受難者たち
三津凛
前編
わたしたちの何がそんなに気に入らないのか、受け入れられないのか、本当のことは分からない。それでも、生きる意味だけは、このわたしが決める。
その時、愛に触れた気がした。
「兼継っていうんだよ。なんか、戦国大名みたいな名前だろう?」
「…それを言うなら、わたしだって古風な名前だよ」
兼継は目線だけで、先を促した。
「尊治」
「後醍醐天皇と同じ名前だな」
わたしは目を見開く。不遜な名前を掬い上げた人はいなかった。
「すごい、初めて言われた」
「あはは、日本史が好きだったからだよ。ご両親も歴史が好きだったとか?」
「そんなところ」
わたしは下を向いた。初めて飲んだアルコールがいつもより気を大きくさせる。話すだけならいいじゃない、と甘えが手を伸ばす。
「…一人称がわたしって、変わってるね」
「社会人に備えてるだけ」
「あぁ、そういうこと」
わたしは真っ直ぐ目を見て嘘をついてやる。べつに女になりたいとは思わない。長い髪も、高い声も、美しくなるための化粧も欲しくない。俺や僕という一人称が、舌に馴染めないだけだった。
「揶揄われたりしないの?」
「たまにあるけど、そういう人たちとは関わらなければいいだけだから…」
兼継は、へぇというような目をした。やっとアルコールを合法的に飲める年齢のわたしよりも、ひと回りほど上に見える。見下した色もなく、ただ眩しそうに兼継はわたしを見ていた。
「あなたも、わたしと同じ人種でしょう?」
兼継は黙って前を見た。どこにでもあるような席なら、兼継もわたしも馴れ馴れしく話したりなんかなかったと思う。
「『そういう人たち』が集まる場所に、あんたも行ってみたら?」
幼馴染みの二美つぐみに言われた言葉が蘇る。虎に食われるような思いで扉を開けて拍子抜けした。外の世界と変わらない。安心したような、がっかりしたような気持ちだった。
「…もし妻帯者だって言ったらどうする?」
兼継が意地悪く目を細める。わたしは試すような声色に笑いそうになる。
「別にどうも」
「どうして?」
「だって、嘘だから」
わざと通る声で言ってやる。この人は大人のくせに弱い。爪に少し傷がついている。明らかにして歯で噛んだような傷痕であったなら、間違いなく好きになってしまうだろうと思った。
「…なんだ、バレちゃったか」
「結婚してる人間が、出歩く時間じゃないし」
「学生の出歩く時間でもないけどね」
兼継は頬杖をつく。
「それは古い考えだね」
「名前からして古いから、そんな風にしか考えられないんだな」
兼継が自嘲気味に嗤う。わたしは彫られたように正確な横顔を眺める。人の内面は生牡蠣みたいなものだと聞いたことがある。だから、傷つかないための美しい殻が必要になる。
「綺麗な横顔をしてる」
「坊ちゃんのくせに、口説くつもりか」
思わず笑う。
「綺麗な花を見たら、綺麗だって思わず言うのと同じだよ」
わたしは溶けていく氷を眺めた。アルコールはそんなに美味しいとは思えなかった。どんどん水っぽくなるそれを、また飲みたいとは思えない。兼継も静かにそれを眺めている。後ろの方では明らかにそれと分かる男たちが嬌声を上げていちゃついていた。そこに何か勘違いをした男女数人が見世物を眺めるように笑いながら囃し立てる。
どこまでも下卑た歌詞の音楽を聴いているようで、耳を塞ぎたくなる。
「…そんな顔をしていると、悪いお兄さんに連れて行かれるよ」
「もう半分、引っかかってるようなものだから、別に」
視線を後ろに回す。
わたしも彼らと同じだけれど、べたべたとみっともない真似はしたくない。わたしの性は見世物じゃない。
その気になれば、兼継も同じようなことをできるのに指をこちらに伸ばすこともしてこない。これっきり会えなくなるのは哀しいと、心から思った。
「…君は白鳥のように美しいんだな」
「同じように返すなら、あなたは白鳥みたいに誇り高いんだね」
わたしはただ笑った。
兼継と目が合うと、すぐに逸らされた。自分から言い出したくせに、恥ずかしくなったみたいだった。
「飲まないと水っぽくなって、酒が不味くなるじゃないか」
急に怒ったように言って、わたしが放り出したアルコールを躊躇なく、兼継は飲んでみせた。
「それで、良い人はいたの?」
二美が探るような目つきで言う。
「良い人っていうか、…気になる人ならできたよ」
「ばーか、それを良い人がいたって言うの」
わたしは笑った。
「ぜーんぶ出会いを色恋に結び付けないと気が済まないのは、異性愛者の宿命かなぁ」
「あたしは気にしてるだけ」
ふうん、と鼻を鳴らす。
「どんな人なの?」
わたしは兼継の輪郭を描こうとする。あの後いつの間に滑り込ませたのか、連絡先を書いた紙片が丸めてコートのポケットに入れてあった。そんなことの一々を二美に言って聞かせたら、どんな顔をするだろう。
やめておこうと思った。
「…そっちは、最近男関係はどうなの?」
「別になにも」
「日照り続きでやんの」
わたしがわざと古臭く言うと、二美は脚を蹴ってくる。その様子を、通りすがりの人たちが一瞥してすぐ目を逸らす。
「…ねぇ、どんな風に見えてるのかな」
わたしが聞くと、二美は抑揚のない声で呟く。
「coupleじゃない?」
「…不釣り合い過ぎなのにね、特に女の方が」
「ふざけるな、逆だわ」
わたしと二美は過去を見ないようにする。coupleという単語を自分で出しておきながら、二美は傷ついている。性も違うのに、妻帯者と自分で言っておきながら傷ついていた兼継と似ていると思った。
二美に、高校を卒業する頃告白されたことがある。わたしは二美を、女を愛せないと伝えた。二美は傷ついた顔を隠さず、それでもただ笑ってありがとうとだけ言った。二度とその話はせず、友達にお互いを戻した。
わたしと二美は見ないようにしている。
過去にあったこと、どんな未来を歩むことになるのかを。
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