13.甘い世界観は君を弱くするぞ

次の日の昼休み、ぼくは屋上で古暮に人を紹介されていた。


「こちら一式さん」


 そう指されて頭を下げた女の子は、いくら眠ってもまったく夢が見られなくなってしまった羊のような瞳をしていた。


「殴打魔被害者の妹さんにあたる人なの」

「そういえば真尻に紹介してもらっていたね」


 ぼくはその犯行をクロの視界を通して見ていた。相手が自転車に乗ろうとしてギターで殴られていた男だったという記憶はあったが、目の前の少女にその面影があるかまではわからなかった。


「話聞かせてくれるって」

「殴打魔を」泣き疲れて掠れきり、もう二度と元に戻りそうもないような声だった。「殺してくれるって聞いたから」

「……そう言ったの?」


 これは古暮に向けたぼくの問いかけ。


「そのつもり。あんたは助手でしょ?」

「……」


 記憶と認識に齟齬を感じたけど彼女と今この場、具体的には一式さんの前で口論をしても得るものはないだろうと判断して、ぼくは彼女に向き合う。


「お兄さんはどんな容態なの?」

「頭から爪先まで、色んな骨が折れていたわ。一番ひどいのが胸部骨折で、肺に突き刺さりかけていたって」

「お兄さんはどんな人だった?」

「優しい人よ。頼まれたら断れないタイプで、殴打魔のことも恨んでいないようなの。きっと天命だって」

「それは」


 人としてどうなんだ。優しいというより被虐趣味に近いんじゃないかと思うけれど。


「兄さんは馬鹿だと思う」ぼくが言い淀んでいる間に、彼女はぼくの言いたかったことを辛辣に続けた。「もう起こってしまって仕方のないことだからと諦めて受け入れてしまうことが何よりもおかしいし、許すって言いながら結局は責任を追求する面倒から逃げてるだけだもの」

「……」

「だから私は代わりに怒ってるの」一式さんは恐らく無意識で足元のコンクリートを苛立たしげに踏みにじった。「兄さん。左肩を壊されて動かなくなったから、もう現場で働けないんだって」

「お兄さんの仕事って」

「工場で働いていたの。結構体力いる仕事。でも辞表出して、障害者手帳もらいに行ったわ」

「……」

「私は絶対に殴打魔を許さない」


 それからひとしきり憎しみを呟いた一式さんは、それでも恨みを吐ききらないかのように何度もきっと殴打魔を殺してくれるよう頼みながら屋上から出て行った。


「どうだった」

「ひとまず君が悪趣味なことはよくわかった」


 よりによってこのぼくに、あんな人の言葉を聞かせるなんて。


「情報として有益なものはなかったでしょうけど、あんたに自覚して欲しかっただけなの。あれがあんたの兄がやってきた犯罪の結果よ」


 ぼくは肩をすくめた。


「昨日は香織も襲われたんでしょう」

「無傷だけどね」

「それでも香織は休んでる」

「世間的には殴打魔に襲われかけたということだし」


 昨夜ぼくが香織を見つけた時にはすでに、クロはもちろん瑠璃華もその姿を消していて、ただ彼女だけが茫然自失といった体で泣き続けていた。うわ言のように呪詛を込めて呟きながら。


「クロの馬鹿、だって」

「……」


 二人の間をもう冷たくなりつつある風がすり抜ける。月末の文化祭を終えてしまえば園芸部は季節を理由にしばらくほとんどの活動を停止することになる。この屋上もぼくらが腰をかけているベンチ以外に何もない一面のタイル畑なのだから、適度な予算をかけて庭園かビニールハウスにでもしてくれれば嬉しく思う。だけど正部員が増えない限りは園芸部もあくまでやる気のない名貸し部員ばかりの小所帯で、水道もろくに通ってない屋上まではとても管理しきれないだろう。


 黙り続ける古暮を横に、一日分の野菜が摂取できるらしい紙パック飲料を潰し飲む。目線の高さにある空は曇り気味で、どうにも今ひとつ、眼下のビル街もその向こうの田んぼも退廃的に映ってしまう。五限目の授業の予鈴が鳴ったけれど、それで腰を上げるほどにはぼくも古暮も優等生をやっていないみたいだった。


「……私も馬鹿って言われたいな」

「君は馬鹿なのか?」


 何を真剣に悩んでいるかと思えば。


「あんたにじゃない」

「そんなことはわかってるよ。ぼくだって別にサービスで言ったわけじゃない」

「好きな子の罵倒こそがご褒美なの。それがこの業界の流儀なの」

「……」どこの業界だ。


 互いにため息を吐いて、タイミングが合ってしまう。気まずげに視線で会話の端緒を譲り合って、向こうが受け取った。


「あるいは綾宮クロは香織を殺せない体質だった?」

「今だけはね。そのうち何かのきっかけで殺せてしまうようになるかもしれない」

「きっかけ?」

「彼が記憶を取り戻して、自分が香織を憎んでしまった理由を思い出すとか」

「……あの男にそんな繊細な感性があるの。殺意の理由なんて」


 もちろんクロにだって、理由くらいある。人を殺すのに理由のない方がおかしいけれど、おかしな人間なら理由がなくてもおかしくないというねじ曲がった理屈だろう。あながち古暮の考えも普通ならそれで間違いはないかもしれないなと思った。しかしことはクロの事情だ。はっきりと彼女は部外者に過ぎる。


「まだ君は探偵を続ける気なの?」

「香織が危うく殺されそうになったのよ?」

「つまり香織は結局殺されなかったんだよ」


 そして昨夜からの香織は、警察や両親にさえ殴打魔の人相をよく見えなかったの主張だけで押し通している。どうしてこんな不明瞭な証言が少女の細腕に押されて通るかといえば、これはぼくがクロかばった時に古暮に指摘されたのと同じ理屈だ。つまり、被害者らには犯人像について誰一人として口にしない傾向があるらしく、報復を恐れるゆえか今までの被害者から警察は何ひとつ情報を得られていない。先ほどの一式さんのお兄さんに至っては訴訟する気もないという話だし。


「……あれ?」


 よくよく考えてみると、いくらなんでもそれはおかしい。加害の方法が殴打である以上、クロは彼らにそれこそ触れられる距離まで近付いたはずで、それで目を真っ先に潰されて顔が見えなかったなんて言い訳が通るとは思えない。警察はたぶん被害者の数に圧倒される形で、何かしらのそういう手段があるのだと納得し見過ごしているのだろうけれど、こうして犯行側に立ってみればあんな杜撰な襲撃。せめて犯人が二人組であることくらいは世間に流布されていてもおかしくないはずだ。

 瑠璃華の言ったうまくやっているという言葉を思い出す。


「どうしたの」

「別に、」


 ちょっとあとで確認してみようと、ぼくは今の思い付きを心の戸棚の目立つ位置に飾った。その一方でごまかしのネタを視界に探して。


「……屋上から見ると、あの工事中の場所。土台もできてないんだなって」

「あぁ、新校舎ね……」


 それは新しくできる部室棟と聞いていたトタン板で囲まれたスペースだった。ちょうどぼくらの座る場所から正面に見下ろせる位置に、ひどく寂しい更地が剥き出しにされていた。


「そういえば香織から聞いてるかしら」

「何を?」

「園芸部は新しい部室棟の方に移動するらしいの」

「……あぁ」


 たしかに聞いたような気もする。まだ未定だったはずだけど、いつのまにか本決まりになっていたのか。


「あとちなみに、この屋上って本当は立入禁止で普段は鍵がかかっているから。気を付けて」

「……」

「生徒では香織と私だけが合鍵持ってるから入り込めて、一昨年までここにあった鉢植えの管理もしてた園芸部の先輩に作ってもらったの。内緒ね。一式さんにも口止めしなきゃ」

「そう……」


 別にこんな場所を校則違反気味に占有していたところで、香織らが喫煙でもするわけじゃないだろうし、ぼくの知ったことではない。むしろやはり一昨年まではここに鉢植えがあったのかとそちらの方が気になってしまう。部員を増やせば本当にビニールハウスくらい建ててくれるかもしれない。


 ……不覚にも考えが著しく脱線した。植物関連の話題はぼくにとって鬼門かもしれない。それにしてもさっきまでの話との落差がひどいな。いや、さっきまでの話こそが日常から離れすぎているのか。


「ところで、正直なところ」さりながらぼくに、日常を切り捨てる躊躇いはなかった。「君にはクロを殺して欲しいんだ」


 古暮の方とて眉間を歪めもしないで、ただ呆れたようにため息を吐いただけだった。


「……誰も彼も、殺す殺すぶっ殺すって田舎の不良じゃないんだから」

「所詮は自意識過剰な田舎の不良だよ。ぼくもクロも」


 喧嘩よりかは卑怯で不当な手段を選びがちなだけで。


「だからってわけでもないけど、口では威勢の良いことを言いながら本当にクロが殺されてしまうのも困るんだ。最終的には彼が消えてくれるような結末がぼくの望み」

「……殺す以外の方法で?」

「そう」


 吐息。


「あんたの望みは抽象的過ぎてわからないわ」


 ぼくはそれ以上こちらの事情を話すつもりはなく、それだけですべてが誤魔化されるように肩をすくめて見せた。すでに短くない付き合いの古暮はぼくのその動作の意図を難なく理解し、不機嫌そうに口元を曲げた。


 本鈴が鳴る。階下で授業は開始されてぼくらの遅刻は確定した。


「さてはて、つまらないことになってきたな」


 曇り空に向けて古暮がつぶやく。ほんの少しだけ楽しそうに。




 それからふたつの授業を経て同じ日の放課後、ぼくはいつもの精神科医と会っていた。


「別に診療日じゃないはずだけど」

「どうしてそんな嫌そうな顔してるんです」

「別に嫌ってわけでもないんだけど単純に面倒そうだな、と」

「……」


 たしかにとばっちりだろうしな、とは思った。されど良心は痛まない。


「妹さん大変だったってね」

「どうして知ってるんですか」


 それが昨日の今日で、簡単に出回る情報だとは思えなかった。


「じつはそうなんだ。それもあって面倒なことになっていてね」

「……?」


 彼は少し自虐的に笑った。


「例の殴打魔にね。うちの患者が数人含まれているらしいんだ。理由に心当たりは?」

「……名簿の横流し犯はぼくじゃないですよ」

「まぁ、君が出入りしてるはずもないような別の診療所の患者も含まれているらしいから、特に疑っているわけではないんだけどさ」


 じゃあ訊くなよと思う一方で、道理で前回あったときも妙にぎこちなかったのだと察する。


「つまり、こういった医者にかかるような人ばかりが被害者に選ばれていると?」

「奇妙だろ? それで今朝も警察から照会が来てね」

「……ぼくの名前は出しましたか?」

「いいや。さすがに個人情報だから犯人という確証でもない限りはね。本当は警察に名簿と被害者リストの一致を漏らすのも良くないんだけど。事情が事情だから」

「……ふむ」


 心の戸棚の見えやすい位置に置いていたあれこれが少し整理された気がした。


「何か思い付いた顔だね。やめてくれよ、また面倒を持ち込むのは」

「どうして犯人の顔を誰も証言しないのかと考えていたんですよ」

「……つまり、どういうことだ」

「つまりそういうことだと思います」


 医師はまだ首を傾げていた。


「君は変な風に変わってしまったね」


 しかしそれは事件に関する疑問ゆえではなく、ぼくについての見解ゆえだった。


「そうですか?」

「一年前とは比べ物にならないくらい人と対峙することに恐怖を見せないようになった。だけどその顔の使い分け方はどうかと思う」

「……」


 彼の指摘に思い当たる節はあった。


「勘違いしないで欲しいのだけど、壁を作って距離を測って、作り笑い越しに構築する人間関係を否定するつもりはないよ。だけどねその場合、仮面の下にはきちんと素顔を用意していないといけない。特に君のようにまだまだ一人で生きていけない人間は」

「ぼくなりの精一杯なんですけどね」

「それはわかるよ。だけど、その方向には進んで欲しくなかった。そういう器用さは少し異常だ」


 異常。実のところ、それこそぼくが最も避けたかった自己への評価だった。多少なりとも腹が立つ。


「先生、普通って何でしょうね」

「普通ね。どうして急にまた?」

「ぼくは」ためらいはつかの間だった。「ぼくは他人にとって自分が価値のない人間であることを知っています。というより、他者にとって自己の持つ個人という代替不可能性は価値あるものではないことを知っています」

「……続けて」

「両親に虐待されていた時、どうして自分が怒ることもできず、何もできなかったのかって考えてみると、やっぱり誰かに縋ろうとしても、ぼく自身がぼくを助ける価値をいまひとつ信じられなくて、助けてくれた人に見返りを返すあてもなかったからです」


 医師は椅子の背もたれに身体を預けた。


「人間は人であるというだけで他者に与えられるものを持っているという話は、以前したよね」

「はい。その話は覚えています。でもそれってつまりぼくじゃなくても差し出すことのできるものですよね」

「そうだね、貨幣は共通に価値のあるものでなくてはならない。通じない言葉でいくら喋っても通じはしないんだ」

「でもそれってとても怖いことだと思います」

「相手にとっての君はいつでも代わりがいるという気がするからだね」

「そうです。そのせいでいまだに他人へと関わるのは怖いんです。彼らの人生の中でがん細胞のようにぼくが育ってしまうのがとてつもなく怖いんです。きっと彼らはぼくを面倒な荷物として背負うでしょう。行為としては助けてくれるかもしれないけど内心や態度では疎んじるんです。ぼくは彼らの目を見るたびにやっぱり人も動物なんだなと思います。どんなに表面上は優しい言葉や気遣いを嘯いていても、ふと気を抜いた瞬間に明日の食事や眠たさ、性欲のことを考えている目になってしまう。猿みたいな無表情で、目の前に存在するぼくが本質的な価値を提供できない負債であると、自分が生きるために代償として行為を与えるべき対象であると頭から理解していることを示している。あの目には愛を注いだり時間を割くべき対象としてぼくが映っていない。そんな存在になってしまうのが怖い。それくらいなら死んでしまった方がいいと思う。こんな考え方は間違ってますか?」

「間違ってないよ。人と人が関係する時、そこには必ず欲望がある。相手に利益を見出すからこそ人は他者と関わり自らが生きていく上で必要なものを受け取っている。つまりさっきの貨幣の例えで言えば、君は誰もが差し出せるような千円札や一万円札じゃなくて、君にしか作れない、しかし誰もがその価値を理解できる宝石細工のようなもので相手の愛情や自分の居場所を買い取りたいと思っているわけだ。それが君のなりたいと望む、代わりのいない存在というものの意味だよね」


 はい、とぼくは頷いた。


「先に結論から言えば、完全な意味で誰にとっても特別な価値を持つ宝石細工なんてものはこの世に存在しない。歴史上すべての人間から愛された人なんていなかった。されどたしかにそれに近いものになら、つまり誰にとってもとまではいかなくても、かなり多くの人々にとって価値あるものを供給する唯一の存在になら、君にもなれる可能性はある。しかしその可能性は極微量だ。人はそれを才能や容姿と呼ぶが、はっきり言って君にはそのどちらもないだろう。これは別に君を観察しての結論ではなく、あくまで可能性の話だけどね」

「それはわかります。ならせめてぼくは、誰にとっても重くない存在になりたいんです」


 彼はふと優しく笑った。


「それで、『普通』になれば誰も君を気にかけない。君は無害でみんな大満足ってことかな? なるほどわかってきたよ。だから君はそんな嘘ばかり吐く口先だけの人間になろうとするんだね。相手に応じて性格を付け替えるのも、その相手に一番受け入れられやすいと思われる人格と言うわけだ」


 ふと長く語りすぎたことに気付いて、向かいの彼を見上げた。


「これっていつか治りますかね。ぼくは『普通』になれますか」


 珍しいほどに医師は真剣な表情を見せて申し訳なさそうに言った。


「……はっきり言うと、君の恐怖そのものは幼少期に作られなかった他人という器の欠損で、今更どうこうできるものじゃない。もちろんぼくは君にこう言い聞かせることはできる。人は誰しも他人に迷惑をかけて生きているし、君は返せる返せない問わず君以外の他人にもたれかかっていいのだ、と。だけど君はきっとこんな言葉で納得しない。頭で納得はしても実感がわかない。だから君の恐怖はいつまでも消えない。何度も言うけどその特殊性はもう手遅れで今更、君の中に器を作り直すことはできない」

「そうですか……」

「だからこそ、君は他の人間が当たり前にやっている『頼る』ということに勇気を持って飛び込まなければならない」

「……」

「他人を貪り食うような生き方しかできないならそれでもいい。見返りなんてクソ食らえと喚いてでも、生き延びることができればそれが君の勝利だ。その行いが良かろうが悪かろうが、そういうあり方を許される場所はこの世界の何処かに必ずあって、君はいずれそこまでたどり着くことができるはずだ。それまで正しくない場所に逗まることはキツいだろうけど、知ってるだろう。落ちるのは這い上がるよりも簡単なんだ」

「……もっと良くないものになれと?」


 彼は少し首を傾げた。


「先の貨幣の話に戻ろうか。万人共通にやり取りしている代替可能な価値というお金がどうも君は気に入らないらしいが、ぼくはそれこそが逆に救いでもあると思うんだ。ぼくはそのお金が好きだ。隣人という共通貨幣、言葉の交換。それは代替不可能性ではなく代替可能だからこそ突き放した価値を持つんだ。通じない言葉や違う国の紙幣で支払っても誰も喜ばないよ。君は誰もが使うのと同じ言葉や紙幣で売り買いする。でもだからこそ、君は必要としなくなった時に相手をあっさり見限っても良いんだ」

「……」

「逆に仮想して、君にしか生み出せない宝石細工なんてもので人間関係を構築してみろ。絶対に相手は君を利用し依存して生きていくようになるよ。気付いた時にはもうしがらみまみれで君は相手と一緒にどこにも行けなくなっているだろう。しかし誰にでも生み出せる程度の貨幣なら君は心置きなく払いきった分だけの対価を受け取ることができる」

「でも、それはあんまりに殺伐としてませんか」

「殺伐で何が悪い。甘い世界観は君を弱くするぞ。逆に厳しい世界観は君を強くするだろう。後者の世界観の元での君は今現在進行形で、矢羽根家の両親や義理の妹に借金を積み重ねている状態だ。彼らは君が宝石職人だから養ってやっているわけじゃない。君が将来、あるいは今も含めてそれを現金で返してくれると期待しているからこそ君を受け入れているんだ。それでここからがいちばん大事なところだからよく考えて欲しいのだけど、借金は踏み倒しても良いんだ。もちろん相手は怒るだろうし君の信用だって落ちる。でもそれは大したことじゃない。踏み倒すような相手に貸した向こうの間抜けでもあるし、たかが代替可能なお金の話でしかないんだから。そしてだからこそ、君は安心して他者に『頼る』ということができるはずだ、そうだろう。だってあくまでそれは借りているだけで、君はいつだって返すことができるし、万一返せなくてもそれはそれで仕方ないと向こうも諦めるはずだからだ。卑怯でずるい大人になることだ、矢羽根志郎くん。君はこの世界を敵に回して、しかしそれでも上手く付き合っていかなくてはならない。本当に強い人間というのは寄りかかるべきものが所詮脆く浅はかな虚構でしかないとわかっていても、それでも寄りかかる勇気を持つ者のことだ。彼らは自身の信じる虚構の維持に身を費やし、一方で例えそれが本当に壊れてしまった時にはすぐまた別の虚構を探し始める。それが君の目指すべき『普通』じゃないかと思うのだが、どうだろう」

「でも、何ごとにも例外はあります」


 微かに滲ませた失望は伝わらなかった。


「もちろん、例外はあるさ。しかしそれは程度の差であって根本的なシステムの差ではない。何なら君が新たな殴打魔になってもいい。すでにドン底なんだ。もっと汚くなってでも君自身が生きやすくなるのならその方がマシだ、なんて。そういう戦い方を君は、いい加減に覚えても良いはずだとぼくは思う」

「……考えておきます」

「うん、ところで」

「はい?」

「君は人に頼るのが怖いと言うけど、今こういうふうに、ぼくには内心を打ち明けて頼ろうと思ったのはどうしてだ」

「……お金払ってるからですかね」

「つまりぼくが医者だから」

「はい」

「ふふ、ほら見ろ。やはりお金でしか解決しないこともあるんだよ」


 金を出さない相手にまで同情しないのはやはり正しいんだと、医師は嬉しそうだった。




「……」


 ぼくは先生の言ったことが間違っているとは思わない。


 あの医師は恐らく長いこと自分の無力を恨んだ経験があって、その過程で世界との関係を即物的なものと断じることによって、自身との関係の外側にある悲劇に胸を痛めることをやめた人間なのだろうと思った。


 だけどやはり何ごとにも例外はあるのだ。金で買えないものも言葉で贖えないものもこの世にはたくさんある。


 クロの犯し続けている罪はそういったたぐいのもので、彼の暴力を見逃し続けるぼくや香織に先生の言う『普通』はきっと遠過ぎる。


「やっぱり蛹のまま焼かれるのが正解なのかな」


 ぼくは帰り道、空を見上げながら尋ねてみる。クロはいないらしく、返事はなかった。


 そんなの当たり前だろと嘲笑って欲しかったのに。




 あの日以来、クロが瑠璃華からも距離を置き、夜の街を彷徨い歩いていることをぼくは知っている。


 街灯を携えた電柱列に挟まれるアスファルト道の端を、クロは物思いにふけりながらあてもなく歩いていた。ヘッドホンで耳を塞ぎ続ける彼が聞いているのはジョナサン・デイヴィス流の進化論で、人は内なる獣に支配されて死にたがるという歌詞のようだ。


 周りを見渡してみろ。ほとんど何も変わっていやしない。


 進化してさえ人はくだらない獣でしかなかった。これからもどうせそうなんだろう。


「やぁ、先日はどうも」


 ふいに正面に見えた革靴の爪先の持ち主に呼び止められる。クロが胡乱げに顔を上げた先には、その男にしては珍しく体調の良さそうな顔があった。


 あの首を吊られていた男だった。


「瑠璃華さんの今の彼氏だね」

「……違う」

「名前は綾宮クロだ」

「……」


 ますます不機嫌そうになるクロを前に、果敢にも彼は笑って見せた。


「別にぼくは占い師じゃない。彼女には色々聞いてるんだ、付き合い長くお世話になっているからね」


 それがどれほどの言い訳になるだろうと思ったけれど、クロは不審を沈黙で表すにとどめた。


「それより、この前は君ともう一人の女の子に助けてもらえたみたいだね。救急車を呼んでくれたお礼を言いたくて探していたんだ」

「そうか、じゃあな」

「あれから瑠璃華さんには、農園の仕事も紹介してもらったんだ」

 どうしてか彼は立ち去るクロについてきて、その横で話を続けた。

「……」

「ちょっと怪しい草の世話をするだけなんだけどね、ぼくに向いてるみたいだ。小さい頃ガーデニングにハマってたのもあるだろうけど、やっぱり植物を育てるのは楽しいよ」


 聞いた覚えがあるなと思いつつ記憶から引っ張り出すのに少しばかり苦労し、自分もやらないかと勧められて瑠璃華がキレた件だったなと思い出す。思い出してなお、クロは彼の存在を無視し続けた。


「ずっと彼女には世話になりっぱなしで、まだ学生の頃から色々と仕事をやらせてもらっていたけど農作業の前はキツかったな。詳しくは言えないんだけど色んな人を不幸にするのが本質みたいな仕事でね。どうしても平気ではやってられなくて定期的に首を吊らないと狂ってしまいそうだったんだ」

「……」


 クロは相手の意図を読み取れず、前だけを向いたまま眉をしかめる。


「いや、死にたくもないのに首を吊っている時点で狂っているっていうのは、その通りなんだけどさ。でも今の時代、どの仕事に就いてる人も多かれ少なかれどこか狂ってるんだ。まともな人なんていない。ちょっと新聞なんて読んでみなよ、ホントこの国は狂ってるぜ? 駅でスマホいじってる子供をホームから蹴り落とすわ、隣で飼ってる猫の鳴き声がうるさいからとホウ酸団子を食わせてみるわ、弟のゲーム癖が苛立たしいからと刺し殺してしまうわ。あれらに比べれば、ぼくなんかまだまともな方だと自負するね」

「知らねぇよ」

「知らねぇよ、か。なるほどホント知ったこっちゃないだろうさ。君は所詮、瑠璃華さんのおんぶに抱っこで殴打魔をやらせてもらってるんだから」


 クロは足を止めて振り返った。口を開きかける。


「どうして知っているなんてつまらないこと訊かないでくれよ。君の察しの悪さにはいい加減うんざりなんだ」

「……悪かったな」

「まったくだ」


 二人はつかの間、にらみあうでもなくただ眺めあった。しかしそれだけだった。


「いやはや、喧嘩を売りに来たつもりはなかったんだ。そもそもぼくの基準で言えば、君よりもよほど責められるべきもう一人がいる。ともかくしつこく絡んで悪かったね。そして武闘派な彼女にもありがとうと伝えておいてくれ」


 そう残して、男は離れていった。


 クロはどうしてか彼に対して苛立ちを覚えることさえもなく、その背中が路地裏へと吸い込まれるのを見送った。あのような言葉を投げかけられながら、ここまでの穏やかな別れはクロにしては珍しいことだった。また歩みを再開しながら少しだけ理由を考えてみる。


 どこか自分に似ていたからかもしれないと彼は思った。

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