21.十五万七千四十一通目の手紙

 おれはゆっくりと目を開く。そこは相も変わらず真っ赤なおれの部屋。もう何日も寝ていないような朦朧とした視界で、しかしおれの意識は何度も断絶を繰り返した痕跡を残すばかり。過小な現実感に溺れたままおれは手を伸ばし、骨のようなペンを取る。十五万七千四十一通目の手紙。封をする。ペン先は長いこと乾ききってインクが出ておらず、筆圧のみでさえ何を書いたのか覚えていない。辺りには白い封筒の束が散らばっていて一面に雪景色のようだった。


「……」


 垂らされたように染み入る違和感。


 違う。一枚。たった一枚だけ黒い封筒が混じる。


 拾い上げたその封筒をおれはしげしげと眺めた。黒面に白字で書かれた宛名はおれ自身。覚えのない筆跡に書いたこともない字面。いつの間に紛れ込んだのかと差出人の名前を求めて裏に返す。


 矢羽根シロ。


 中身の文面は、恐らくはそっけないものだった。それでも今のおれの淡い認識では読むことにも苦労して、ようやく意味が取れた頃、その手紙にはまともな文章が掲載されていないことに気付く。記述された語彙の羅列にめちゃくちゃな走り文字が上書きされ、前文と後文の誤りを交互に訂正し、語末に訂正自体の矛盾を指摘する。それでもあえて読もうとしない視界の端に語彙を掴み取ることで伝わった情報を整理する。


 おれが香織を殺せなかった理由。おれが香織を殺したがる理由。香織がおれに殺されたがる理由。


 それらは一切合切、余すところなく伝わったはずだ。思い出そうとすれば何ひとつ文面にはならないが、きっとおれには伝わったのだ。手紙は届いた。この日、山羊は険しくも懐かしい山へと帰り、その骨は山の砂へと還るだろう。その証拠におれは今なら香織をためらいなく殺すことができると確信する。


『綾宮クロ。君はもう香織を殺せるはずだ』


 気付けば外の雨は止んでいて、空のひび割れがめきめきと音を立てながら急速に修復されつつあった。意識がはっきりとし、視界の狂気が存在感を失くす。次の瞬間には窓の外に晴れた午後の涼やかな景色が広がっていた。


「……」


 香織を殺そうと思った。香織を殺そうと思った。何度も何よりも強く、香織を殺そうと。そう思った。


 腰掛けていた本棚から立ち上がり、家を出て。学校へと至る方向に歩き始める。誰ともすれ違わない奇妙さのまま、されど景色だけはまともだった。猫一匹いない無人の街を歩く。昔から馴染みある当たり前の状態のような気もするし、何かしらがおかしいような座りの悪さも感じる。車ひとつない公道の真ん中を歩き、時間をかけて学校へとたどり着く。


 校庭にも人影は見当たらず、異様さは極まる。されど考えてみれば生徒らは授業に参加しているだろう時間帯なので、普段からこのような光景なのかもしれない。そう思いつつ昇降口から校舎内へと入り、無人の教室の前をいくつも通り過ぎる。階段を変えて屋上へと至る。空は青く何の変哲もないようであるのに、それでも感覚に残らない違和感だけがわずかに香る。


 見下ろした校庭には影を作る校舎列が並ぶ。その様を眺めながらおれはどうやって香織を殺そうかと考え始めた。


 彼女を殺すとしたら深夜の学校敷地内が最も段取りを組みやすいだろう。乗り越えるべき障壁はふたつあった。すなわち。



 一、殺した後の香織の死体の処理

 二、シロの感覚共有を回避した上での殺人



 これらの条件を達成する方法が必要不可欠だった。まず前者については瑠璃華でさえ苦労するというし、できれば自前で片付けたかった。恐らくあの少女が消えてから他の人間が騒ぎ出すまで、どんなに長くても八時間。短ければ二時間で警察に連絡が行くだろう。その短時間で死体を完全に消し去るのは難しい。かと言って、死体を現場に残したままにするのは愚策で、その際、真っ先に疑われるのは普段から香織の近くにいる人間だろう。そうなればおれは間違いなく容疑者の一人だ。であるからして一旦どこかに死体を隠し、後日改めて処理するという形。つまりあくまで失踪の疑いを残すのが望ましい。そうすると今度は、条件その二の方がネックになる。死体を完全に処理できればこそ、奴はおれの犯行を他者に証明できなくなるが、ただ隠した程度であればシロはそれを発見し、おれの犯行を告発するだろう。


 やはり難しい。そもそも条件その二がある限り、おれの犯行は奴の監視がなくなる時間を期待する以上、細切れなものにならざるを得ない。根本から発想を変えた方がいくらかマシな気がしてくる。


 ふとおれは取っ掛かりになりそうな何かを視界に探す。こんなに意識がはっきりと続く状態で物を考えられるのも久々で、内側からの発想のみで完璧な案が浮かぶとも思えない。それにしてもどうしておれは学校の屋上に来たのだったかと首を傾げる。

 工事中の新校舎が目に入る。いまだに基礎さえできておらず、しかし計測は終わっているのか敷地内には専用の糸が張り渡されているようだった。


「……」


 そういえばとおれは思い出す。たしか先ほど読んだはずの手紙に学校の屋上からこの光景を眺めるよう書いてあった気がした。詳細な文面が相変わらず思い出せない。


 しかしどうしてか、おれは思い付く。香織を殺し、その死体を消し、シロの口を封じる方法を。


 屋上の柵から身を離し、相変わらず無人の校舎を昇降口まで降りて、新校舎予定地の前に立つ。目当ては工期表。その工程の予定日を確認する。


 知れず漏れた吐息にはわずかに笑みの音が混じっていた。

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