19.三六七九通目の手紙
ふと気が付いた時、クロは呆然と立ちつくしている自分を発見した。
「……」
辺りを見回してもまぶたを閉じているのと変わりないほどの暗闇で、目が慣れてようやくここが相変わらず学校の屋上で、今は日没後であるなどといった付加情報を手に入れていく。
古暮も香織も、そこにはいなかった。
空を見上げれば星ひとつなく、ひび割れた肌のように血の滲む真っ赤な空が広がる。よく見れば蟻のように小さな数千もの月がひびの内側を一方向にうごめいており、その様を見上げていると、やがていくつもの顔が降ってきた。彼が知っている人、知らない人。ぼたぼたと地面に落ちてはざくろのように割れて脳漿を飛び散らかすそれらに、しかしクロは視線を向けもしなかった。屋上から階下へと戻る。
校舎内は輪をかけてとち狂っていた。壁に埋め込まれた眼球群は掲示物を仔細に読みながら、視神経の束を無造作に踏んで廊下を通り過ぎるクロへと時たま関心の薄い視線を送った。ふと後ろを振り返ると大きな黒い山羊が少し距離を置いてついてきていた。図体の割りに小さな蹄の音を響かせて、クロが立ち止まれば向こうも止まる。警戒を捨てて昇降口を目指せば器用にも階段を降りてついてくる。階下は手洗い場の水道が破裂したらしく、飛沫をあげて天井へと噴き出す水が溢れ、床へと浸水していた。数人の顔がはっきりしない男たちが苛立たしげに意味の聞き取れない言葉を交わしながら、バケツで床の水をすくっては窓の外へと捨てていた。窓の向こう側、校舎裏では一面。崖壁のように迫りくる溶岩が息づいていて浴びた水を一瞬で蒸気に変え、赤々と身震いしていた。
クロは背後の山羊に背中を小突かれたことではっとし、光景から目を逸して昇降口で濡れた上履きを靴と履き替える。すぐに靴下の内側まで水が染み込む。校庭を抜けて、降ってくる顔が成人から赤子のそれらに変わっていることに気付いて傘をさすのを諦める。新校舎予定地の脇を通って校門をくぐると、山羊はそこで立ち止まり彼を見送った。どうやら敷地の外に出られないらしい。クロは感慨なく背を向ける。
住宅街はノイズ混じりだった。死にチャンネルの縦カラーが継ぎ接ぎされた家が立ち並び、たまに海外の無線を拾うのかロシア語のような息遣いが吐きかけられる。一番ひどい家は雨のような音で輪郭も見えないほどのノイズ粒子の砂嵐に吹き荒ばれていた。アメリカンホームドラマを受信したどこかでは、オチに合わせて録音された観客の笑い声が挿入される。
クロの世界は間違いなく壊れ始めていた。
綾宮の家にたどり着いてその傾向はますます顕著になる。穴だらけの庭でぼくの両親が互いの腸を引きずり出して遊んでいた。楽しげにケタケタと笑う彼らをクロは無視した。斜め方向へと伸びる階段を経由して自室へと至り、鞄を放り投げる。部屋は三六七八通の手紙に埋もれていた。部屋の中央で手当たり次第、手紙と書籍を一緒くたに食みながらぼくの顔をした何かが言った。
「忘れるな」
「忘れてないさ」
クロはつまらなさそうに肩をすくめた。手元に近かった自分が書いたはずの封筒を開き、中身の便箋が白紙であることを確認する。ぼくの顔をした山羊が笑う。
すべてを無視して机に向かい、三六七九通目の手紙を書き始める。もちろんこれも行き着く先はなく、結局はまっさらに虚しい過去だろう。
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