Ⅷ クロス・ピックアップ(後編)

Ⅷ-1

「何か悩み事でもあるのか」

 田崎めいのその質問に答える形で、無言電話のことを話したのは、三度目に彼女と会ったときだった。これまでめいと一緒に行動して、彼女には隠し事はできないとわかっていたので、僕は正直に――ただし、無言電話がかかってくるということだけ――打ち明けた。

「それは、キミがいつも探している誰かから、かかっているんじゃないのか」

 そういい放っためいに、僕はたじろいだ。

「探してる? 僕が?」

 めいは呆れた顔で首を振った。

「まさか自覚していないわけではないだろう」めいは少し意地悪そうに片方の唇をつり上げた。「ずばり、女か」

 まだ無言でいる僕に、めいはいった。

「キミはなぜ、今も夜のバイトを続けているんだ。

 なぜ、電車に乗ったら、その車両にいる人たちの顔を見渡すんだ。

 なぜ、電車に乗り込んでくる人たちの方を見るんだ。

 なぜ、お店に入ったら、店内にいる客たちを見渡すんだ。

 なぜ、お店に入ってくる客の方を見るんだ。

 キミはいつも、周囲を気にしている。

 ボクは最初、小説を書くための人間観察の一環だと思っていた。

 たぶん、そういう側面もあるんだろう。

 でも、それは本筋の理由じゃない。

 キミがいつも周囲を気にしているのは、常に誰かを探しているからだ。

 偶然、その誰かに会うことを、期待しているからだ。

 キミは、いつも誰かを探している。

 そうだろ」

 めいはストロベリーシェイクの最後のひと口をストローでずずずずーっと吸い込んで、僕を見た。

 僕が山下直人と会ったハンバーガーショップの窓際の席に、僕たちはいた。

 例によって、僕たちが店に入ったとたんに、店内は混み始めた。

 夏の昼下がり、まばゆい陽射しが僕たちに降り注いでいた。

 それでもまだ僕は、店の外を見たまま、何もいわなかった。

「その人はまだ、この街にいるのか」

 めいが尋ねた。

「わからない」

 僕は視線をめいに戻した。

「でもたぶん、そんな気がする」

 そして僕は、めいに、彼女のことを――森下月子のことを話し始めた。


     *


 沿線情報誌のライターをやりながら、僕はとあるバーでアルバイトをしていた。バーテンダーに毛の生えたようなものだった。もう長く続けていたから、シフトの面で融通を利かせてもらえた。

 ライターの仕事もかなりの部分を任せてもらえるようになってきたから、それだけでもなんとか食べていけないことはなかったけれど、夜のアルバイトはやめなかった。

 そこにいれば、もしかしたら彼女の――月子の噂が聞こえてくるかもしれない。それはほんの淡い期待程度に過ぎないにしても、何もしないよりはましだった。

 ライターの仕事で、沿線をあちこち飛び回って話を聞けることもありがたかった。

 こちらから月子のことについて積極的に聞いて回るようなことはしなかったけど、いろんなお店や施設と接点が持てるのは助かった。

 なんとなく僕は、月子がもしもこの街で働いているのなら、接客業に就いているんじゃないかと思っていた。

 それしかできない、とよく彼女はいっていた。でも、それを楽しんでいるように、僕には思えた。

 そんな偶然は――たとえ僕が福客だとしても――そうそう都合よく訪れはしなかった。

 クロス・ピックアップが起こるまでは。


     *


「小清水さん、ですか」

 無言電話以外に、滅多に鳴ることのない僕の部屋の固定電話が鳴ったのは、佐伯健二と会って、珠恵のスーツケースを渡してから三日後の午後十一時頃だった。

 若い女性にしては少し低いその声の主に、僕は答えた。

「小清水です」

「こちらからかけておいて申し訳ないです。でも、今、名前を名乗ることはできません」

「わかってます。スーツケースの件で、かけていただいたんですよね」

 電話の向こうで、少しためらうような気配があった。

「佐伯健二さんに、この電話のことを伝えるつもりはありません。スーツケースの中にあったものだけ、お返しします。直接お会いして。いかがですか」

「スーツケースはまだそちらにあるんですか」

「いいえ」僕は正直に答えた。「スーツケースはもう佐伯さんに返しました。ただし、中身をすべて返したわけではありません」

 ふたたび、電話の向こうで沈黙が訪れた。

「このことは一切、佐伯さんには伝えません。信用してください」僕はいった。

 まだ向こうは何もいわない。

 僕は賭けに出た。

「僕が信用できるかどうかは、あなたの古い友人に聞いてください」

 無言。

「彼女に聞いてもらえればわかります。この電話番号をあなたに伝えた人です」

 ようやく電話の向こうの声が答えた。

「わかりました。五分後にかけなおします。時間と場所はそのときに」

 そして、一方的に通話は切られた。

 こんなにも緊張したのは久しぶりだった。

 受話器を持つ手がじっとりと汗ばんでいた。

 五分後、ふたたび電話のベルが鳴り、僕は受話器を取った。

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