第2話霊亀譚


 見上げた門には亀甲の御神紋。月に一度の氏神詣り、朱色の小袖に櫛差して、伏せた睫に花の影。手水舎に紙垂は揺れる。柄杓を取って左手右手を清め祓って、いざ口を漱ごうとしたが、たちまち清水は溢れて流れ下り、あれよという間に足を取られて真っ逆さま。息をつくにも水の中、意識はいよいよ遠ざかる。かすかに鴉が鳴くのを聞いたか、いいや聞かぬか定かでない。はっと気づけば大きな亀が迫り来る。

「人の子食うても身にならぬ。我を助けよ万年の精」

胸中で語りかければ、巨亀は少女を背に乗せ、千里の彼方へ泳ぎ出す。亀の甲羅にしがみつけば、不思議と息は苦しくない。

「あのお社の御使いか?」

問えば亀は肯んじて、蓮の宮に導くと云う。水面に出れば、見上げるように大きな蓮が咲き乱れ、甘い香りが四方にただよう。蓮花の奥の奥へ進むと、壮麗な宮が聳える。少女は亀の背から降り、宮の門を叩いた。

たちまち扉は開かれて、少女は宮中に招かれる。最奥の上座にいますは美しき乙女。高く結われた髪には牡丹の簪、桃花のような薄衣を纏う。彼女に従う侍女たちも、妍を競って咲く花のよう。甘い眩暈に襲われて、少女はあてがわれた部屋で眠った。

目白のさえずりに起こされて、蓮池に出れば幾羽もの鳥が群れ集う。白鷺の優美さに川蝉のあでやかさ、燕の影に雲雀の歌声。四季の鳥の賑わいに心も晴れて、唇からは歌がこぼれる。

「よき声よ」

と寿ぐ声に振り向けば、乙女の姿。裳裾から真白き足がほの見えて、ほうっと頬が朱に染まる。

さながら花鳥図を背にした美姫のように、乙女は艶然とほほえむ。少女を手招き、あどけない喉元を人差し指でなで上げる仕草に、ほのかな色気が香り立つ。またも眩暈に見舞われて、少女はあやうく池に落ちかける。水に映じた乙女の影は、みずみずしい少年の姿に変わり、風があやなす波間に溶けた。

忍びに忍べど焦がれた想いは伝わるもので、側仕えの侍女は主の胸の内を見て取った。

「お姫さまに恋する娘は多いのです」

「おひいさま?」

「さようでございますが、なにか」

 男の子と見えたは誤りか。はたまた禁句であろうかと、思案すれども答えなく。鶯の声に誘われて、ふたたび少女は池へ出た。侍女は主のいない間に部屋の鏡に印を描く。たちまち鏡を通じて印が伝わり、乙女は白雪の衣をなびかせて、くつくつと笑んだ。少女は池のほとりで捕らえられ、数多の娘が囚われた牢へ入れられた。

まもなく少女は朱鷺へと変えられよう。少年は長椅子に身を委ね、楽師の奏でる琴の音に飽いて、鳥の群れる池を眺める。次の洪水の時を定めるべく、少年は鼈甲の指輪に舌を這わせた。


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