Ⅳ-4

 四月十八日木曜日、夜九時二十五分。

 直人が女の子と交差点で会話を交わした日時だ。

 直人はたまたまこの日、ラジオをつけてはいなかった。

 一方、僕は自宅で『フロム・ナイン・トゥ・テン』を聞いていた。

 次回のインタビューはこのラジオ番組のパーソナリティだから、予習をしておくようにとの編集長のお達しを律儀に守り、僕はその前の週から、『フロム・ナイン・トゥ・テン』を毎日聞いていた。

 その番組を放送しているFM七〇二はこの街に拠点のある地方局で、音楽番組が多い。でも、『フロム・ナイン・トゥ・テン』はいろんなコーナーを設けている、少し異色の番組だった。

 木曜日はリスナーからのリクエストコーナーがある。

 直接電話でリスナーから曲のリクエストと、もうひとつ、パーソナリティにいってほしい言葉をリクエストすることができる。それは、自分に向けた言葉でもいいし、誰かに向けた言葉でも、誰かに贈る言葉でもいい。

 そして、その言葉をもとにしたパーソナリティとの会話は、あるときには悩み相談に、あるときはちょっとしたいい話に、またあるときは社会への問題提起へと発展していった。

「じゃあ次は……リリコさん。予備校生」ラジオからのパーソナリティの声に僕は耳を傾けていた。

「リリコさーん。もしもーし」

「あ。はい」

「こんばんは」

「こん……ばんは」 

「なんか元気ないけど、大丈夫?」

「あ。はい。だいじょうぶです」

「今どこにいるんですか?」

「えと。外です」

「なにしてるの?」

「特になにも。歩いてます」

「今日、寒くないですか。外」

「少し寒いです」

「なんか花冷えみたいですね。風邪ひかないように、気を付けて。じゃあ、リクエスト曲を」

「マッシヴ・アタックの『メザニーン』」

「マッシヴ・アタック! 懐かしいなー。渋いねー。えーっと、リリコさんは今いくつですか」

「十九です」

「若いのによく知ってるね。これかなり昔の曲だけど」

「教えてもらいました。人から」

「そっか。じゃあ、もうひとつ、言葉のリクエストがあれば聞きますよ」

 そこからしばらく沈黙があった。

 遠くの方で、若い男の声が微かに聞こえる。

「もしもーし。リリコさーん」パーソナリティが呼びかける。「聞こえてますかー」

「はい」女の子が答えた。「だいじょうぶです」

「リクエスト、ありますか?」

「それじゃあ、私に、あなたが知ってるなかでいちばん冷たい言葉をいってください」 

 ここで聞こえていた若い男の声は、もちろん直人の声だ。

 リリコ――たぶん本名じゃないだろうけど、僕には名前を知るすべがないから、とりあえずそう呼ぶしかない――はあの時、交差点で『フロム・ナイン・トゥ・テン』のパーソナリティと、会話をしていたのだ。

 直人の話では、スマートフォンを耳に当てていなかったので、おそらくマイク付きのイヤホンで話していたのだろう。

 パーソナリティは、一瞬言葉に詰まったけど、すぐに立ち直った。

「冷たい言葉かぁ。これは今までで一番難しいリクエストだね。ちなみに、理由を聞いてもいいかな。どうして冷たい言葉をかけてほしいと思ったの」

 わずかな沈黙のあと、リリコが答えた。

「別に。なんとなく」

「そう。もしかして、何か嫌なことでもあった?」

 またわずかな沈黙。

「実は、好きな人がいて」またそこで言葉が途切れた。「いえ。好きな人がいたんですけど、ちょっと、いろいろとあって、別れなきゃならなくなって。私、本当は誰かから責められなくちゃならないんです。でも、誰もそんなことはいってくれなくて。その人も最後まで優しいままで。でも私は優しい言葉なんて欲しくなかった」

 またしばらく沈黙が訪れた。

「すみません。ええと、今はもうだいぶ平気なんですけど。ひとつだけ、その人からもらったものが、なかなか捨てられなくて。本当は捨ててしまいたいんですけど。もし、誰かから何かきっかけになるようなことをいってもらえたら、捨てられるんじゃないかって……なんとなく、そう思って……」

 消え入るようにして、またリリコは黙り込んだ。

「残念ながら、リリコさんの要望に応えることはできないよ」パーソナリティはいった。「リリコさんはきっかけがほしいっていったよね。でも、それはたぶん僕じゃない。それはたぶん違う誰かだよ。誰なのかはわからないけど、たぶんそれは、そのときになれば、リリコさん自身がわかるんじゃないかな。だから待つしかないよ。そういう時間が必要なこともある。こんな回答でいいかな」

「はい。すみません」

「こちらこそ、ごめんね。お役に立てなくて」

「いえ。ありがとうございました」

「いつも聴いてくれて、どうもありがとう。じゃあ、曲にいきます。マッシヴ・アタックの『メザニーン』」


     *


 これは、直人本人が気づいたことなのだけど、リリコが肩から下げていたトートバッグは、ある予備校のものだった。なぜそれを知っていたかというと、以前直人が通っていた美容師専門学校の裏手のビルが、その大手予備校で、よくそこの生徒が同じトートバッグを持っているのを見かけたからだった。

 僕と再びハンバーガーショップで会って、僕からリリコのことを聞いた翌日の夕方、直人はその予備校の近くに車を止めて、リリコが出てくるのを待った。

 待つこと一時間、夜七時頃、予備校からリリコが出てくるのが見えた。幸いひとりだ。

 直人は車を降りて、横断歩道の手前でリリコが来るのを待った。

 やがて信号が青になり、横断歩道を渡って、リリコが直人のところまでやってきた。

 直人のことはまったく気づいていない様子だ。

 リリコが直人の横を通り過ぎようとしたとき、直人がいった。

「冷たい言葉は、まだ必要ですか?」

 直人の横を数歩通り過ぎてから、ぴたりとリリコの足が止まった。

 ゆっくりと、リリコが振り返る。

「あなたは……」

 明らかに不審者を見る目で、リリコは直人を見た。

 どうやら、直人のことは覚えていないみたいだ。

 直人は両手を上げた。

「怪しいもんじゃないっすよ。一週間前にも、一度会ってるし。それはまあ、いいんだ。なんていうか……うまくいえないや。もしまだ冷たい言葉が必要だったら、と思っただけ。そんじゃ」

 立ち去ろうとした直人に、リリコがいった。「ちょっと。あの」

 直人が振り返った。

「もしかして、ラジオ聴いてたんですか」リリコが尋ねた。

「ああ、うん。まあ」

「でも、どうして私って……」

「それは話すと長くなっちゃうんだよね」あわてて直人は付け足した。「ああでも、ほんと、偶然で――」

「あの」リリコが直人の言葉を遮った。「いってみてください」

「ん?」

「冷たい言葉。いってみてください」

 直人はゆっくりと口を開いた。

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