。

彼の病衣を着替えさせていた看護婦が、肩甲骨の浮き出た背にふたつの痣があることに気づいたのは、その晩のことだった。目を凝らしてみれば、それは一対の翼を表わしているようだった。医師は医務室に戻ると辞書の頁を繰り、やがて年老いた指がある箇所で止まった。ただちに手術の支度が整えられたものの、彼は常と変わらず「はい」と応じたのみで、胸元にあの観音像を抱き、裁きを受ける罪人のように手術室へと運ばれた。

 彼の背にメスを入れた執刀医の瞳は驚愕に見開かれた。そこには一対の桃色の翼が折り畳まれて納められていたのだ。執刀医はすぐさま傷を縫合しようとしたが、針を手に取る間もなく、08396は大きく翼を広げ、やがて夜空の彼方へと消えていった。あとにははらはらと舞い散る羽だけが残された。

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