25.間違ったまま生きていく

 あの夜から一週間。すべては何も変わらないままだった。当初の工事計画通り、新校舎の土台部分には誰の死体も覆わないコンクリートが押し流され、クロはあの日以来、香織への殺意を見失ったままだ。


「……」


 今日は部活のない曇り空の放課後。香織が先に帰ってしまうその背中を見送って、ぼくは校内の植木を見て回りながら、古暮の言葉を考えていた。ぼくだって途中から気付いていた。この世界からぼく自身がいなくなってしまえば煩雑な多くの問題はすべて解決するだろうということには。気付いていたんだ。一番初め。クロが家を出ていったあの日から。しかし自分で考えるのと他人に指摘されるのではダメージの桁が違う。ぼくは自覚なく吐息を押し殺す。


 古暮の言葉はきっと正しいだろう。ぼくは未だに自身とこの世界との関係を肯定しきれない。抱えきれないほどの自分の軽さを、どう定義してこの世界に位置づければ良いのかわからない。内側から焼け付くように過剰な自意識を持つぼくは、呼吸ひとつとっても意味のある物語を欲しがり喘ぐような息苦しさでどうにかそれを完遂させる。


 そこから導かれるようにぼくは、殴打魔の被害者らの心情を想像した。彼らは自分の方から瑠璃華に依頼することで、客観的にも再起不能な被害者とされることを望んだ。自らの一部を切り落としてでも現状への関係を壊さないままに変えてしまおうとした彼らは、果たしてどれだけ重たい自己を背負ってしまっていたのだろう。そんな恐ろしいもの、ぼくなら最初から背負わないことを選ぶ。だけど選び続けた結果、こんな場所までたどり着いてしまっていた。なればこそどうしようもなく軽い自分がいなくなればいいのにと、他人からも自分からも思われてしまうのはひとつの道理だという気もする。


 被害者の家族はどうだろう。例えば一式。優しすぎて殴打魔に依頼してようやく、関係から解放されることを選ぶことができた偽装的被害者の妹。彼女は未だに真実を知らないままに、殴打魔たるクロやぼくの存在を憎み続けているのだろう。しかし自身の兄が厭うていたのは自分自身さえをも含めた世界と彼との関係であったという事実を知った時、彼女が憎むのは一体誰なんだろう。自分自身を彼女は責めることがあるのだろうか。それとも兄の弱さを叱るのだろうか。


 詮ない思考は強制的に幕を閉じられることとなった。


 緩やかな足音。激痛を伴う視界の揺れ。


「弱い人間は最初から何も背負わない。それもやはりまたひとつの正しい選択だと、ぼくは思うな」


 いつかの繰り返しのようにやる気なく背後から襲い掛かってきたのはくたびれたスーツに袖を通す例の首を吊っていた男で、避ける間もなく左肩にスコップを食らったぼくはみっともなく転げ回る。まさかとは思ったけれど、どうやらそれはクロが工事現場に置き忘れてぼくが回収し忘れたスコップだったらしく、その事実は奇妙にもぼくを冷静にさせた。


「…………か、はっ」


 叫び声をあげれば間違いなく人は来る。しかし生徒らが来るより前にぼくはこの男に殺されてしまうだろう。必死の想いで舌を噛みちぎることもなく声を押し殺したぼくを、男はもだえて内臓を巻き散らかす芋虫を見るような目で見ていた。そして答えなんて欲しくもなさそうに。


「どうして君は生き残ってしまったんだ」


 違うな、と男は首を傾げた。言い直す。


「どうして君は、君の両親を殺してしまったんだ」

「……ぼくじゃない」


 それは本当だ。それだけが本当だ。


 ぼくの両親を殺したのはぼくではない。ぼくの作り出したクロでもない。ぼくが殺した本物の。


「君だよ。君の両親を殺したのはぼくじゃない。君自身だ」

「……は?」


 言われた言葉の片隅に聴き逃してはいけないニュアンスが混じっていた。


 ぼくを笑わせるような台詞を吐いた男は何ひとつ面白くなさそうだった。


「勝手に人のせいにして殺したつもりになって、埋めたつもりになるなよ。兄としては悲しいものだね。そんなにおれのことが嫌いだったかシロ?」

「…………」


 さすがに言葉を失う。言われてみればたしかに、どうしてクロの認識ばかりがおかしいのだと思い込んでいたのだろう。二重人格に頭を冒されているのはクロじゃなく、ぼくそのものだ。ぼくの認識だってクロと同じくらい歪んでいてもおかしくはない。


 それこそ殺しもしていない死体を瑠璃華に処理させる程度には。


「……うわぁ」


 思い出すのは真っ赤な一面の彼岸花。過去に苦しむぼくの目の前に用意された幻想的なその風景が、多少の違和感を飲み込むほどの絶景だったからとは、今更な言い訳。


「あの大嘘付き」


 たしかに自分で埋めていないと言ってはいたが、そういう場面じゃなかっただろうに。


 何があの子自身の思い出が一番残っている場所だ。ぼくの口元からは思わず笑みがこぼれて細かく揺れる。


 そうか、クロは生きてたんだ。ぼくは誰も殺していなかったんだ。いや違うな、両親を殺した人間こそがぼくか。


 この世界で唯一、ぼくだけが人殺しだ。


 ついには声をあげて笑い始めたぼくを、彼は表情を押し殺したような顔で眺めていた。そういえば本気で怒るとこんな態度になる男だった。そのうち耐えきれないように口の端を怒りに震わせて苦言を呈するのだ。ほら。


「君はぼくという実在の人物がやったことにしないと両親さえ殺せなかったんだ。あまつさえその嘘にも耐えきれず作り上げた兄を殺して、それとはまた別に兄の人格を自分の内側に作り上げた。ややこしいことをするもんだ。そんなに怖かったのかよ」

「怖かったさ。クロ兄ぃにはわからないよ」

「クロ兄ぃなんて呼んだこともなかったくせに」


 笑ってんじゃねぇよ。と吐き捨てた。


「お前ムカつくんだよ。いつの間にそんなに弱くなってんだよ。自分の不幸を他に押し付けて我慢し続けていつまでも責任を取ろうとしないその態度で何が得られると期待してるんだ。誰にも気にされないゴミのように死ぬなら、早く勝手に野垂れ死ねよ」

「ぼくを置いて逃げて、しかも今まで黙って見物していたくせによく口の回る」

「逃げることだって何もしないよりはマシな行動だよ。君はどうもその辺りがわかっていない。だから最後まで逃げられずに悲劇を生み出してしまう」まぁいいんだけどさ、と。「たしかに君を置いて逃げたのは間違いだったのかもしれない。だから今改めて、ぼくはけじめを付けるためにお前を殺すことにするよ」

「最悪な自己満足じゃないか」


 ぼくは足蹴にされて押し倒され踏みつけられ。彼を見上げる形にされてなお、笑うことをやめられない。そんなぼくの上で彼はつまらなさそうに鼻を鳴らした。


「正義はいつだって自己満足だよ」


 そんな台詞とともに振りかぶったスコップは。


「本当にそうかしら?」


 しかし背後から伸ばされた手に掴まれ、そこから微動だにしなくなる。


 振り返った綾宮が見たのは素手のまま、ぼくらの状況を前に不愉快さを隠しもしない古暮の立ち姿だった。相変わらず足音のない女。


「私は正義ってもっと頭の悪いものだと思うの。それは私みたいな馬鹿の使う言葉であって、少なくともあんたみたいに小賢しく振りかざすものじゃない」

「また面倒くさそうなのが増えた」綾宮は呆れたようにため息を吐いた。「いつだったかに死にかけていたぼくを助けてくれたことには感謝するけど、そのお節介が極まって兄弟喧嘩にまで口を出されてもな」


 軽口を叩きつつ諦めたようにスコップを明け渡す。


 かに見せかけて、スコップを掴んでいる古暮ごと、背負投げでそれを遠くに投げた。


「な」


 普段から首を吊っている上に今もスーツ姿のためその身体にはひ弱な印象があったが、なかなかどうしてこの男も化け物レベルの腕力らしい。


 手に付いた赤サビを揉み消しながら一言。


「ぼくは馬鹿の語る正義ほど有害なものもないと思うな」

「うるさいわね」投げられた古暮はスコップを放り捨てて、苛立たしげに立ち上がる。「その馬鹿馬鹿しさを自覚しながらあえて正義を騙る偽善でしょ、本当の正義っていうのは。それに私はどんなに気に食わなくてもそこにいる男を救わなくちゃいけないのよ」

「気に食わないなら放っておけばいいじゃないの」

「えぇ、まったく。私も本当はそう思う。昨日まではそう思っていた。だけど今朝、考えを改めたわ」


 飛び切りの笑顔で。


「私はそいつが義理の兄だから救うのよ」


 ……。いや違うけどな。


 綾宮は呆れたように肩をすくめた。


「あの子が受け入れるって言ってるのよ。なら私も黙って受け入れるのが甲斐性ってもんじゃない」

「それいつか破綻するんじゃない。やめときなよ見捨てなよ、こんなの」


 沈黙のまま睨み合う。


「……妹はやらんぞ」


 ぼくの呟きは双方に無視された。


 二人は何の合図があったのか唐突に駆け出し、距離を縮めて。戦いが始まる。




 その戦闘の様子は筆舌に尽くしがたいものだった。右に左に上に下に。ただの喧嘩と呼ぶには、彼らの動き回る幅はあまりに途方もなく、手の出しようもないこちら側としては終始ゲーム画面のキャラクターでも見ているような気分だった。とはいえ別段ぼくは小説家というわけでもないし、語り得ないものについては沈黙を選びあえて視界から外すことにする。人はそれを現実逃避と呼ぶ。


 ……。というか、ぼくこそが当事者のはずなのに二人に放っておかれてあんまりに暇だ。なので今この自分の中にある、妙な笑いがこみ上げる爽快さの原因について考えてみる。


 そう。ぼくは両親を殺した。殺人という罪はあまりに重くぼくをこの世界と関係付けてしまう。ぼくはとうとう逃げられなかったのだ。呆れるほど間抜けなことに、ぼくは人殺しという罪によってようやく、この世界との間に横たわる距離を測ることができた。


 ぼくはこの世界の一部だ。


 そんな当たり前過ぎる事実に、今更気付く。手元を見ればそこには五本の指があり、爪が嵌まり、腕へと繋がる。たった今スコップの首が飛んできた足元を見下ろせば、そこには人の形をした僕の身体があった。ぼくはこの形に世界を押し広げて居場所を占有し、存在している。ぼくは消えることも透けることも、自意識に合わせて容量が増えたり減ったりもできない、ただのありふれた人間でしかあり得ないのだ。人の肉を着ているぼくは一人の人間として他者に認識されて、この世界の外側にいることなんてできない。香織はぼくの手を引いてくれるだろう。古暮は厭いながらも何だかんだでぼくを守るだろう。その古暮に投げられて木の枝に引っかかった綾宮は、これに懲りずこの先もぼくを憎んで排除しにかかるのだろう。それはすべてぼくがここにいてしまうからなのだ。ずっと前にぼくが生まれてしまった時から、それは望むと望まざるにかかわらず身体の形のままこの世界に組み込まれている。


 香織があの夜に願ったのはきっとそんな世界だ。そして殺人者であり障害者でもあるぼくが生きていけるのは、殺されたがるばかりだった彼女が最後に選び取ることのできた、そういう世界でしかありえないのだ。なんて優しくて、残酷で、煩雑な理想世界なんだろう。その選択のせいで、たくさんの人が死んで傷付けられて、これから先もたくさん死ぬだろう。それでも彼女が選んだこの世界にしかあり得ない価値がたしかにある。間違いなくそれはある。正しさだけで内側に組み込むものを選び取った別の世界のあり方においては、そこにはぼくがいなくてクロもいなくて、きっと穏やかで平和で誰も傷付けられることのない純粋な景色だろう。しかしあえて言葉を選ばずに、排除される側な蚊帳の外から言わせてもらえれば。


 そんな世界、最低につまらなくないか。


 そこでは何が面白くてどう生きる価値があるというのだろう。目の前のこの光景を見せてやりたい。ほら見ろよ。綾宮が古暮に殴られてら。あ、殴り返した。……。人ってあんなに飛ぶものだったのか。信じられねぇこいつら本当に人間かよ。


「……ふふふ」


 ボコボコガンガン支離滅裂に意味の分からない暴力がこれからも毎日、凄惨にぼくの景色を狂わせていくだろう。構わないよ。ぼくはそのすべてを受け入れて笑いながら生きてやるから。仕方ないじゃないか。面白いんだもの。狂ってるから面白いんだ。クロはそのうちまた香織を殺そうとするだろう。ぼくはそれを止めようとして古暮の足を引っ張るのだろう。気違ったこの世界に組み込まれてひとりのキャラクターとして殺戮ごっこを繰り返すぼくであるなら。ぼくはぼくとこの世界との関係を肯定しながら生きていけるかもしれない。目眩がする光景に生きて殺して、殺されかけて。香織が望みぼくが生まれて初めて配置された唯一のこの世界を、ぼくは肯定する。誰にも否定させない。


「ふふっ、あははははははははははははは!」


 なんだ、って思った。


 間違ったまま生きていくってことはこんなにも簡単だったのか、と。

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