Ⅴ-2
中野啓子が元クラスメイトの岸本奈々に相談を持ちかけたのは、一か月ほど前にさかのぼる。
その日彼女たちは、ふたりの間でほぼ定番になりつつある月一回のホテルでのケーキバイキングを楽しんでいた。ただ、いつもと比べて少し啓子に元気がないように奈々は感じたようだ。「どうした? なんか元気ないみたい」と、啓子に尋ねた。
「ああ。うん、大丈夫」
啓子はそう答えたものの、気になることがあるのは事実で、ミルフィーユの層の半分くらいまで差し込まれたフォークを止めて、「まあでもちょっと、あるかな」とつぶやいた。
奈々とは高校を卒業して、別々の大学に進学してからも付き合いが続いていた。大学を卒業し、それぞれ別の会社に就職して五年が経った。その間もふたりは定期的に会っては昔話で盛り上がったり、仕事の愚痴をいい合う、気の置けない関係が続いていた。
「なんだよ、またお局さまか?」
「ううん、違うの」啓子は少しためらった。「実は、彼のことで……」
「おいおい。まだ結婚一年目だろ」
「け、けんかとか、そういんじゃないの。ちょっと最近ぎくしゃくしちゃって」
奈々はフォークをケーキ皿の上に置いた。「そういうの、あたしじゃ、あんまり役に立たないかもしんないけどさ。よかったら話だけでも聞くよ」
もともと、啓子と奈々は性格が正反対だったけど、高校三年間ずっと同じクラスだったということもあって仲が良かった。
啓子はどちらかというとおとなしくておっとりとした性格。一方、奈々は活発で社交的、さばさばしていて、明るく、いつも前向きだった。ただ、少しおおざっぱで物事に対して無頓着なところがあった。
奈々は男性と付き合ってもあまり長続きせず、ひとりの時間の方が長かった。そのときも特に付き合っている男性はいなかった。あたしってどうも恋愛下手みたい。それが彼女の口癖だった。
だから、啓子はその手の話を奈々に相談することをためらったけど、ここまできて相談しないのも気が引けた。
啓子はぽつりぽつりと話し始めた。
啓子の携帯電話に夫の良一から電話がかかってきたのは、そのケーキバイキングの日から一か月くらい前の夕方六時頃だった。
勤務時間は五時までだったけど、だいたい仕事を終えるのは七時以降で、啓子はまだオフィスに残って仕事をしていた。デスクワークだったし、近くに人がいなかったから、啓子は電話に出た。それに、勤務時間中に良一が電話をかけてくることはめったになかったから、良一の家族に何かあったのかと、とっさに啓子は思った。
「もしもし? どうしたの?」
「ああ、ごめん。今、大丈夫?」
良一の声は普通で、特に切迫した感じではなかったから、啓子は少しほっとした。
「大丈夫。何かあったの?」
「いや、別にたいしたことじゃなないんだ。仕事が早めに終わったから、今日これから直帰することになった」
「なんだ」そんなことか、と啓子は肩の力を抜いた。「よかったじゃない」
「うん。そっちは? もし出れるんだったら、今日どっかで食べて帰ろうか?」
「ごめん、ちょっと時間読めないな。先に帰ってて。ご飯は昨日の残り、チンすればいいから。食べててもいいよ」
「そっか。わかった」
そのあと良一がまだ何かいいそうな気配を感じて、啓子は耳をすませていたけど、良一は一向に言葉を発しなかった。
「もしもし?」
「ああ、うん」
「ねえ、良ちゃん。ほんとは何かあったんじゃないの」
スピーカーの向こうで、良一がすっと息を吸い込む音が聞こえた気がした。
「別に何かあったわけじゃないんだ」
良一のその言葉からは、その意味するところとは裏腹なニュアンスが感じられた。
「そうかなー。なんか気になるよ」
「ほんとに、大したことは何もないんだ」
「じゃあ、大したことじゃないことは?」
「まあ、それはちょっと」
良一は、普段はあまり持って回ったいい方をするようなタイプではないから、啓子はなおさら気になった。
「なになに?」
良一の意味ありげな口調が気になってはいたけど、このとき啓子はまだそれほど本気で心配はしていなかった。
「すっごくしょうもないことなんだ。ほんと、忙しかったらいいんだよ。今日、帰ってからでも」
「いいよ。気になるから、いってよ」
「じゃあ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「うん」
「腕時計なんだけど」
「腕時計?」
「うん。俺さ、腕時計、いつもどっちの手にしてるか、知ってる?」
一瞬、啓子は戸惑った。
その質問の内容の唐突さに戸惑う前に、最近良一がどちらの手に腕時計をしているか、確信を持って答えられない自分に戸惑っていた。
付き合い始めてしばらくは、良一は左手に腕時計をしていた。それは、はっきりと思い出せる。お気に入りのストライプのシャツの袖をまくった左手の手首に、就職して三年目のボーナスで買ったオメガのスピードマスターをつけている映像がすぐさま脳裏に浮かんだ。
でも、最近はどうだっけ。
思い出せない。
啓子は焦りはじめた。
そもそも、この質問にはいったいどういう意味があるんだろう。もちろんそんなことを考えても答えが出るわけはない。啓子の焦りはますます強まり、なにより、沈黙に堪えられなくなった啓子は、自信のないまま答えた。
「左手?」
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