12.頭痛より妹

 一日中走り回った挙句、深夜も近い時間帯にようやく、クロは瑠璃華を見つけた。


「ややっ、おはようクロちむ」

「……はよ」


 彼女はぼくを尋問した場所から動かずに、そのまま彼を待っていたらしい。何も無い周囲にはぼくを拘束していた縄が散らかっていた。


 しかしクロの方はと言えば、つい先ほどまでここで何が行われていたかも知らず、彼女のいつもと変わらない挨拶に呆れが先に来て、今までどこにいたのかなどと尋ねる気も失くしたみたいだった。


「……頭痛さえしてきた」

「およ、手加減はしたんだけどな」

「は?」

「いやいや。それより、どうしたのかなそんなに心配そうな顔して」

「どれだけ探したと」


 そう言いながら、立ち上がりかけてふらつく。


「……どうしておれは座っていたんだ?」


 加えてどうしてか制服の袖口が濡れて嫌な匂いを発していた。


 ふと倉庫の外を眺めれば夜闇に雨が降り始めていて、そうか自分はここに来るまでの間に濡れてしまったのだと思い至る。夢中に走ってきたせいで気付かなかったのだろう、とクロは解釈した。


「それよりクロちむ、瑠璃華ちゃんを探してくれてたんだ」

「あぁ……」


 どこか釈然としない顔のまま。どうせ何を言っても今更馬鹿げてるならと、一息に言ってみた。


「じつは生き別れの弟におれが殴打魔とバレた。テレパシーのたぐいを使われたらしい」


 瑠璃華はほぉと白々しさを声に出した。


「なるほど。それで弟くんは他人を使って瑠璃華ちゃんを襲わせたと」

「信じるのか」


 そりゃあ、ねぇ。


「ま、クロちむが言う冗談にしてはひねりがなさすぎるからね。どこぞの嘘吐きならともかく」


 誰だろう、どこぞの嘘吐き。……。くしゃみは出なかった。


「それに瑠璃華ちゃんなりの裏は取ってあるから。大体の事態は把握しているつもり」


 瑠璃華は笑いその笑顔に、クロは彼女が本当にわかってるのかと不安になった。


「それよか、今日もこのまま殴打魔やりに行こうか」


 その上にますます不安を煽る言葉を重ねる。


「……続けるのか」

「当たり前じゃん。むしろやめるつもりだったの?」


 瑠璃華の返事はあっけらかんとしたものだった。


「しばらく自重するだろうとは思っていた」

「じつは一応、これで宣戦布告的な意味もあるんだ」


 約束もあるし、と。


 どこまでも好戦的な台詞を聞かされて、クロは呆れてため息を吐いた。


 それじゃ行こうかと、彼女は彼の手を取った。




 彼らは倉庫から外へと繰り出す。そこは思った通りぼくの家からもそう遠くない、空き地の方が多くなってしまった古い開発住宅地の一角。空では折れそうに細い月が浮かび、人を襲撃するにはまずまずの暗さだった。まだらで大粒な薄い雨が背景に濃色を上塗りするが、殴打魔らは傘なんて上品なものを持たず、ただ濡れるに任せていた。


「武器はこれでいいかな?」


 と差し出されたのは錆びた乾電池。ぼくの頭痛の種はクロの手に移る。


「それで、今日は誰を?」

「んー……そこらへんにいるはずなんだけどな」


 と耳を澄ませるが、目的の足音は拾えなかったらしく微笑んだ。


「ちょっと歩こうか」


 そのまま先導する。クロは大人しく付いて行く。


 しばらく歩く。ルートを頭の地図に思い浮かべてみれば、どうやらあてもなく住宅街を適当に回っているような経路だった。


 夕飯時の空気は壁をすり抜けて、嗅覚から伝わる。談笑の声がカーテンの隙間から漏れ出ていて、それはたしかな生き物が家族を成している証で、平穏な幸せというものが存外そこかしこに偏在するのもなのだという事実をふいに思い出させる。されど就寝の時間までに至ればそう、屋内に蠢く人らの気配は徐々に消えていく。


 眠るとは怖いことだと、唐突にクロは思う。それは仮死のようなもので、きっとクロらのように人を傷付ける目的で侵入する相手をたやすく懐に潜り込ませる。本当に良くないものはいつも眠っている間に忍び寄ってくる。されど毎晩、人は眠ることを選ぶ。一日の三分の一も睡眠にあてる動物なんて狩る側たる肉食獣がほとんどだ。自然に即して考えるなら、狩られる側の生き物たる人間に思うまま惰眠を貪る権利はない。


 ひょっとして人は皆、死にたいのだろうかとクロは思った。


「あの子にしよ」

「……」


 そう瑠璃華が指差した先にいたのは香織だった。


 どうしてこんな時間のこんな場所に彼女がいるのか。きっと帰りの遅い兄を探していたに違いない。


 傘をさす私服姿の香織は振り向いて、そこにクロと瑠璃華が並ぶのを見て。


 微笑んだ。


「クロちー憎いんでしょ? じゃあ簡単じゃん。今日殺っちゃおうよ」


 その声に重なる記憶の形。クロの脳裏に、かつて瑠璃華がはしゃいだように囁いた言葉が過ぎった。


 殴るってね。人の傷付け方の中で一番残酷な方法なんだよ、と彼女は言った。ひと息に殺せるような銃弾や刃物と違ってね。血は簡単に流れないし、内出血だって直接脳にでも起こらない限り比較的死ににくい。それでいながら骨と拳との間に挟まる神経の糸玉はボロボロになるまで痛めつけられる。


 ほとんどの動物は外敵と戦うのに牙や爪を使うよね。気持ち的には生物は体液を垂れ流し尽くせば大体死ぬから、とりあえず穴を空けとけって感じかな。対して人間と同じように拳を使うのはシャコくらい。まぁ単にそれ以外が退化したが故なんだろうけど、瑠璃華ちゃんは別の考えを持っててさ、単純にその方が長く痛めつけられるから人は殴るという方法に特化したんじゃないかなと思うのね。人間なんて残酷な生き物からしたら。相手を簡単に殺しちゃ、面白くないでしょう。


「綾宮くん、もういいでしょ」


 人の歴史は拷問の歴史。残虐さを競って人は戦争を優位に進めてきた。簡単なのは石を投げる方法で、たくさんの人を集めて、縛り上げた無抵抗の人間にひたすら石を投げ続けるだけなのだけど、これも投げられている方は滅多に死ねない。この拷問はわざわざ手間をかけてでも相手の苦痛を想像したいという人間の本能の発露なんだよ、きっと。


「もうシロ兄ぃのことは放っておいてあげてよ。私があなたに殺されてあげればぜんぶ終わらせることができる。そうでしょ?」


 殴るっていう行為には、斬るとか撃つとか絞めるとかとは比べきれないくらいの快感があると思うよ。武術ってのも基本的には単純な力の押し合いで、体重をどれだけ相手に打ち込めるかっていう技術なの。それが本来、生き物である以前に物である人間の本質的な闘争方法なんじゃないかな。殺さず。されど赦さず。


「だから、クロ」


 だからクロちむがもし、殴りたいんじゃなくて殺したいって思う相手がいるとしたら、瑠璃華ちゃんはたぶん嫉妬しちゃうな。


 だって殺すって優しさでしょう。きっとそれだけ、その子が好きってことでしょう。


「……」


 そしてクロは香織を殺せなかった。


 ほとんど逃げる素振りすら見せなかった彼女を転倒させ、馬乗りになり、拳を振り上げたところで。


 彼の動きは止まった。持ち主を失った傘が転がる。


 ……やっぱりね、と。傍観者らの声が重なる。


 それは瑠璃華もぼくも、暗黙に想定していた事態だった。


 ただクロだけが、いつまでも振り下ろされることのない自分の拳がただ雫を垂らすのを見つめて呆然としていた。


「おれは」

「どうして殺してくれないの」


 そして香織は怒っていた。濡れながら。泣きながら。彼の不断を責めて喚き散らす。


「殺しなさいよ。私はずっとそれだけを待っていたのに!」

「お前こそなんでだよ。どうしておれに殺されようと」

「うるさい、馬鹿! のろま! くず!」


 そうやって悪態の限りを尽くしてさえ、クロは一打とて彼女に打ち込めなかった。やがて香織は目元を覆って本格的に泣き始める。


「どうして殺してくれないの、クロの馬鹿」

「……るせぇな」


 クロは立ち上がり、香織の上から退く。つもりだった首を泥だらけの手に襟元から引き寄せられる。


 間近に真っ赤に泣きはらした目が彼を睨みつけていた。


「殺しなさいよ、馬鹿クロ!」

「嫌だっつってんだろ、放せ」

「あははははは」後ろでは瑠璃華が腹を抱えてその様を嘲笑していた。


 やがて腕から力を抜いて失望した目で香織は彼を離した。


「殺して殺して殺して……私を殺してよ、クロ。お願いだよ」

「納得いかないんだよ」

「黙ってよ。そんな女々しい理由で……死んでよ、もう……」



 ……う、あ……うあぁ……うわあああああっ……クロの大馬鹿ああああああっ!



 顔を覆ったまま子どもみたいに泣き叫ぶ香織の声が電柱の突き刺さる夜空に響き渡り、瑠璃華がますます笑って、クロはそんな二人に挟まれて困ったように振り下ろされなかった白い右手を見つめていた。


 ……。住宅街のど真ん中で起こったこの近所迷惑な馬鹿騒ぎ、一体誰が収拾を付けるんだろう。


 ぼくだよね、わかってる。少しの間だけでも逃避したかっただけなんだ。うん。


 さて、と。

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