Ⅶ-5
彼女と出会って、一か月が過ぎた。
その夜もまた特別に寒かった。
アルバイトは残業で、十時に終わった。
駅前のコンビニエンスストアで夜食を買い込んで、すぐ側の公園を横切ろうとしたとき、公園のベンチに座っている彼女を見つけた。
彼女は厚手のコートを着て、マフラーを巻いていたけれど、それでもその夜の寒さと戦うには戦力不足に見えた。
彼女の足元には、スーツケースと旅行鞄が置かれていた。
今では僕のものになってしまったスーツケースも、このときはまだ本来の持ち主とともにあった。
声をかけようかどうか迷ったけど、すぐそばまで来てしまっていた。
「こんばんは」と僕はいった。
彼女はそのときになってやっと僕に気がついた。
顔を上げて僕を見ても、最初は誰だかわからなかったみたいだ。
やっと「こんばんは」とだけいった。
「旅行ですか?」
いってから後悔したけれど、遅かった。
彼女は答えなかった。
そのかわり、目を逸らして正面を向いた。
視線の先には、ブランコと滑り台があった。
それ以上、僕はなんといっていいのかわからなかった。
ただ、馬鹿みたいに彼女のそばにつっ立っていた。
彼女は立ち上がって、なぜかにこっと笑った。
そして、スーツケースと鞄を持つと、駅の方角へ歩き出そうとした。
そのとき、僕がどういう言葉を彼女にいったのか、ほとんど思い出すことができない。
とにかく僕は、考えうる限り丁寧に、部屋に来ないかと彼女を誘った。
彼女にそんなものは本来必要ではないことくらい、もちろん僕にはわかっていた。
でも、あのときの僕にはそういうしか選択肢がなかった。
たぶん今でも僕は同じことをするだろう。
いくつになっても、どんなときにも、治らない愚かしさというものが男にはあるのだということを今の僕は嫌というほど知っている。
彼女はしばらく考えていた。
僕たちのあいだに、何か小さくて白いものがゆっくりと落ちてきた。
もしも、それが落ちてこなかったら、そのあとの彼女の返事も変わっていたのではないかと、僕は未だに本気で思っている。
それが何かの合図だったかのように、彼女は僕の申し出を受け入れた。
僕たちが部屋に着くころ、雪はうっすらと積もり始めていた。
その夜、僕は初めて彼女の名前を知った。
森下月子。
それが彼女の名前だった。
いい名前だね、と月並みな言葉を彼女にいわなかったのは正解だったと、あとになって僕は知った。
いい名前だといわれることに、月子はうんざりしていたからだ。
寂しくて、私は嫌い。
自分の名前のことを、月子はそんなふうにいった。
結局、僕たちは一年間一緒に暮らした。
月子は思っていたよりもずっと陽気で、よく笑った。
僕たちはほとんどお互いのことを話さなかった。
未来のことも話さなかった。
あの猫のことも。
まるでお互いに示し合わせたように、口にしなかった。
何故だかよくわからなかったけれど、僕にはあの猫の話は決してしてはならないことのように思えた。
月子は僕が説得しても、夜の仕事をやめなかった。
「この仕事が好きなの」
いつもそういっていた。
月子の仕事が休みの日、僕はアルバイト先から部屋まで走って帰った。
息を切らしている僕にキスをして、月子は笑った。
「馬鹿ね、遥(よう)ちゃん。どこにも行かないわよ」
あらゆる部分で、月子の態度ははっきりしていた。
家賃や生活費など、ふたりで使うものは必ず折半した。おかげで僕は以前よりも金銭的に余裕ができて、貯金が増えた。
あくる年の冬。
その日も月子は仕事が休みで、僕は走って部屋に戻った。
でも、彼女はいなかった。
彼女の私物はそのままだったけど、僕にはわかった。
たぶん彼女は戻ってこない。
理由はわからなかったけど、そのことだけはわかった。
そして、それは正しかった。
残念ながら。
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