中編

「その女の子は、今でも尊治のことが好きなんだな」

「多分ね…」

兼継は眩しそうにわたしを見る。

「とても敵わないって思わされる」

「なにが?」

「僕は堪え性もないし、臆病だからすぐに諦めてしまうよ」

兼継は笑う。

「歳上のくせに、弱虫なんだ」

わたしはわざと憎まれるようなことを言ってやる。

「うん…弱い…でもね」

兼継はわたしを真っ直ぐ見つめた。

「尊治のことは、誰よりも好きだよ」

わたしは畏れずに兼継の手を握った。指が微かに強張っていた。通りすがりの何人かが、奇妙なものを見るようにじろじろ眺めて振り返った。



わたしと兼継は仲が良かった。

わたしは、お互いが愛を持っているのなら強くなれると本気で思っていた。

「…もしも、僕が死ぬようなことがあったらどうする?」

わたしは少しだけ考える。兼継は黙ってわたしの顔を覗き込む。

「あなたの最期に見る世界が美しいものであったのなら、二度と会えなくなってもわたしは文句を言わないよ」

「尊治は強いなぁ、そういう所が好きだよ…」

兼継は哀しい顔をした。

「何かあったの?」

「後をつけられていたみたいなんだ。父が決めた結婚相手がいたんだけど…どうも向こうがね…」

わたしは兼継を見た。男女と結婚、黴くさい社会の堆積をその後ろに見た気がする。わたしの両親も同じような人たちだった。結婚と家庭に、安らぎと幸福が棲まうと信じて疑わない呪いにも似た、一つの神を信じて疑わないような観念がある。

「別れるように、言われてる?」

「尊治を家に連れてくるようにって、うるさいんだ。なにを言われるか分かりきってる」

わたしは兼継の肩に手を置いた。

「大丈夫だよ。わたしは行ってもいいよ。言いたいことは言わないと駄目じゃない?」

「…そうだね。ありがとう」

兼継はやっと、笑った。



わたしは受け入れられるためではなく、拒絶されるために兼継の家へと行った。兼継は駅まで迎えに来てくれて、裏口から庭に最初にわたしを連れて来た。

「どっちが坊ちゃんなんだ」

わたしがおどけて言うと、兼継は笑って自分を指差す。煉瓦造の花壇は綺麗に整えられて花が朝露を乗っけている。

「綺麗だね」

「…僕がやったんだ」

「へぇ、器用だね」

兼継は目を逸らした。

「こういうことも、辞めろって散々言われるけどね」

あぁ、黴くさいと思った。何もかも厳格に分けなければ許さない何かが、魔物のような何かがこの大きな家の中にはいる。広々とした二階のバルコニーに目が行く。

「わたしは素敵だと思うよ。自分でもそう思ってるから、わたしをここに連れて来たんでしょう?」

「そうだね、敵わないなぁ」

わたしと兼継は笑い合った。

「兼継!」

その合間を裂くように、怒鳴り声が響く。目を転じると、髭を生やした兼継の父がこちらを睨んでいた。



「結婚はどうするんだ」

最初から、兼継の父はわたしの方を見なかった。暗に、お前の入る隙間はないことを言っているようだった。

「僕はもう、結婚する気はありません。この家は、別の人間に継がせてあげて下さい。分家の人間に適当な人がいるでしょう」

そこで、ガラスの灰皿が飛んできた。兼継は動じなかった。わたしは砕けた破片を集めようとして、止められた。

「ごめんなさい。僕のことは忘れてもらって構いません。名前も変えます」

「そんなことを言ってるんじゃない。馬鹿げたことをやめれば、私達は何も聞かなかった、なかったことにする」

馬鹿げたこと、とわたしを眺めて言われる。

「いいえ、これだけは譲れません」

兼継は醒めるような声で言う。

「ふざけるな!自分の言っていることが分かっているのか!」

「私の育て方が悪かったんですよ。病院に行けば治ります。そう怒らないであげてください」

この人たちとは分かり合うことはできそうにないと、直感した。兼継はわたしを横目で見て、一瞬だけ笑った。

父と母の刺すような視線から、覆うように身を乗り出して根気強く説得し始めた。

けれど、どんなに兼継が言ったところで結果は変わらなかった。そのうち父の方が尊大な態度になって、わたしを睨んだ。

「君達が恋愛ごっこしてるのだけは分かったよ。だがもうお終いなんだ。こんなことは倫理的におかしいだろう。社会の常識から外れている。…だが、私達も鬼じゃないからね。いくらでも君の言い値で手切れ金を出して保障はしてあげよう」

兼継の顔が歪む。

わたしは我慢ができなくなった。

「なにもいりません…わたしは」

言いかけると兼継が無理やり遮った。

「ちょっと、お手洗いに行ってくるよ」

兼継は真っ青な顔をしていた。これが最期の時であったのに、どうしてわたしは意地を張っていたのだろう。

しばらく経っても、兼継は戻ってこなかった。父親が一層不機嫌になって、唇を開きかけた時、全てを終わらせる音が響いた。

人が堕ちる音だ。死ぬ音だ。

わたしは直感した。兼継の母親は半狂乱になって、飛び出して行った。父親も脂汗を浮かべて後に続いて行く。誰の横顔にも、私は悪くない、という姑息な皺が浮かんでいた。わたしも老いた兼継の両親をかき分けて現場を見た。

あの花壇の淵に頭から墜っこちて行ったのだと、兼継を見て思った。


「あなたの最期に見る世界が美しいものであったのなら、二度と会えなくなってもわたしは文句を言わない」


兼継、あなたはわたしとの約束を守ってくれた。兼継の両親は、もう人ではなくなったその遺体に近付かなかった。

「なんてことを、してくれたんだ…お前が殺した!」

父親が絶叫する。姑息な脅しだと思った。わたしは父親の瞳に、ただの肉になってしまった兼継の遺体に対する嫌悪感と恐れを見つけた。母親は一瞥することもなく、家に入って行く。


わたしはそっと近づいて、割れた頭を抱く。まだ温かい血と体液が、わたしの掌に溜まって滑り落ちていく。肌色の脳の破片が頭蓋骨の割れ目から、まるで時間を刻むように静かに垂れ続ける。

可哀想だ、みんな可哀想だ。

気に入られない、認められない、受け入れられないわたしたちは可哀想だ。そして、そんな風にしかわたしたちを見ることができない父や母や、社会も同じように可哀想だ。

そのために死んだ兼継が可哀想だ。

この痛ましい割れ目に、わたしの涙だけが落ちていく。兼継の両親は泣くこともしなかった。

あなたを創った種と畑のことは、多分一生かけてもわたしには分からないままでいるしかない。それでも、あなたを産んだどんなものよりも、わたしはあなたを愛していた。

「兼継、それだけで生きていけると思ってたんだけど、駄目だったみたいだね……」

ぐらつく首を支えて、わたしは兼継の死顔を見た。ここから、逃げてはならないと唇を噛む。何度も見ることになるだろう悪夢を、自分から網膜に焼き付ける。見開かれた瞳が濡れて、花壇の土が斑らについていた。血で汚れた指で瞳を閉じてやる。

愛している、という事実だけで強くなれると生きていけると思っていたのに、信じていたのに、呆気なく兼継は死んでいった。


人間の内面は、生牡蠣に似ているんだってよ、兼継。


どうして、こんなに醜いんだろう。わたしもあなたも、あなたの両親も、彼らを取り巻く社会も結婚も全てが醜く思えるよ。こうして見えないものを裁くことに、その恐ろしさに、無頓着なもの全てが憎い。

わたしも同じように裁いて、同じように殺してやりたい。その時初めて彼らは裁かれることの恐ろしさを知るだろう。自分は流される血については知らないと嘯いて、平気な醜さをわたしは纏いたくない。これはわたしが流した、わたしのために流された気高い、醜い血だった。

兼継の血だけが、静かに涙を流すようにずっとわたしの周りを覆っていく。

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