16.言ったところで、きっと君にはわからないよ

 それは放課後、シロが校庭で花壇をいじっている時のことだった。部活としての活動はない日であったが、奴は一人きりで学校に残って育ち過ぎた芽をむしっているところであった。場所は校内でも外れの方。生徒が立ち寄ることも滅多になければ校舎からも見えにくい位置。


 後頭部で足音を感じて振り向いてみれば、いつのまにか背後に男が近付いてきていて、彼はシロのいる位置へ目掛けて鎌を振り抜いた。


 激痛に悲鳴を上げ損ねたシロは、転げるようにして相手から距離を取る。しかし強襲者は稼がれた距離を詰めることもなく、ただ面白いものを見るかのように笑っていた。


 切られた箇所を見ると、しかし血が噴き出しているような傷はなく単純に打撲痕が残るばかりで、刃の部分は当たらず打ち身で済んだのだろうと考えた。


「ぼくを覚えているか?」

「……」


 男のその言葉はあまりに不自然だった。


 何故ならたしかにシロはおれの視界を通して、首を吊っていたその男の顔を知っているはずだったからだ。


 しかし逆に言えばそれは、向こうからすれば直接顔を合わせたこともない相手のはずだということで。痛みに顔を歪めるシロはそれでも警戒して、遠回しに否定する。


「ぼくの知り合いにはいきなり襲ってくる人が結構いますけど、あなたはそのうちの誰ですかね」

「羨ましいな」

「……」羨ましいのか、とシロは思った。


 男は手元の鎌を見つめた。サビが浮きそこらに捨ててあったのを拝借してきたような代物だった。少なくとも人は殺せまい。もしかしたら先ほどシロに当たったのだって刃先で、しかしなまくら故に制服にさえ穴が空かなかったのかもしれない。


 ため息を吐いてそれを捨てた。改めて切り出す。


「……ぼくは君が何を望んでいるのかわからないんだよな、正直さ」

「ぼくがですか?」

「だって君らにとって煩わしい今の状況。君が瑠璃華さんを殺せば、ぜんぶ解決だろ?」

「……」


 それはたしかに、シロが最初に考えた解決法だった。


「あなた誰ですか?」

「言ったところで、きっと君にはわからないよ」


 やたらとため息の多い人間で、しかしため息を吐きたいのはシロの方だった。そして男は最初に見せた殺意のようなものを溶かしきった顔で笑って見せた。


「君は、君たちがクロと呼んでいる存在を消したいんだろう? なら瑠璃華さんこそが彼の最後の砦なはずだよね。だから君たちはそろそろ本気で瑠璃華さんを殺しにかかるかと思っていたんだけど、どうも一向にその気配がない」


 あるいは、とここでシロは思い至る。先日クロと古暮が遭遇した際に男が首を吊っていたのは偶然ではなく瑠璃華の安否を見張っていたからではないか、と。


「でもその方法だと、香織が納得しない」

「あぁ……そうか。下手したら自殺するかもね、あの子」

「だから、何でわかるんですかって」

「なるほどそれで」男はシロの言葉を無視した。「クロが殴打魔でもあることを利用して探偵娘と手を組み、間接的にクロを消そうとしているってわけか」

「……」


 シロの方とてもう、何を尋ねることも諦めた。


「でもさ、どうして香織ちゃんは瑠璃華さんに選ばれてしまったんだろう?」


 それは恐らくおれが香織を殺せなかった日のこと。


 男は立ち疲れたように花壇の縁に腰掛けた。シロは立ったままだった。


「理由があるってことですか?」

「気付いてるだろう? 被害者の誰一人として、殴打魔についての証言をしていない」

「選ばれた人間に基準がある?」

「違うよ、彼ら自身が選んだんだ」


 一瞬、その言葉の意味がわからなかった。


「つまり……被害者らは望んで殴打魔の被害者となった?」

「そう、彼らはみんな瑠璃華へと依頼したんだ。この日常を壊してくれと」


 それはおれも初耳だった。脳裏の酸素が薄くなったような視界の暗さに襲われる。


「あの人たちにとっての日常は自身を縛る鎖だったみたいだね。毎日同じことの繰り返しで何を買っても満たされなければ、日々目の前の金稼ぎや家事に追われる上で人間関係に疲れ、気を抜けば生きることの虚しさに襲われる。彼らはそういう風に追い詰められた人間だったんだ」


 そういえば、とシロは思う。被害者の多くは精神科に通っていたと聞いた。


 あの時点では鬱傾向にある人間を狙うことで証言されるリスクを下げているのかとも考えたけど、順番が逆だったらしい。


「ある被害者の人は」シロが口にしたのはいつか聞いた一式の兄のことだった。「優しくて頼まれたら断れないタイプだったとか」

「ぼくと同じだ」

「……」


 そうは見えないなとシロは思う。


 しかしそういえばこいつも、首を吊ってもらわないと日々生きていけないという厄介さを抱えた人種だとおれは思う。


「例外はないよ、みんなこの日常から逃げ出す口実が欲しかっただけなんだ。もううんざりだから明日以降ここには来ないだとか、二度とお前らとは口も利きたくないなんて、とても自分からは言い出せない人間だったから。だけどそんな彼らでも事故なら仕方ない。それもとびっきりの被害者なら。瑠璃華さんの優しいところはね。クロに襲わせる日を指定しないところなんだ。依頼人はいつ自分の人生がビルみたいに崩れるかと恐怖しながら日々を過ごす。景色が変わって見えるそうだよ。今当たり前にできていることが来年にはできなくなっているかもしれない。そう考えるだけで日々のありがたみと儚さが感じられるのだとか」


 シロの脳裏に、兄の代わりに怒っていた一式が思い浮かぶ。彼女がこの事実を知ったらどんな顔をするだろうか。


「そうして被害者の今まで当たり前にあった日常は本当にある日突然、一番理不尽かつ最悪な形で幕引きにされる。最低にやりきれない気分の時、頭にガツンと来るような胸くその悪い話を聞くとすっきりするだろう。あれが当の自分の身に起こって、彼らの人生はそこで一度リセットされる。もう責任も重圧もない雑巾のような生き方を、自分の意志じゃない方法で選ぶことができる」


 だから殴打魔は相手をギリギリのところで殺さないし、被害者の誰もが彼らの証言をしない。一度その答えが与えられてみれば、辻褄は気味が悪いほどに合う。


「たしか被害者には乳幼児も含まれていたはずですが」

「依頼者はその母親だよ。きっと育児疲れだね」

「……だからといって、クロの罪がなくなるわけではない」

「もちろんだ。瑠璃華さんはともかく、クロの方は依頼の事情を知らないまま見ず知らずの人間を傷付けていたのだから」

「その論理もどうかとは思いますが……たぶんクロは人を傷付けることでしか自我を保てないんですよ」


 男は呆れ気味に首を傾げた。


「……君は彼を擁護したいのか、断罪したいのか」

「正しく罪を見積もりたいだけです」

「それなら、自分自身も裁かなきゃアンフェアだ」


 シロはその唐突に変化した声音に彼を見上げた。


「君は綾宮クロを×した。そして瑠璃華さんに後始末を処理させた」


 おれは彼の言葉を上手く認識できなかった。


「そのせいであんなクロが生まれた。彼自身に責任がないというのなら彼を生みだしておきながら、そして誰を殺すこともできない君こそが一番の罪人なんじゃないのか」

「……最初の質問に戻りますけど、あなた本当に誰なんです」

「わからないお前が憎いよ」

「……」

「クロも香織なんかじゃなく、お前を殺せばいいのにな」




 おれはその日の夕暮れ時にふと思い立って、久しく足を踏み入れていない自分の部屋へと帰ってみることにした。蝙蝠の飛び始める河原沿いを下って車道と境のない橋を渡る。利用者の限られる小さな量販店を意味なく広い駐車場越しに眺め、後から雑な運転でやってきた軽トラに追い越される。影が伸びたアスファルトに立ち上る蚊柱が束の間、幻のように揺らいで消える。以降、誰ともすれ違わないまま、おれは綾宮と表札の垂らされた門扉をくぐり抜ける。ふと視線をやった庭先は雑草が取り除かれており、鍵を開けた玄関周りも水で流されたあとがあった。シロがやったのだろうと思いつつ、奴にそんな勤勉さがあったかとも首をかしげる。屋内は輪をかけて丁寧に掃除されていた。


 そういえば、と思い出す。先週末に古暮がシロとともにこの屋敷を訪れていたような記憶がある。されどそのあたりの出来事や会話が妙に抜け落ちている。奴らはどんなことを話していたのだったか。


「……」


 最近、こういうことがやたらと多い。おれ自身の存在が揺らいでいるのだと何処からともなく考えが湧き上がってきた。埃さえ舞わない廊下を抜けて台所、グラスに水道水を注いで飲み干す。拭いて棚に戻す。棚を開け閉めしなかった気がする。たった今おれが戻したグラスは使われた形跡もないように見えた。


 階段を上り、二階の書斎へと足を踏み入れる。まさかとは思ったが幸い、悪い予想に反してシロはこの部屋をそのままにしていてくれたらしく相も変わらない乱雑ぶりだった。安心する。


 しかし手紙はなかった。


 その事実自体は予めシロの視界を通して知っていたので驚きはなかったが、されど誰が何の得があってそれらを隠したのかと考えると、思い当たる節がなかった。仕方なく手持ち無沙汰に窓枠へと腰掛けて、夜空を眺める。


 空は血のように赤く、月はふたつあった。


 この光景は何かおかしいと感じつつ、何がおかしいのかわからなかった。


 記憶はなくなるし、シロとの感覚は繋がったり切れたりする。


 自分はすでに死んでいるのかもしれないと、おれは独りごちた。

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