第3話女郎蜘蛛の男

文士稼業も楽ではない。あのお方に見初められて早七年、今際の際を看取った折りにこの筆を託すと仰せられて、筆塚に埋め損なった筆だけが私の形見となりました。四宝といえば筆に硯、墨に紙と申しますが、もっとも大切な硯は奴が貰い受けましたから、私は筆を小箱にしまって、筆の進みが遅い合間に箱を開けては形見の筆を眺めるのでありました。奴といいますのはあのお方に取り入って、もっとも寵愛を受けた女形おやま崩れ。あのお方に触れる手でしなをつくって、背中には生き血をすする女郎蜘蛛が彫られているとのもっぱらの噂でしたが、夏の盛りに浴衣を着崩し、ほの見えたのはたしかに蜘蛛であったと記憶しております。生白いうなじも露わに団扇を扇いで、崩した膝の、着物の端からちらりと見える足の裏の美しさは、一寸ちょっと凄いものがありました。小振りな五指がきれいに並んで、土踏まずの曲線は女のものと見まがうほどで。さりながらひとたび啖呵たんかを切れば、あのお方を快からず思う者はもとより、あのお方の門下にあった我々さえも気圧されてしまいまして、ついたあだ名が瞋氏しんしというのだから、はちすの花咲く浄土より、仏様の垂らす蜘蛛の糸にもかからぬのは歴然としておりました。屹度きっと前世で名のある夫の寵を失った女が、恨みを募り募らせ息絶えて、こうして男となって生まれ変わったのでしょう。先の世に抱いた恨みが背骨の髄までしみ込んで、女郎蜘蛛となって顕われたかと思えばおそろしい。かといっておべっかを使えばまなじりを決して愚者を見る、おだて上げれば気に喰わぬとあって、これほど扱いづらい男もいない。おのずと皆に敬遠されて、ただあのお方の寵愛をほしいままにして、さては師匠も女郎蜘蛛に喰われたかと噂が立ちました。否、火のないところに煙は立たぬと云いますし、ふたりの間にはなにかひそやかな契りがあったに相違ないという戯言が我らの間に広がっていたのはたしかです。されどもあのお方の筆はよどみなく、小説を世に問えばたちまち版を重ねました。口さがない者は、あのお方がこじれ果てた男女の仲を描くのは、あの瞋氏と枕を共にしたからだと云いますが、左様に疑われても仕様がありますまい。これも風の便りに聞いたに過ぎませんが、あのお方が入水心中を描いた小説を上梓した折りに、私と心中してくださいますかと問うたといいます。冗談を云っちゃ不可いけないと跳ね返したと聞きますが、あのお方とてまんざらではなかったのでしょう。病の床についたあのお方を看取ったのは私と奴とのふたりきりでしたが、死の間際に瞋氏を招いたかと思えば、死に水を口移しで欲して、硯をゆだねると一言おっしゃったきり身罷られました。奴はといえば、硯を質に入れたきり、文士稼業から足を洗って、今はいずこにいるとも知れません。

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