18.まぁ、なるようにしかならないわよね

「あんたは矢羽根シロよ」


 ぼくは空を見上げた。もう秋も半ばを過ぎるこの季節、濃い紫橙の夕空に薄い雲が山まで続き、端々に星を掴んでいた。きっと世界は今日も何も変わらずに終わっていくのだろう。そんな目眩を覚えるような軽い失望感はいまだに思い出せる。毎日、家へと帰るのが嫌でこの景色を見ると吐き気がした。それでも子どもが夜の繁華街をうろつきまわるよりはあの家の方が遥かに安全で、自分がどうあがいたって血の鎖に繋がれているのだという事実がたまらなく嫌だった。


「あんたたちは双子なんかじゃなくて、二重人格だった」

「……」

「今はシロの方ね」


 正解。とぼくは先ほどまでクロの手だったそれで、控えめに拍手した。


「ちなみに今のクロは精神的に眠っている状態だから、君は好き勝手に推理してもらって構わないよ」


 少しいじけた響きが混じってしまったぼくのそんな言葉を古暮は鼻で笑った。不機嫌そうなままに続ける。


「なら解答編と行きましょうか。でもその前にひとつだけ質問」


 彼女は指をひとつ立てる。


「香織に聞いたけど、あんたクロに襲われて腕を折られたらしいわね。それがこの街に戻ってきて最初の遭遇?」

「違うね。ぼくが転校生として教室に入った時には空席のひとつに座っていたよ」

「でもそれはあんた以外には見えていなかった」


 古暮の指摘通り、じつのところクロの人格はこの身体の主導権を持たない時、自在にこの街の中を歩けるみたいだ。その移動はもちろん実体が伴うことはなく、本物の街でもない。ぼくの記憶を反映した頭の中の仮想空間をクロが歩いた気になるだけなのだけど。


 だからこそ彼自身の精神が不安定な時、彼の世界はいとも簡単に崩壊し、赤い空に月が増えたりする。


「私はあんたの転校初日を欠席していて、その場面を見てなかったのだけど、うちの担任は矢羽根シロが矢羽根香織と同じクラスとなる理由を特別な配慮とほのめかしたらしいわね。そして香織自身も多くは語らなかった。それでクラスメイトの多くがあんたたちの、傍から見れば奇行にしか見えない切り替わりを見逃し続けた理由になる」

「精神障害者と積極的に関わりたいって人はなかなかいないからね」


 ぼく自身あまり気にしないようにしていたけど、教室内の『クロである時間』が増えるにつれて、園芸部の人間以外に話しかけられる機会は激減していた。逆にぼくの周囲に残り続けた人たちは、恐らくその現象には気付いていながら、あえて口に出すこともなく気にしないふりをしてくれていたのではないかと思う。


「じゃあクラス名簿がいじられていたのも特別な配慮?」

「……初耳だな」


 嘘だった。古暮とともにぼくが日直を務めた時、彼女が名簿のふたつの名前を確認したことには気付いていた。


「私があんたたちを双子と思い込んだのにはふたつ理由があるの。ひとつはクラス名簿に綾宮クロと矢羽根シロの両方の名前を確認したから」


 それは恐らく二重人格であると自覚のないクロが誤って名簿を見たときに混乱しないように。と、まぁぼく自身が直接に聞かされていないから、たぶん香織の方で担任に働きかけたのだろう。


「もうひとつの理由は?」

「もうひとつはあんたの過去の事件の記事を読んで、死者が二人であると先に知ってしまっていたから」


 その前情報はたしかに誤った先入観として、彼女の推理を阻害したかもしれない。


「そうだね、警察の発表ではあの事件の死者は二人ということになっているはず。でもあの時死んだのは、本当は三人だった。両親とクロ。ただしクロの死体はぼくが瑠璃華に処理させたから、そちらはまだ誰にも見つかっていないはず。結果としていまだにクロは行方不明のままだ」

「そうやって私はあの日、双子の転校生がやってきたのだと思い込まされた。互いに名字の違う、明らかに家庭事情が訳ありな転校生。加えて、その一方はよりによって噂の『シロ兄ぃ』」

「そんな事実に気を取られて、クロの方がすでに死んでいるなんて考え付きもしなかった、と」


 ぼくのからかい混じりの言葉で、古暮は少し機嫌を損ねたようにむっとした。


「逆にあんたたちが双子じゃないと気付いたきっかけだけど」彼女はぼくの言葉を無視した。「あんたはクロに腕を折られ損ねたらしいわね。手加減されたとはいっても、どうして金属バットで殴られておきながら骨が折れていなかったかというと、これはクロの方に実体がなかったから。自己暗示で腫れくらいなら用意できるけど、骨までは折れない」

「そうだね、クロはぼくに危害を加えることができる。ただしそれは本質的には幻覚だから、物理的にではなく心理的に作用する」


 心理実験のいくつかによれば、人の身体というものは、火がついていると思い込まされた吸い殻を腕に押し付けられることで、火傷痕くらいなら簡単にできてしまうらしい。恐らくぼくもミミズ腫れ程度の怪我ならいくらでもクロに負わせられる。


「それからあんたとクロが一度たりとも同時に私の前に現れなかったことは当然として、あんたの部屋に行った時」

「気付いてくれて良かった。あれは最大のヒントのつもりだったから」


 再び無視される。


「クロが住んでいるという部屋の床は一面、埃に覆われていた。まるで約一年以上、誰も足を踏み入れたことがないかのように。でもそこであんたの話との間に矛盾が生じる」


 そう、たしかにクロは毎晩あの場所へと帰っている。ただし先述の通り、ぼくの頭の中の綾宮家にだけど。だから彼が書いて机の上に積み上げたぼくへの手紙は一枚たりとも実在しない。いつまで経ってもぼくへとは届かない。


「それからあんたの戸籍を調べた。綾宮クロの出生は綾宮シロの三年前。少なくとも双子ではない」


 今考えてみれば家出した時のクロは十五歳。現在のぼくのふたつ年下だった。ぼく自身がその年齢で同じことをできるかはともかく、彼なら立派に自立し弟の知らない場所でアウトローな人間と付き合っていてもおかしくない歳だ。一方のぼくは十二歳。まだ法律で守られ両親に保護されるべき存在だった。


 クロがぼくという足手まといを置いて家出したのは当然の判断だった。


「あの日にあったことはぜんぶで三つ。クロがあんたの両親を殺した。あんたがクロを殺した。そして」

「そしてぼくはクロを模倣した人格を生み出した」


 ぼくは心のどこかで香織を恨んでいたのだと思う。いつまでもぼくの惨状に気付かないまま恵まれた環境ですくすくと育っていくだろう彼女が許せなかったのだと思う。


 誰からも愛されるべき、善良なる無垢。そんな存在を憎んでいたのはクロであると同時にぼくだったのだ。


 そんな憎しみを使ってようやく、ぼくはクロを殺すことができた。


「どうしてあんたはクロを殺したの?」

「ぼくの苦悩を勝手に終わらせてしまうことが許せなかったんだ」


 ぼくは自身に降りかかる悲劇を黙殺することでこの世界から消し去ろうとしていた。ぼくが悲鳴を上げさえしなければ、何でもないような顔さえしていれば、虐待の事実は真実消えるだろうと、ぼくは愚かしくも信じていた。


 それはほとんど宗教的な思想で、ぼくは十字架に貼り付けられる聖人のような気分だった。世界に存在する等量の幸福と悲劇のうち、自分が悲劇を引き受け続けることで、誰かが代わりに幸福を享受できるに違いないと本気で信じていたのだ。


 それなのにあんまりに今更なタイミングで戻ってきたクロはそのすべてを破壊した。見慣れた懐かしい得意げな笑顔で、彼は両親を殺してしまった。ぼくが最後までできなかったことをあっさりと。


 栓が外れたように溢れ出た感情の矛先は最初、その場に存在さえしていない香織の方を向いた。彼女を源泉に憎しみが汲み上げられて、そのままクロへの怒りがふつふつと湧き上がって、次の瞬間。気付けばぼくの手はナイフを持って血塗れで。目の前のクロが子どもに戻ったかのように幼く泣きながら死んでいた。


 そしてぼくは最後に、自分を憎んだ。自分の弱さを自覚し、無接触を担保に押し付け続けた責任という名の負債を一度に引き受けることを要求された。その時点でのぼくの精神はすでにバラバラに壊れていて、簡単にクロなんてたった今自分で殺した故人の人格まで作り出して彼にこう言わせた。


 矢羽根香織を殺したい。


 ちなみに自己断罪の意味で告白すれば。最後まで、ぼくが両親自体を憎むことはなかった。理由は単純に卑怯なもので、死んでもなお彼らの暴力が怖かったからだ。


 彼女の用意した解答編はすでに終了していたらしく、古暮はぼくの長い告白へと向けて、感想代わりのため息をひとつだけ吐いた。


「なるほどね、あんたの言葉の意味がわかったわ」


 クロを殺すのではなく消して欲しい、と。ぼくは古暮に願ったはずだ。


「本当のところあえて手を出さなくとも、近頃では彼のことをクロと認めてくれるほぼほぼ唯一の存在たるホームレス女子校生と接触してないせいで、クロという人格は不安定になりつつあるんだけどね」

「じゃあ、あんたがその女を殺せば自然消滅して解決じゃないの?」

「どこぞの首吊り趣味みたいなこと言うけど、違うよ。香織が納得しない」


 彼女はぼくを救えなかった贖罪のためにクロに殺されたがっている。その拠り所を簡単に消してしまっては、彼女が何をするかわからない。


「じゃあ、どうするの」


 古暮はぼくにそう尋ねた。


 どうするかなんて、ぼくが知りたい。ずっと考え続けていて、それでもいまだに最良の答えは見つからず、こうして古暮なんかにぜんぶ種明かしする羽目になっている。


 黙りこくったぼくを眺めて、彼女はため息混じりに言った。


「まぁ、なるようにしかならないわよね」


 落ちるのは簡単なんだ、と医師の声がふいに聞こえた。

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