17.正解。とぼくは心の中で控えめに拍手した
ぼくはその日、クロにしては珍しく彼が登校していたことを知っている。そして思わぬ相手に声をかけられたことも。
「綾宮クロよね。ちょっと付き合ってくれる」
「……」
授業を一通り受けて、帰ろうとしたところを古暮に捕まり、当然のように無視しようとする。
「あんたが香織を殺せない理由を教えてあげる」
「……」
そんな言葉でのこのことついてくるクロは相当に追い込まれているのかもしれないと勝手ながら邪推する。最近ではぼくを監視している頻度も極端に減っていたし、こうして意識を保っていること自体も少なく、それ以外の時間の多くを彼は睡眠に当てていた。
「少し訊きたいのだけど」
人がまばらとなりつつある廊下を抜ける道中、古暮はやたらと彼に話しかけた。
「綾宮くんはいつから、香織のことを知っているのかしら」
「……」
「私はね、中学の時から。でも親しくなったのはこの高校来てから」
彼女はどうしてそんな話をするのだろうかと、クロは内心で首を傾げた。
「きっと本当の意味で最初に出会った場所はここの屋上。今からあんたを連れて行く先」
「……」
「あんたにとっての矢羽根香織の印象ってどんな感じなのかな」唐突にそう尋ねた彼女は、もうクロの返事を待つことはなかった。「私は最初、あの子のことを本当につまらない人間だと思っていたの。何の深みも歪みもない、至って普通の女の子。無害で優しくて明るくて毒にも薬にもならない。たぶんあんたも最初はそう思っていたんじゃない?」
それはあるいは、ぼくに向けての言葉ですらあったのかもしれない。
「でも私がこの場所であの子を見つけた時、初めて私は人って面白いなと思えたの」
階段を経由して、屋上ヘ続く扉に鍵がかかっていたのを古暮は解錠する。
「たぶん香織もいると思うけど、彼女がここでしていることを見ても驚かないであげてね」
そう断って、彼女はその扉を開けた。
「いーくん?」
振り返った香織は煙草を咥えていた。
古暮のあとに続くクロを見て、彼女は焦ったように火を隠しかけて。しかしどうやっても誤魔化せないと気付き、思い直したように落ち着いて灰皿代わりの空き缶に突っ込んで。大して困ってもなさそうな苦笑いをした。
「ありゃりゃ、バレちった」
……。そういえば、古暮と一緒に肺がん予備軍だったな。まさか本当に鍵のかかる屋上で喫煙してたとは。いつだったかにぼくが花壇に見つけた吸い殻もひょっとしたら、彼女が屋上から投げ捨てたものだったのかもしれない。
クロの方も当初こそ驚いていた様子だったが、すぐにどうでもいいことだと思い直したのか隣の古暮に尋ねた。
「それで?」
「悪いけど、席外してもらえる?」
それは香織に向けられた言葉だった。
「良いけどさ、いーくん。綾宮くんにバラした埋め合わせはあとでちゃんとしてよね」
そう言い残してあっけらかんと。彼女は空き缶を持ってすれ違い、屋上から出て行く。古暮は鍵をかける。
「私が彼女と仲良くなったきっかけはね、あの子が屋上で喫煙してる現場に出くわしことだったの」彼女は自身の鞄からマルボロメンソと百円ライターを取り出して火をつけた。「偶然、私の気が向いて屋上へと登った日に、すでにたった一人の園芸部だった香織は鍵をかけ忘れていて」
薄い色の煙を吐き出す。
「その時あの子、どうしたと思う? 今でこそさっきみたいに、他人に喫煙してるとこを見られてもまったく取り乱さなくなっていたけれど。信じてくれるかな、私に喫煙の現場を押さえられた香織はそこから」指差した柵の向こうは空色だった。「飛び降りようとしたの」
「……」
これにはぼくも内心で言葉を失う。されどどこか妙に納得する自分もいる。香織ならやるだろう、と。今ではすっかり変わってしまったが香織は昔、そういう気質の少女だった。
「潔癖とはちょっと違う気もするけど、当時のあの子は、他人にとっての自分のイメージを病的に大切にしていた。喫煙してるなんて誰かに知られるくらいなら死んでしまうことを選んでしまうくらいに。なら初めから煙草なんてやめなさいよって思わなくもなかったけど、あとで訊いたら自傷したくなったからって言ってたわ。自分を汚してみたくなったって」
古暮は夕空を見上げて、小さな紫色の雲を吐き出した。
「それ言ってくれたのは、もう日も暮れて校門も閉じられたあたり。香織は自殺を諦めるのに一時間の説得。それからさらに一時間も泣き続けていたわ。私の存在も忘れたみたいに、ずっと訳の分からない言葉を囁いていたの。何て言ってたと思う?」
「……」
「シロ兄ぃ、ごめんなさいって」
……。
「情緒不安定じゃないか」
クロがもっともな意見を吐き捨てる。
「まったく……おかげで共犯ってことにするために私もそれ以来吸う羽目になってやめられなくなったし、老後はガン病棟であの子と同窓会かな。別に後悔はしないだろうけど」
「それよりあいつは」
「あの子はシロやあんたが家で虐待されていることを知っていた」
……だろうな、とは思っていた。ぼくは自身の心が急激に温度を失っていくのを感じる。
「ついこの前、香織と会って長い話をしたわ。とても長い話よ。きっとあんたたちは家庭の事情を上手く隠していたつもりだったのでしょうけれど、でも知ってたみたいね。知っていながら香織はその事実から目を背け続けていた。あんたたちの家の事情に関われば、自分も汚れてしまうと感じたんじゃないかな」
ぼくは香織と初めて出会ったときの言葉を思い出す。
薄汚いね、あなたたちと。
「そしてあなたが綾宮の家を出て行ったあと、シロの隣には香織だけが残されていた。出会った頃に比べて、彼らはもう子どもと呼ばれるのにも違和感がある年齢になっていたの。彼女はもう、見て見ぬふりがこれ以上通用しないことを痛感していて。だから香織は中学への進学を期に、シロのそばを離れられるよう遠くの女子校を進学先に選んだ」
矢羽根香織は綾宮シロを見捨てたの。そう古暮は囁いた。
「少しは期待したらしいわ。三年間も自身が離れて孤独を強いられれば、あの綾宮シロだって自分の力でその複雑な家庭事情を解決するか、そうでなくともあんたと同じように家から逃げ出せるんじゃないかって。もちろんその言葉の九割は自身への言い訳だし、実際にはその三年間。シロは虐待に耐え続けていた。いいえ、諦め続けていた。それどころか虐待そのものも悪化していた」
「それでもこの街に帰って来ていたあいつは、奴を助けることができなかった」
「その通り。煙草で自分を汚して傷付けて、他にも色々やってたらしいけどそれでも。あの子はシロを救うために自分から動くことができなかった。私が彼女と友達になれたのはそんな時だったの」
「その時のお前は?」
「どうもしなかったわ。だって綾宮シロなんてまさしく他人だったもの。事情を詳しく聞かないまま、ひたすらに香織を擁護したわ。彼女が悪いことなんてひとつもないと言い聞かせて、『シロ兄ぃ』という存在が諸悪の根源なのだと諭した。私は香織の話をすべて聞き終えた今でも、その考え自体は間違っていなかったと思うの」
……。あえて否定する要素もない。
古暮の手元の煙草はとっくに燃えることをやめていて、彼女はそれをポケットから取り出した携帯灰皿へと丁寧にしまい込みながら口を開く。
「あの人は何もしなかった。何にもしなかったの。助けを求めることさえ、逃げることさえ、叫びをあげることさえ。ねぇ、それって本当に無責任なことだと思わない? 傷付くのは自分だけだと本気で信じていたのかな。周りの人間がどれほど心を痛めたか、香織がどんなに自分を責めて、それでも最後まで手を出すことができなかったのは綾宮シロ自身がその悲劇を受け入れていたからだと私は思うのだけど。違うかな」
「……さぁな」
「私はあんたのことも気に入らないの」唐突に古暮は矛先をクロへと向けた。「言いがかりなのは承知で言うけど、どうしてあのタイミングだったの。香織がようやくシロの惨状から目を逸らすことができた頃だったのに。あんたがシロの両親を殺したせいで、あの子は今度こそ。自分がどうしても救えなかった綾宮家の虐待は、本当はあっけなく解決できたはずだって気付いてしまった。彼女がその気になれば簡単に助けられたはずなのに、何やかんやと言い訳を続けて自分の潔白さを守るためにシロを犠牲にしていたことに気付いたの」
「馬鹿な女」
クロは言下に切り捨てた。
「否定しないわ。馬鹿なのよ、あの子。でも私は彼女が間違ってるとは思わない。だって人として当然でしょう。誰かを助けるってことは相手の人生に責任を持って関与するってことなのよ。助ける側にだって助ける相手を選ぶ権利くらいはあるはず。でも馬鹿だから。あんたの殺人で晴れて天涯孤独になってしまったシロと、何を今更ってくらい疎遠になっていたのに。彼を引き取るよう両親を説得して、それでも自分が許しきれなくって、今はあんたに殺されたがっていて、結局あんたに殺されないでいる。本当、大馬鹿」
「……それで」いい加減、痺れを切らしたかのようにクロは苛立たしげに尋ねた。「おれがあいつを殺せない理由ってのは何だ」
「決まってるでしょ。そもそもの前提から間違っているのよ。あんたは決して自分のために香織を殺そうと思っているんじゃないの。あんたが香織を憎むのは、彼女がシロを見殺しにしようとしたからよ」
「……」
正解。とぼくは心の中で控えめに拍手した。
「そこを履き違えているから、あんたは香織を殺せなかった」
「待てよ。どうしておれがシロなんかのために」
「あんた自身にだけは絶対にわからない。その様子だとたぶん、どうして自分が彼の両親を殺したのかさえわからないんでしょ」
「それは」
クロはふと疑念を自覚した。おれは『クロ』の動機を知らない。彼が一度は自分で見捨てた弟を、あんな身勝手に助けようとした衝動を。
このおれは知らない。
クロはその光景を思い出そうとした。血塗れの部屋。倒れる両親。手元のナイフ。
そして腹を押さえて血を吐くクロ。
「………………」
最後のその光景は、少なくとも彼自身が思い出せるべきものではなかったはずだった。
自分が殺される瞬間なんて。
「綾宮クロはシロが殺した」
「じゃあ、おれは」
「あんたは」
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