20.もう人間やめちまえ

 ぼくはその晩、話がしたくて瑠璃華を探していた。


 自力で探せるとは思っていない。向こうから見つけてもらうのを期待して夜の街の薄暗い場所を選んで歩く。もちろん瑠璃華が自発的にぼくなんかへと話しかけることも期待できないだろうから、ぼくは自身がクロと勘違いされるようにヘッドホンをつける。ちなみにそれは、この身体が今クロである証のようなものだ。クロは外を歩く時、常にヘッドホンを首にかけていた。ぼくの方は音楽に欠片も興味がないから、毎回主導権がこちらへと切り替わるたびに外していた。周囲はそれを目印にしてぼくの顔をした身体の中身がシロであるかクロであるかを判断していたようだ。


 帰宅時の歓楽街を抜けてさえ誰にも行き逢わず暇を持て余し始めた頃、せっかくだからとまったく名前のわからないiPodの中身をスクロールしていって、適当なアーティストの曲を「べぶばっ」


 轟音が耳元を襲い、思わず奇声とともにヘッドホンを毟り取る。


 正直ここ最近で一番驚いた。誰に襲われた時よりも心臓が止まりかけた。


「クロの趣味も大概だな」


 なんて独りごちつつ音量を下げて比較的穏やかな曲を選び、落ち着いて聞いてみる。逃走を計画するディリンジャーといえば、恐らくは銀行強盗の方だろう。気怠げなギターに乗る裏声の歌詞はこんな内容だった。


 彼女を通して感じた終焉の輝き。永遠を望んで、我々は太陽を昇らせまいとした。


 しかし空中の俺をお前たちの矢が貫いた。


 だから今、我々のうちの一人は死ななくてはならない。されど殺戮者は生き残れまい。


 さて。我々の中に一人、人殺しがいる。


「おや、綾宮くんじゃないか」


 呼ばれてヘッドホンを外しつつ振り返れば、そこにいたのは私服姿の医師だった。


「……先生を探してたわけじゃないんだけどな」

「んっと、なんだ矢羽根くんの方か」


 どうやら彼はこちらの意図通り、ぼくのことをクロと勘違いして声をかけたらしい。いやだから、別に彼を釣り上げたかったわけじゃない。


 改めて眺めてみれば、洗い晒しの明るいポロシャツに細いチノパン。三十代と言っても通りそうな出で立ちで、そういえばこの人は独身だったかもしれない。


「紛らわしいことをしてるね。勇気を出して損した」

「勇気?」

「殴打魔容疑者に声をかけるなんて普通の神経ならやらないよ」


 ぼくの周囲にはない珍しい意見だったので戸惑う。言うつもりのなかった嫌味を言ってしまう程度には。


「クロがいくら殺意を持とうと、彼はあなたの患者ではなかったのでは?」

「……夕飯は食べたかい」


 奢るよ、と医師は先導する。ぼくは自身の発言を後悔しながらその背中についていく。


「映画を観た帰りだったんだ」

「はぁ」


 話は弾まず、医師と患者の関係を離れればこの人とぼくはこの程度の距離感が残るだけなのかもしれないと思った。しかし互いにそんなことを気にする性格でもなく、沈黙のまま比較的落ち着いた通りへと出て、曲がる。


 彼がここにしようと立ち止まった場所は昭和の雰囲気を残した老舗洋食店で、照明の煌々と灯る内側は時間が遅めだったためかまばらな客席だった。有線の流れる店内に木製の床とカウンター。医師とぼくは個室のように仕切られた隅のテーブルへと案内される。メニューを見ればビフテキやハヤシとこれまた時代を感じさせる名前が並び、どれもスタンダードすぎてかえって馴染みのない料理が多く、迷うことさえ諦めて医師と同じトンテキを頼む。しばらく待って出された料理は生姜の効き過ぎているきらいはあるものの、味がはっきりしていて見た目より美味しかった。


「異常さはどこまで許容されうるべきかという話なんだ」


 医師は食事終わりにビールを頼み、ぼくには珈琲を頼んでくれたあと、本題だとばかりに切り出した。


「たしかにぼくは精神科の医者だ。されど患者が犯罪を犯したからといってそれを黙殺する義理はないし、治療の責任を問われれば医学の限界だと開き直ることもすると思う。犯罪というのは明確な境界だけど、もっと浅い程度の異常もあるよね。例えば犯罪ではないけど他人を不愉快にさせる言動や微妙な迷惑をかけるような能力の欠如。そういったものが例えば病気の枠内で説明できるなら、その異常をぼくは擁護すべきだろうか。一方、枠の外側という括りもある。病気とは認められなくて個性の範囲の外縁一歩手前に位置する異常。これをぼくは擁護すべきだろうか。一般の他者は自らのこうむる損害を顧みずに彼らを受け入れるべきだと声高らかに叫ぶべきだろうか」

「だからあなたはクロを患者の内側に入れない、と?」


 医師はわずかな自虐をにじませて微笑む。


「ぼくだって人間だ。君が二重人格だというとのはまだいい。それで主人格でない時も相手の感覚を知覚し生活に支障を来すと言うなら、それが遮断できるよう手だって貸そう」へそで緑茶を沸かすなどと言ってたのは誰だったか。「しかし君が相方の殴打魔としての犯行を知覚しているとまで言われるとお手上げだ。関わったという事実だけでぼくの人生は破滅するだろう。正直に言って怖かったんだ。ぼくの患者がたくさんの人に傷害を負わせたかもしれないという事態が世間の明るみに引き出された時、ぼくが把握しながら見過ごしていたとなればどう甘く見積もっても廃業は免れ得まい。だからぼくは君の話をテレパシーだの妄想だのと切り捨てたふりをして、後から尋ねられた時にも知らなかったことと言い逃れ出来る程度の演技が精一杯だった」

「……」


 ぼくは彼の言っていることがよくわかる。先日話してくれた通り、この人自身こそが他者との関係さえもビジネスライクな貸し借りだと割り切って生きてきたのだろうと思うから。しかしだからこそ今の先生の言葉はきっと本心で、それと同時に彼自身が最も厭うあり方なのだろうと思った。


「でもさっきは勇気を出してまで、クロに声をかけた」

「同じ理由さ。ぼくだって人間だから」

「……」

「ぼくは君らをそのままに受け入れて、君らの居場所となることはできない。何故ならぼくはあくまで君らの人生の部外者でどんなに手を貸したところでいずれ限界が来るだろうからだ。それほどに君らの異常さは深刻だ。されど君らが自身の居場所を作る手伝いならできる」

「……手伝いですか」

「方法論の方が正しいかもしれない。前回の説教の修正版。つまりは君のための生き方教室。極めて傲慢なのだろうけどね。何もせずにデタッチメントを貫くよりはいくらかマシだろう。さてそんなぼくが君に言いたいのは、責任を取れということだ」


 首を傾げる。


「クロではなく、ぼくがですか」


 断言する。


「この物語は徹頭徹尾、君のものだ。一年前の君が生み出した人格が今、君を救ってくれた女の子を殺そうとしている。その子自身だって君への罪悪感から、君に殺されることを受け入れようとしている。その状況は君自身が望んだ外影でもある。人間の発明史は外部化の歴史だ。道具はすべて手の延長で、計算機は脳の延長を外部化したものにすぎない。人は人を超えたものを生み出したことはない。神でさえ、そうありたいという規律を外側に投影したものだ。天使でさえ悪魔でさえ精神の一部でしかない」

「でもあくまで法律の話で言うなら、二重人格における他の人格は罰せられないのでは」

「それでも、君はクロの一番近くにいて彼の犯行を止められたはずの人間なんだ。そういう意味ではぼくにだって責任がある。誤解しないよう、はっきりと言っておこう。責任は負債ではない。それは権利だ。君には彼を止める権利がある。彼の凶行に心を痛めてそれを君が正しいと思う方向へと修正することが許されている。生み出した責任を恐れることはない。それはなければただ意味もなく死ぬ平坦な地平に突起した一本の樹木だ。ないよりはあった方が面白い」

「……」

「生きるってそういうことじゃないの」


 そうやって先生は笑った。




「シロちーじゃん」


 ぼくは医師と別れたあと、しばらくまた瑠璃華を釣るために芸もなくヘッドホンをして歩いていた。しかし動物的感覚に優れた彼女には効果のない擬態だったらしい。見上げた先にセーラー服の足元が映り、正面に立っていたのは求めていた相手の求めていなかった呼びかけだった。


「……よくクロと見間違えませんでしたね」

「むへへ、瑠璃華ちゃんのクロちむ審美眼を舐めるなよ。それで、シロち。そうやってクロちむのふりしてたってことは、瑠璃華ちゃんに用があったのかな」

「…………」


 冗談抜きでこの人の察知能力は、アウトオブ人類だな。


「む……何か失礼なことを思われてる気がするぞ」

「もう人間やめちまえ」


 思わず出てしまった本音をごまかすように咳払いをひとつ。


「ずっと尋ねようと思っていたんですが」その質問は自分でもつまらないものだと思っていて、だからこそ今まで訊けなかったことだった。「どうして瑠璃華さんはクロを引き取ったんですか」

「んー」


 彼女は少し考えるように夜空を見上げた。つられて見上げた視界を住宅街の電信柱列が囲う。


「少し歩こうか」


 先導する彼女についていく形で郊外へと向かう。時刻は深夜を少し過ぎた辺りで街灯の明るさが不自然な団地前の車道を、脇にもよらず我が物顔で歩く。人の気配はなく、たまにすれ違うタクシーに道を譲りつつ、風圧で転がっていく空き缶を横目に追う。


「さっきの質問だけど」瑠璃華は振り返りもせずに唐突に会話を再開した。「一年前じゃなくて、五年前の話だよね」

「もうそんなに昔ですか」


 クロが家出した日の絶望は、つい昨日のことのように思い出せるけど。


 彼女は嬉しそうに振り返ってぼくの横に並んだ。ニマっとした笑顔。


「それなら理由はないよ。ただ助けられたから助けてみた」

「……じゃあ、ぼくの頼みでクロの死体を処理してくれたのも」

「そうだね。愛着や感慨がついてくるのはあとからだよ。シロちーがクロちむの顔してやってきても、それはそれでクロちむの個数が増えたなと嬉しかったよ」

「ぼくは本物のクロを殺したんですよ。恨まないんですか」

「……むぅ」少し困ったように瑠璃華は口を尖らせた。「本当にシロちがクロちを殺したとしても、やっぱりそれはそれ。シロちに怒っても疲れるのは瑠璃華ちゃんじゃん。どうせ取り返しが付かないならせめて瑠璃華ちゃんだけは笑っていたいの」

「じゃあもし、今もう一度ぼくがクロを殺すとしたらどうします」

「やめて欲しいな」


 控えめながら、即答だった。


「そんな漠然と言われても、さもなくばあなたを殺すという話になるだけな気が」

「本心なの。みんなもっと適当に生きていけたら幸せだと思うんだけどな」珍しく悲しそうな声音。「殴打魔だってこの前に言った通り、瑠璃華ちゃんは上手くやってたでしょ。ほら、万一捕まっても同意の上だから、下手したら二重人格ってだけじゃなくとも情緒酌量が付くよ。誰もが選びたくても選べない方法を瑠璃華ちゃんなら選ぶことができるから。モラルを無視したやり方ができる悪魔みたいな瑠璃華ちゃんの周りで、みんな頭を使わず幸せになればいいんじゃないかな」


 彼女はそう言って笑う。


「……」


 ぼくは瑠璃華の理想を否定することができない。そんな世界の中でなら、たしかにクロは上手く組み込まれて生きていくことができるだろう。罪だ責任だと勝手にこだわるぼく自身が馬鹿なのではないかという気もする。だけど。


「ふたつだけ尋ねさせてください」

「ふむふむ」

「ひとつはクロの死体を埋めた場所です」

「……うーん?」その質問は彼女にとって想定外だったろう。「埋めた?」

「死体を処理するだけなら、あなたの周りにはそれなりのルートがあるのでしょうけど。たぶんあなたはクロを自分の手で弔ったんじゃないかと思います」

「……」


 彼女は何も読み取らせる気のない無表情のままに沈黙を返す。


「そうなるとクロの墓はどうしても近場。県外までは出ないんじゃないでしょうか」


 瑠璃華はしばらく黙っていたが、やがて呆れたようにため息を吐いた。


「……瑠璃華ちゃんほどの悪魔が、相手はクロだからって感傷で死体を自分で埋めるなんてリスクを犯すと本気で思うの? シロちんがそうであって欲しいから、そう思い込んでるようにしか見えないんだけど」

「その通りかもしれません」普通に考えれば、そちらの可能性の方が遥かに高いだろう。「だけど万が一クロの墓がこの近くあるなら、ぼくはその場所で自身の犯した罪を見つめ直したい」

「……」


 それは再びの長い沈黙だった。しかしやがて、ため息混じりに瑠璃華は口を開く。


「瑠璃華ちゃんはクロちむの死体を埋めてないよ」

「……」


 それはある種の拒絶で。


「だから今から言うのは仮定の話だけど」


 それと同時に、彼女に残った唯一の薄っぺらい感傷だった。


「もし瑠璃華ちゃんがクロちむを埋めたとするなら、たぶんあの子自身の思い出が一番残っている場所を選んだと思うな」

「思い出が一番残っている場所?」

「シロちんなら、又聞きの私よりよく知っているでしょ」


 それはきっと、ぼくが寄り付かなくなった場所。幼かった三人が遊んでいた。


 たぶんシロ兄ぃはもう、あの場所に行くことはないんだよね、と。香織の言葉を思い出す。


 あの神社裏ならここからもそう遠くはなく、この後にでも足を運んでみようかと思った。


 しかしその前に。


「ふたつめの質問ですが」


 念のため程度の心地でぼくは、ぼくの望む未来への布石を打った。


 それはどこまでも卑怯なぼくらしい、選択をしないままに色んな人の思いを踏みにじる方法だった。


「瑠璃華さんは、クロに殺されてみたいと思ったことはありませんか?」




 ぼくは綾宮の家の前を通り過ぎた。中に入れば自身の頭の中のクロと会えるかもしれないが、足を止めずにそのまま古い神社のある方向へと足を向ける。


 時刻は三時を回った辺りで、そろそろ早朝と呼んで良い頃合いだった。じつのところぼくは常日頃から、矢羽根家の両親にはクロの側の事情で深夜に出歩くことを容認されている。もちろん香織には心配されるけど、彼女の方の門限は遅くとも午後九時まで。結果、香織はどうやってもぼくの徘徊に最後までついてくることはできず、そういう晩はいつも不貞寝しているらしい。申し訳なく思うべきか、確保される彼女の安全に胸を撫で下ろすべきか迷うところだ。


 ぼくが目指すのは神社裏の空き地。かつてぼくやクロが毎日のように遊んでいた場所。


 そういえば先日、その場所へと行けば今の時期はちょっと楽しいことがあるかもなどと香織が言っていたのを思い出す。あれから忙しくて結局今日まで行けなかったのだけれど、彼女の言っていた楽しい時期にはまだ間に合うのだろうか。


 一方で恐らくそこは、クロの眠る場所。彼の思い出が最も多く残っている場所といえばここしか思いつかないし、まず間違いないだろう。


 ぼくは黙々と足を動かした。感傷も感慨もないただの巡礼のように、過去の風景を背後へと送り出して行く。子どもの頃には安々と登ることのできた階段や、通り抜けの容易だった林を苦労して通過し、ようやくその場所へとたどり着く。


「……」


 言葉を失う。思い出す。この光景こそがぼくらがここで遊ばなくなった理由だったのだと。


 それは一面の彼岸花だった。


 真っ赤に咲き乱れた地獄の花は森林の真ん中にぽかりと開けた地面を覆い隠して、月明かりの下に血の海を広げていた。


 どうして忘れていたのだろう。ぼくらはここに彼岸花を植えたのだった。河原から一房二房と盗んできてはここに植え替えることを少しずつ繰り返して、何もなかった空き地をこの上ない花畑に変えた。それがきっかけでぼくも香織も園芸に興味を持ち始めたのだし、遊び場を失ったのも当時のぼくらがやり過ぎて、彼岸花の群生に土地を奪われてしまったのだった。それでもぼくらはここを去る時、恐らく笑っていたはずだ。ぞっとするほどに綺麗な花弁の形が密生するこの場所に、後悔は似合わない。


 そしてきっと、この赤の下で本物のクロは眠っている。ぼくの殺した兄がここにいると思うと、多少は逃げ出したくもなるけれど、早々に覚悟を決めてその場に腰をおろしあぐらをかく。


 風が吹き抜けて、静かに虫の声が聞こえて。


 ぼくはどうしようもなく苦しくなる。


 他者の命を踏み台にして地獄を抜け出た代償をいつか払えと言われたなら、何でもその時言われた通りに差し出せばいいと思っていた。どうせ何を失っても恐れる理由はないだろうと思い込んでいた。しかしいつの間にか自身の価値は重みを増し、辺りを見渡しても誰一人としてぼくが犯した罪を裁こうとする者はいなかった。ぼくの払うべき負債をいつも誰かが肩代わりしてきた。それは香織であったりクロであったり。


 あの夜、ただ何の考えもなく機械のようにクロを殺したぼくは、立つ際の背骨となるべき主張がなく覚悟がなかった。だから今、過去の殺人の延長でしかないあからさまな選択を前にみっともなく震えている。


 あの日と同じように、再び人格としてのクロを殺すのはきっと簡単だ。その際に瑠璃華を殺そうと、香織が死のうと、古暮に呪われようと、一切はぼくに関係ないのだと心に決めてしまえば、すべては火をつけて眺めていれば終わる物語だろう。蛹はまったくの灰になる。


 しかしその時、ぼくという存在は本当に取り返しのつかない向こう側へと落ちきってしまう予感がある。その場所には善も悪もないだろう。ならば医師の言う通り、落ちきってしまうということもひょっとしたら、ぼくにとってある種の救いであるのかもしれない。されど落ちきった先のその場所はきっとぼくの地獄が生まれた場所でもあるのだ。想像のない無関心や関係の断絶の果て。そんな場所で両親の虐待は生まれた。


 一方でクロを生かし続けることだって難しくはないだろう。何よりまず瑠璃華が味方になってくれる。クロでなく逆にぼくという人格が消えてしまえばこの身体はクロとして生きることができ、彼はためらいなく香織を殺して瑠璃華とともにこの街を出て行くだろう。


 綺麗な景色だった。


「死にたいな」


 一言呟いて、深呼吸をする。もう苦しくはなかった。




 その日のうちにもう一人だけ、話しておきたい相手がいた。ぼくは夜明けを待ってその玄関先で彼女を待つ。


 行ってきますと背後に呼びかけ、ちょうどあくびを噛み殺したぼくと目が合い、香織は少し不機嫌そうな顔になった。この様子だと昨日も不貞寝したのかもしれない。


「シロ兄ぃ、朝帰り」

「ただいま」


 挨拶は無視されて、そのまま手を握られ家の内側へと踵を返しかけた香織を、ぼくは引き止める。


 彼女は振り返って首を傾げた。


「学校は?」

「サボろう」


 目を丸くした香織の手を掴み返す。


「あ」


 尋ねかけた声は言葉にならず、彼女は手を引かれるままに付いてきた。


「彼岸花を見てきたよ。綺麗だった」

「……」


 沈黙に耐えかねたぼくが寝不足気味の頭で絞り出した話題は、しかし彼女の口を開くには至らなかった。構わずに続ける。


「リコリス属は自然分球するけど、あそこまで綺麗に増えるにはやっぱり人の手が必要だったと思うんだ」


 もしかしたら一昨年まではあの場所の彼岸花はほとんど枯れきっていて、荒れ地同然だったのかもしれない。元々の土質を考えればそちらの可能性の方が高いだろう。しかし昨夜見た花畑はとても数ヶ月程度で用意できるような景色ではなかった。


 ぼくは想像する。園芸部をサボった制服姿の香織が一人きり。あの場所の彼岸花を植え替えているような光景を。きっとその場所での過去を思い出しながら、いつか戻ってくる誰かのために。彼女は去年の夏、そんな無駄になるかもしれなかった作業を一人で続けていたのかもしれない。結局この子はぼくのことを一度たりとも忘れることができなかったのだろう。


 馬鹿な妹。


「香織」


 公園についたぼくは足を止めて振り返る。


 彼女は顔を上げた。怯えたような。それはきっと言葉の先をすでに予想していたから。だけどぼくはその予感をあっさりと裏切る。


「クロに殺されてくれないか」


 目を丸くして。


「……いいの?」


 ひどい返事だった。否でも拒絶でもなく、期待混じりの尋ね返し。


「クロを消すにはそれしかないと思うから。けれど」


 何かを言いかけた彼女を語尾で押し止める。


「香織は死なせない。君を殺すのはぼくだ」


 少女はぼくの想いを察したかのように身を強張らせる。ぼくの憎しみを読み取ってしまったかのように。握られた彼女の手首がぼくの手の内側で痛みにもがき、しかしぼくは彼女を逃さない。


「すぐ殺してしまうなんて優しすぎるよ。ぼくの憎しみはきっとそんな生ぬるいものじゃない。そうやって簡単に済ませてしまおうとするクロになんて渡さない。この手で一生にほとんど近いくらいの長い時間をかけて、君の苦痛を引きずり出したいんだ」


 彼女を離した。ぼくの指の跡が彼女の手首に残る。淡い吐息に震える右手でその跡をなぞる。


 だから一緒にクロを消してしまおうよ香織。と、ぼくは改めて手を差し出した。


 理解が至りゆっくりと強張りを溶かした戸惑い混じりに、しかし彼女はぼくの手を取る。

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