23.私にはそれが正しいことだとは思えなかった

「シロ兄ぃを救ってくれてありがとね、クロ兄ぃ」


 何の冗談だろうかと思った。クロ兄ぃだなんて、幼い頃にさえおれはそんな呼ばれ方をしたことはない。


「……」


 本当に何の冗談か。おれの手は思わず静止し、香織の頭を砕くことなく止まってしまった。ふざけたことに。そんな台詞程度でおれの殺意は跡形もなく溶け去ってしまった。金属バットがからころと音を立てて転がる。


 香織は目を逸らさずに笑って見せた。


「私はずっとクロ兄ぃにありがとうって言いたかったの。私ができなかったことをやってくれたクロ兄ぃに。やり方は間違っていたのかもしれないし、あなたの存在は生まれるべきではないものだったのかもしれない。そのせいでもっと多くの人が傷付く未来があるのかもしれない。それでも私はあなたに感謝したかった。あなたはあの時紛れもなく、私の大切な人を地獄から救ってくれたのだから。だからこそクロ兄ぃが私のことを殺したいって言うなら、私はその願いを叶えさせてあげたかった」

「……」

「でもシロ兄ぃといーくんはあなたの願いを叶えたように勘違いさせることで、あなたの存在を消そうとしていた」



 私にはそれが正しいことだとは思えなかった。



「だってあなたが生まれてしまったのは間違いなく私たち一人ひとりの責任で、その悪を必要なくなったから、もっと悪いものになってしまったからと簡単に切り捨ててしまうのは何か違うと思うの。少なくともシロ兄ぃはあなたに救われた。きっとこの先もまたいつかあなたの邪悪さが必要になる気がするよ。暴力的で最悪で不愉快で異常でたまらなく有害なあなたを、私は排除したくない。だからこんな陳腐な言葉ひとつで私を殺せなくなってしまったあなたに、私はもう殺されてあげない」


 それにね、と彼女は笑った。


「絶対みんな一緒の方が楽しいよ。隣りにいるだけで安心できるような人たちだけで固めてしまうのもきっとひとつの幸せなんだろうけどさ、それより私は次の瞬間に何をするかも予想がつかない人たちと一緒に毎日、面白おかしく暮らしていきたいな。きっとできるよ。できなきゃいけないんだよ。人と関係するってたぶん、キツいのも苦しいのもぜんぶ引っくるめて楽しんでしまうことなんだよ」


 彼女の一言一言でがんがんと頭を揺さぶられているような感覚に苛まれながら、クロはどうにはその言葉を口にした。


「……おれはいつかお前を殺すぞ」

「殺されないよ。シロ兄ぃやいーくんが守ってくれるもの」

「おれはきっと常に誰かを傷付ける」

「どうにか上手く折り合い付けてこうよ。みんなで考えればきっと何か良い方法が見つかるよ」

「おれはお前を憎んでいる」「私もだよ」


 クロは視線を上げて、自身を見上げる香織と目が合う。


「私も綾宮クロが心底憎い」

「……」


 瞳の奥に燃え盛る憎悪が隠れて。伸ばした手がクロの首元にかかる。


「それでも、それでもなんだよ。私は自分のこの醜さを否定したくない」


 香織は笑って、その手を離した。そのまま震える頬を指先でなぞる。


「私は自分の醜さを確かめながら、この世界にみんなの居場所を作り出して見せるよ」


 彼女の手は誰のものかもわからない涙で、微かに濡れていた。

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