第5話 襟

このまま家でぼんやり過ごしていても、きっと何も変わる事はないだろう。結婚して退職するまで、ずっと家で専業主婦をする事にあんなに憧れていたのにいざ叶うとあまりの暇さと無気力さに押しつぶされてしまいそうだった。


「今までシステム化によって仕事を奪われて来たのだから、今度は私がシステムを作る立場になればいいんじゃない?」と、楽観的な感覚でプログラミング講座を申し込む事にした。本当は、あまりに沢山の講座が多すぎて決める事が出来なかったのだ。


入学願書を提出すると、面接と入校試験の日程通知書が届いた。人数が多ければ落ちる事もあると聞くが、実際はどうなのだろう?まして、私のような30代後半の主婦が参加する事などあるのだろうか?こういうのは、やはり20代の若者向けなのではないだろうか・・・。不安ばかりが頭を過ぎった。


試験会場に訪れると、様々な世代の男女がいたが一人一人の顔を確認している余裕もなかった。ここ最近までろくに勉強すらした事なかったのに、入校試験では数学や国語にまつわる問題が出てくると思うと緊張と吐き気が一気に襲った。久しぶりに来たスーツも、すっかり自分の体型をオーバーしそうで緊張と一緒に早く脱ぎたくてたまらなかった。


いざ試験が始まると、思っていたよりも冒頭の問題が常識的でスラスラ出来たのだが、わかる問題ですら「本当にこれで合ってるの?」と悩む程我ながらの記憶力低下に頭を抱えた。


学生時代はあんなに一生懸命勉強したけど、結局どの社会でも役に立たせる事がないまま年をとってしまった。私は将来の為と思って勉強をしてきたのに、年をとればとるほど勉強してきたものが少しずつ脳内から消えてゆく。あの頃の勉強は、私の人生にとって無駄だったのだろうか?


いや、きっと人生の何処かで自分でも気がつかないうちに役に立っている筈だ。うん。そう信じたい。そうじゃなければ、一体何のためにあの日あの時夢のノートを閉じてしまったのかわからなくなってしまう・・・。


試験が終わると、次は面接だ。しかし、試験が終わった頃の私はすっかりもぬけの殻のように放心していた。試験問題の答えを思い出す事に殆ど体力を使い果たし、面接にまで脳が機能しそうになくて、ただひたすらぼうっとした状態で宙を眺めながら面接の時を待った。


「襟、折れてますよ」ふと、私のシャツの襟に手をかける男性がいた。自分の事で頭が一杯で、思い起こせば自分のシャツの襟が片方折れている事など気にもよらなかった。


男性は、恐らく20代半ば頃の年齢だろうか。ツヤツヤした肌は、すでに水を弾かなくなった私のそれとは少し違う。みずみずしいほど澄んだ瞳に、サラサラとした猫毛のそれはまるで見とれる程の爽やかさだった。夫と比べても、10歳は離れている事だろう。私とは、すっかりかけ離れた世界の人のように思えた。


思わず「あっ、す、すみません」と言葉を発した私に、クスッと優しい笑みを受かべた彼は、そのまま何も言わずに踵を返し面接に向かっていった。あまりのすがすがしい登場に、思わず私は立ちすくんでしまった。


普通、初対面の女性の襟が折れているからって突然直してくれる事などあるのだろうか?それとも、試験の時からずっと襟が曲がっていて後ろに座っていた彼は気になっていたのだろうか・・・?


そんな事をふと思っていると「佐藤さん、時間なので面接会場に入ってください」と呼びかけられた。




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