Ⅴ-3
「それで?」
「正解は?」
いすずとマスターが、同時に尋ねた。
すでに三人組の客も、テーブル席の客も姿はなく、『サザンクロス』にいるのは、いずずと啓子、そしてマスターだけになった。
「わかりません」
啓子が少し俯き加減に答えた。
「わからないって……」
「どういうこと?」
再びいすずとマスターが同時に尋ねて、啓子はまた話し始めた。
結局、そのときの電話は、それからすぐに終わった。良一が「そっか、わかった。突然変なこと聞いてごめんな」といって、そそくさと通話を切ってしまったからだ。
啓子はそのあと、仕事に手がつかず、すぐに会社を出た。
なぜか、胸騒ぎがした。一刻も早く、良一の顔を見たかった。
家に着くと、良一は既に帰宅していて、啓子の分もあわせて晩ごはんの準備をしているところだった。特に普段と変わった様子はなかった。
良一は腕時計を左手にしていた。
それだけ見れば、啓子の答えは当たったことになる。
でも、本当にそうだろうか。
いや。違う。と、啓子は思い直した。
もしも啓子の答えが間違っていて、良一がいつも右手に腕時計をしていたとしても、あの電話のあとで良一が左手につけ替えているかもしれない。
そうであれば、真相はわからないまま、藪の中だ。
真相は本人に聞くしかなかった。
「あのさ、良ちゃん。夕方の電話のことなんだけど――」
晩ごはんを食べながら、なるべく自然な感じを装って、啓子は良一に尋ねた。
「ああ、あれ。ごめんな、変なこと聞いて」
「ううん。でも、どうして急にそんなこと聞いたの?」
「いや、なんとなく、ね。特に意味はないよ」
これでは何の答えにもなっていない。でも、とりあえず、そのときはそれ以上深く突っ込むことはせず、話題は別のことがらに移っていった。
本当はどちらの手に腕時計をしていたのか、改めてそれを尋ねることが啓子にはできなかった。そんなことをしても、あまり意味がないような気がして、いい出すことができなかった。
腕時計の件は、それからふたりの会話に上ることはなかった。
でも、言葉にしなくても、ふたりの間にはそのことがお互いの心のどこかにずっと残っていた。まるで魚の小骨が喉の奥に引っかかったまま生活しているようだった。日常生活に支障はないけれど、何かの拍子に、ふと、かすかな痛みが喉の奥の方で生じるときがある。そんな感じだった。
その日を境に、なんとなくふたりの関係がぎくしゃくし始めた。
ささいなことが、大きないさかいに発展することが増えた。
そんなとき、これまでは、良一の方が先に折れることが多かったのに、最近は啓子が先に謝ることが増えた。それでも、良一の不機嫌はなかなか直らなかった。
そんな状態が一か月ほど続いた頃、恒例のケーキバイキングで、啓子は奈々に自分が陥っている状況を相談したのだった。
奈々は明確な答えを持ち合わせてはいなかった。
もともと、啓子は奈々から有効なアドバイスが聞けるなんて想定していなかったから、特にがっかりはしなかった。話を聞いてもらえただけで、ありがたかった。
でも、奈々は彼女なりに、古くからの友人の相談を真剣に受け止めていた。
奈々は、いろんな人に、聞いて回った。
結婚相手が、どちらの手に腕時計をしているかを尋ねるのはどういう場合なのか。
外向的な性格の奈々は知り合いが多かったから、尋ねる相手を探すのは苦労しなかった。
ただ、誰も納得のいく答えをもたらしてはくれなかった。
一週間後、啓子は奈々から電話を受けた。
あれからいろんな人に聞いてまわったけど、結局、どういうことなのかわからなかった。そちらはどう? と、奈々は啓子に尋ねた。
啓子は、友達の気遣いが嬉しかった。
あれからは、特に問題はないよ。心配かけてごめんね。
啓子は、友達にそういった。
「たぶん、奈々がいろんな人に聞いてまわったことがひとり歩きして、あの質問になったんだと思います」
氷が溶けた水がわずかに残ったグラスを見つめて、啓子がいった。
しばらく三人の間に沈黙が訪れた。
「で、でもさ。ほんと、旦那さん、どうしてそんなこと急に尋ねたのかな」
沈黙を破って、いすずがいった。
「それが、未だにわからないんです」啓子は肩をすくめた。「たぶん、今さら尋ねても答えてはくれないと思いますけど」
啓子ははっきりと言及しなかったけれど、良一との関係が改善されていなことが言外に示されていた。
「ねえ、マスター」いすずが、カウンターに身を乗り出した。「なんとかならない?」
ため息交じりに、マスターが答えた。「確約はできないわよ」
ふたりのやりとりを不思議そうな顔をして、啓子が聞いている。
そんな啓子に、いすずがいった。「ここのマスターにはね、いろいろなつてがあるの。そのなかには、心強ーい探偵さんもいるのよね」
「いすずちゃんには、前に世話になったしね」マスターはうなずいた。「少し、時間をちょうだい」
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