14.二度と私は逃げないから

 あの日以来、シロがどことなく香織に遠慮していることをおれは知っている。


 数日間に渡って、香織はずる休みを満喫したらしかった。その証拠に五連休の真ん中、週末の夕飯前にはただこう繰り返すばかりだったという。


「うぅ、いーくんに会いたいよぉ」

「……」


 シロが彼女の部屋を尋ねた時、香織はベッドでごろごろしつつ欲望をうめいていた。


「週明けからまた会えるでしょ」

「まぁね。それでシロ兄ぃ、何か用なのかな」


 シロの側としてはこの訪問に際して特に用事があったわけではなく、ただ様子を見に来ただけだった。


「およ、その反応は私のことを心配してくれたのかな」


 ニマニマされる。目を逸らす。


「おっとぉ……どうしたの、シロ兄ぃ。何か今日は柄になく可愛いぞ」

「絡みがおっさん臭い」

「にはは。私は大丈夫だよ、ありがと」


 と、こちらの気遣いをやんわり拒絶するような笑顔を見せた。本当にシロの心配など必要もないのだろう。


「それより、シロ兄ぃの方こそ何かキツいことあった?」

「え」


 いつの間にかベッドの上に見を起こした香織に表情を覗き込まれていたことに気付いた。


 だからといってそこで自身が心配されるとは思いもよらず、とっさの反応が遅れる。


「とりゃ」


 気付けばシロはベッドから駆け寄ってきた香織に抱きつかれていた。


「な」


 食べても美味しくないぞとか慎ましいと思っていたけど意外にあるなとか、ごまかす台詞はいくらでも思いついた。


「二度と私は逃げないから」

「……」


 頭の中の卑怯な台詞はぜんぶ吹き飛んだ。


「あなたはもう苦しまなくていいんだよ」


 耳元の呼吸音が聞こえて薄い部屋着越しの体温が伝わる。この温かさがもし自分の身体にもあるなら、なるほど氷でなくとも溶けてしまうだろうとシロは思った。


「だから幸せになってよ、お」

「……お?」


 肩に埋められた相手の顔を横目に盗み見ると、耳まで真っ赤だった。


「お……お兄ちゃぬ」

「……」噛んだ。

「………………」

「………………」


 ゆっくりと回した腕を離し、手で顔を覆い隠したままベッドへと戻っていく。

 厚手の布団に戻ってしばらくジタバタやってたかと思うと。


「シロ兄ぃのばかあああああああ!」

「…………あ」ご褒美だ、と。


 放って置かれる形になったシロはしかし妹のために何をすることもなく、自分も香織に罵倒されたことを古暮に自慢できるなと思っていた。




「……そういえば訊こうと思ってたんだけど」


 ふと思い出したように香織は尋ねた。


 それは布団からのそのそと出てきた彼女が、さっきのなしと仕切り直して少し経った頃のことだった。


「私のいない間に顧問の先生から何か言ってこなかった?」

「いや、別に」


 たまに顔を合わせる線の細い教師をシロは思い浮かべた。今朝も廊下ですれ違いざまに挨拶を交わしたが、特に香織の欠席を知っている様子でもなかった。


「そろそろ花が届くはずなんだ」

「花?」


 シロの目の色が変わる。一瞬、香織の口元がムッとしたのにも気付かない。


「とりあえずパンジー。それからついでにノースポールの種と水仙の球根が発注されてるはず」

「今植えると春にちょうど咲くのばかりだね」

「お、よくわかったね。さすがシロ兄ぃ」


 褒められても今度は照れる間さえ惜しむように。


「でもどこに植えるの。もう場所がないんじゃ」

「あ、っと。その前にもう園芸部の誰かから聞いたかな。うちの部室が移動するって」


 それは屋上で小暮と話した時に、一瞬出た話題だった。


「あぁ、たしか新校舎にって。そうかなるほど」


 シロは納得したような声を出し、香織も頷く。


「じつは部室棟になる新校舎には新しく花壇が作られる予定があって、そっちの花もこれからはうちが管理することになってるの。だから引っ張られるみたいに、うちの部室も比較的距離の近い方へと移動させてもらえることになってるんだ。新品の部室が使い放題だよ」

「それで花の注文がそろそろ、と」


 シロは香織のはしゃいだ声を聞き流し、香織の方も予想していたのか何事もなく続ける。


「うん。あとやっぱり私たち園芸部が中心になって動くだろうから、適当にやる気上げといてねって話」


 了解と返事をしつつ視線を上げ、いつのまにか不思議そうにシロを見上げている香織と目が合う。


「シロ兄ぃ、やっぱりお花の話してる時が一番ニマってるね」

「……」


 他人の目から見てそう言われるならそれが事実なのだろうと肩をすくめるに留める。


「何だか悔しいな……」

「……」


 シロは卑怯にも、最後のその呟きは聴かなかったことにした。




 翌日は日曜日でその午前。シロは古暮いつきと住宅街を歩いていた。


 どういう事情でそんな事態に至ったのか、その経緯自体をあいにくとすでにおれは見逃してしまっていた。されど交わされる会話から察するに、どうやら呼び出したのはシロの方。見せたいものがあると電話をし、待ち合わせた場所は小ぶりなショッピングスクエアの一階に入ったマック。季節を考えずに注文したアイスシェイクをシロが飲み干した頃に古暮が現れ、連れ立ってマンションやアパートの減る方向へと歩いて行く。街の中でも山側、多少の空き地の狭間をぽつぽつと古く敷地の広い家が増えてくる。


「駅前の新興住宅街から離れるこっち側には戦前からの旧家が残ってるんだ」

「この街には生まれた頃から住んでるけど、この辺りまでは来たこともないわ」

「この先は神社と山しかないからね」


 やがて奴らは、シロのみならずおれにとっても見慣れたひとつの屋敷の前で足を止める。


 綾宮と表札のかかった石門を抜けて、砂利の間を縫うように敷かれた飛び石を渡ったシロは、ポケットから取り出したサビの浮く鍵を横開きの玄関扉に突っ込んだ。立て付けの悪い扉を蹴りつつ持ち上げるようにして開けて、暗がりがどこまでも遠のく廊下を目前に振り返った。


「ようこそ。この家がぼくとクロの実家だよ」


 奴らは一度右手の洋室を覗いたが、応接椅子が一年をかけて吸い込んだ埃がカーテンの漏れ日に舞うのを見て利用を断念し、左手側の仏間を使うことにした。雨戸を開け放った縁側に荷物を置いて座布団を敷き、奥の台所に立ったシロがお茶を淹れてくる。


「今年の春先に荷物を取りに来た時、軽く掃除機はかけたんだけど」

「人が住まないと、こんな立派な家でも廃屋じみてくるのね」

「広いから逆にってこともあるだろうけど」


 その家は元々、おれとシロの母親が先祖から受け継いだ家だった。明治より以前には、この辺りでもそこそこに力のある地主一族の傍系だったらしい。しかし時代を経て人や土地が減り、母の代へ至る頃には兄弟もなく両親も早くに亡くし、彼女一人だけが残っていたという。


「ぜんぶあとから聞いた話だけど」シロは天井の方を見回しながら口を開いた。「母は箱入り娘として育てられたプライドからか、ろくに働くこともできない気質で、日がな遺産を食い潰しながら遊び暮らしていたらしい。こんな田舎街に金の使い道もそうはなかったとか、持っている不動産の利益だけでも十分に生活できてしまったとか、色々と理由が重なってそんな彼女は、適当な男に引っ掛かってぼくらが生まれてしまったあと男に逃げられた時も大した苦労はなかったらしいね。生まれた方としてはそんな女が親になってしまったせいで大層に迷惑をこうむったわけだけれど」


 奴にしてみれば冗談のつもりだったらしいが、古暮はくすりともせず、仏壇で微笑む女の写真を眺めていた。シロは埃臭い空気を浅く吸い込んだ。


「綾宮クロは最近までこの家に住んでいた」


 古暮は振り返った。


「もちろん今は帰ってないみたい。たぶん君から逃げ回ってるんじゃないかな」

「……」


 彼女は何ら反応を見せず、ただ奴の言葉を聞き続けていた。


「ぼくが見せたいのは、彼の部屋だ」


 シロは付いてくるように言いながら、玄関向かいの階段を先に上った。二階はすべて洋室で、それぞれふたつの寝室と書斎、物置、化粧室だった。子供部屋なんて当然のようになく、おれやシロが与えられた、というより長い時間を居座って過ごしていた場所は書斎だった。


 そこに転がる本棚の配置は無秩序だった。部屋自体の広さをあてにして本棚が壁際に寄せられていないは序の口。斜めを向いて互いの前を塞ぎ、立てて置くべきを横にされてはその内側に高さの足りていない文庫が立ち並び、その上に差し込むように蔵書が積まれる。まるで本そのものが床から生えてきているかのように、それらはただ考えなしに置かれ続けていた。


 もちろんこの意図的な無秩序はおれの仕業ではなく、早逝した前家主にあたる祖父の趣味だったらしい。しかしその前衛的と言えなくもない知識の庫内も雪景色のように埃が積もり、価値あるのかも定かでない蔵書の山は刻一刻と傷みながら、ひたすらに退廃の様相を成していた。


 歩み入った古暮の足跡だけが床に残る。


「あんたはここに綾宮クロが住んでいたって言うの?」

「彼はこの部屋で手紙を書き続けていた」


 シロが指差した先は部屋の片隅に置かれた、おれが書き物机代わりに使っていた本棚。しかしその上には手紙の一片もなく、ついでに言えば部屋同様、長らく人に触れられた形跡さえない。この部屋のカーテンは遮光性のものを利用しているらしく、隙間から漏れる明かりでようやく埃が舞うのを視認できる。廊下から差し入る光線がなければ完全な闇となるのだろう。


 古暮は不自然に開かれた部屋の中央から、入り口に立つシロの表情が逆光に見えなくなっているのを見た。


 奴の影から彼女の場所まで。足跡はひとつだった。


「そこでぼくの両親は殺された」


 おれの脳裏にノイズ混じり、血塗れの光景が映る。それはおれの記憶であると同時にシロの記憶でもあった。


 母がもたれかかった棚は中身ごと手形に濡れてしまったから捨てられた。父の吐瀉の匂いはいまだに床板に染み付いている。


 シロは手近な本棚に腰掛けた。


「じつはあの夜に死んだのは、クロが殺したぼくの両親だけじゃない。もう一人死んだ人間がいて、そっちはぼくが殺したんだ」

「……」


 古暮は何も言わなかった。表情さえ動かない。


 一方おれは唐突に自身の意識が朦朧としだすのを感じた。どうしてかシロの語る過去をおれは知っていながらにして。知らない。


「これでぼくが古暮さんに与えられるヒントはすべてになる」そうしている間にも、おれにだけ伝わらない会話は続く。「君はきっと、どうしてクロが香織を殺したがるのかを想像するだろう。そしてその答えがクロに伝わった時、クロはためらいを失って香織を殺す。だけどクロが本当にこの世界から消える契機も、その解答の中にある」

「……どうしてあんたは、答えを自分で綾宮クロに与えようとしないの?」

「決まってるよ。彼がぼくの罪だからだ」


 そして二人を間に沈黙が横たわった。唐突に古暮が言う。


「私は正しいということが好き」


 その表情は微かな震えが伝わるほどに固く閉ざされていた。


「気分がいいこと。間違っていないこと。弱くないこと。嘘を吐く必要がないこと。曲がらなくて済むこと。そういうものを一緒くたに正しいと表現するけど、馬鹿みたいにただ突き進んでも、何も良くならないことをすでに私は知っている。だから何とかしようとするの。頭を使って苦労を使って限界を試してみて、ダメになったって懸命にやり直す。私は何度だってやってきたよ」


 その顔は途端、泣きそうに歪む。


「でもやっぱり一番簡単なのは切り捨てることだったの。バツが付いてしまった人を追放すれば何でも結構上手くいったから。そうやって狭い範囲を守り続けていれば私は満足だった。そのつもりだった。でもそんなのただ問題を先送りして蓋をして見ないことにしているだけだったみたい。このままだときっといつか、私の世界はどこまでも細切れになってしまう。行き着く先は平穏で誰も悲しまないたった一人だけのための国よ。もしかしたら私は今、ふたつの未来の分岐点に立っているのかもしれない」


 そして古暮はシロを正面から見つめた。


「あんたが殺したのは××××ね」


 どうしてか、その言葉をおれは認識できず、シロを監視し続けていた意識が遠のいた。

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