10.ビンタと首吊り
ぼくは綾宮クロが逃げ出したことを知っている。
この事実から、やはり精神感応。あるいは感覚共有という現象はたしかに存在し、されど完璧ではないことを把握した。
すなわち、現在の相手の感覚を読み取ることはできる。けれどその記録、及び過去の参照はできない。
これはぼくから見たクロ側の感覚傍受にも当てはまることだ。ぼくが知ることができるのは現在進行形でクロが何を見て聞いて、感じているかということであって、履歴を知ることはできない。
つまり一度でも見逃したら、相手が思い返さない限り、過去の知覚にはアクセスできないということ。
ぼくは今朝、登校路上で先ほど実行した古暮を利用する作戦を思い付いた。加えてその時点におけるクロの感覚を読むことで、彼がまだ寝ていることを確認した。つまりその時のぼくの思い付きは読まれておらず、さらにそれ以降も、意図的に自分の思考を制御することで、この策が向こうに漏れる契機を潰した。
そして実際にこの試みが成功したことから、次のように結論付けられる。
ぼくが羅列しクロが閲覧した条件列のうちのその三、だっけ? 『感覚共有を回避した上で右記の条件の達成』。この達成はぼくらの感覚共有がリアルタイム視聴であることを利用すれば受動的には可能である、ということだ。
ちなみに受動的というのは、相手が視聴していない時間帯を期待する必要があることを考慮してそう表現した。
ではどうやって、相手が自分を監視していないと判断するのか。
これは感覚共有を二重に利用することで知覚可能だ。傍受した相手の視界に自分の視界が確認できれば、相手は自分と感覚共有しているということになる。
相手からの視線は相手の視界を通して知ることができるというのは道理だ。
「……くそっ」
クロは走りながら悪態を吐いた。
そしてこの考察の一度きりのアドバンテージはここで消える。
彼は逃走のさなか、油断なくぼくの思考を監視しており、隠せるつもりもなかったとはいえ、こちらの手札は今やすべて読み取られていた。次は通用しないだろうし、向こうも同じ手を使ってくるやもしれない。
しかしこれはクロの側でも注意深く時間をかけて考えていれば、いずれは気付くことだったろう。むしろ向こうが知らないと食ってかかり続けてしまうことの方がリスクである以上、今この情報の価値を手放したことは何ら惜しくない。
「負け惜しみかよ……」うるさいよ。
ところで自宅を飛び出た彼が今も向い続けている先は公園。その判断は正しい。が、しかし成果は乏しいものとなるだろう。
何故ならその公園はクロの居住地よりもぼくのいる学校の方が近いためだ。それこそ彼が走ってさえ、彼女が学校から歩くのに追いつかないほどに。
「……ちっ」
瑠璃華のテントがあったはずの場所に、彼はようやくたどり着く。しかしクロを迎えるそこには、生活の跡形もない無残な布切れと鉄パイプだけが地面に突き刺さる光景。
中央には古暮いつき。手には鉄製T字トンボ。
ぼくが彼女に伝えたのはクロの居場所ではなく、瑠璃華の居場所だった。
これにもいくつか理由がある。あくまでこれは実験のつもりだったから古暮に与える情報は最小限であることが望ましく、直接に綾宮クロの家。もっと正確に言えば綾宮家の場所を教えることは避けたかったというのがまずひとつ。それからクロがいーくん独自の制裁を受けるよりは、知らない仲ではないとは言え、ぼくがあまり面識のない瑠璃華がハンムラビされれば心も痛まないというのが正直なところ。これがふたつめ。
とはいえ、だ。たしかに瑠璃華の居場所もぼくが教えたけれども、まさかその結果がここまで凄惨な光景になるとは想像さえしなかった。
……この子ちょっと怖すぎない?
「探してたのよ。何処にいたのかしら、綾宮クロ?」
「……」
沈黙に警戒を滲ませながら辺りを見回し、かき集められた情報をどうにか出遅れた分だけでも整理しようとする。しかしその場における被害の状況は一見するだに奇妙な様相であった。
どうやら瑠璃華は外出中であったらしく……違うな、撒き散らされた家具類が少なすぎる。予め逃げられていたのか。
しかし思い返してみても走り出したクロがその間に連絡した様子もなかったし、恐らくは動物的勘で危機を察知していち早く逃げたのだろう。瑠璃華といい、古暮といい、この街は人外ばっかりだな。
「と、高みの見物な人でなしからのコメントってか」だからうるさいよって。
そして当の噂された彼女は、手近な鉄パイプも引き抜いて二刀流。
おい、空手黒帯。
「それで、あんたは殴打魔?」
「おれは「うぉおげ……がむっちょ」
「「……」」
怪訝な顔が揃い、つかの間空気が固まる。
やがて古暮が自分でもそうは思っていないような声音で言った。
「……ちょっと変な声出さないでよ」
クロの方とて頭を抱えたいほどに嫌な予感をつい最近の聞き覚えに感じつつ。
「今のはおれじゃない……」
と虚しげに答えた。
ふと縄がきしむような音がして、彼らが傍らの枝を見上げると、そこには男がぶら下がっていて、不自然な角度で見下ろしている視線と目が合う。
「うぉむ……」
「……あぁ、この前の」
合点がいったように呆れを滲ませて呟くクロが視線を下げた先には、パイプ椅子が転がっていた。
察するに、ちょうど先ほどの古暮の立ち回りの際、振りかざしたトンボによってそれが吹き飛ばされて、成功させるつもりのない首吊りが本人の想定外にも完遂直前らしい。
「ちょっと何これ……」
遅れて事態を理解し、いくらか慌てた様子で古暮は両手の武器を手放した。しかし思い直して拾ったトンボで彼のベルトを吊り上げた。
「ぐうぇげええぇ……かはっ」
呼吸が楽になったのか途端にぜぇぜぇと咳き込む男。その様子に古暮は今にも彼を引っ掛け上げることをやめてしまいそうなほどの嫌悪に眉を顰めた。
「誰これ、あんたの知り合い?」
「そうでもない」
と言いつつ、クロはすっかり白けた顔で転がっていたパイプ椅子を立て直す。乗って、ポケットから取り出した折りたたみのナイフで彼の縄を切断してやった。男はあっけなく自由落下して地べたへと崩れ落ち、そのままピクリともしなかった。
「どうしよう。あぁもう、何だか」
その動揺は傍目に気の毒なほどであった。
「とりあえず救急車呼んでやってくれ」
しばらくしてやって来た救急車に男は乗せられ、そのサイレンが聞こえなくなるほど遠ざかる。
二人仲良く見も知らない男を救い、あまつさえ見送ってしまった事実が頭痛の種となりつつあるらしき古暮は、一応といった様子でクロに尋ねた。
「それで、あんたは殴打魔?」
「……違うな」
遮られた質問から再開し、当然のようにクロは虚偽の申告をした。古暮だって元の流れの中でなら問い詰めるくらいのこともしただろうが、今しがたの奇妙な救出劇は良くも悪くも彼女の思考を冷ましてしまったらしい。
ため息混じりに。
「そう言われると、弱いよね……証拠はまだ教えてもらってないから」
「……」
証拠なくトンボ片手にここまで走ってきて、見かけたテントを迷いなく破壊するのかよ。と思ったみたい。
辺りは夕暮れ手前。わずかに西日が赤みを帯びた木陰の狭間でスズメが頭上に鳴いていた。遠くでは県道をよぎる車速が喧騒のようにここまで届き、公園を通り抜けに利用して帰宅する声もちらほら混じり始める。
これ以上のドタバタ騒ぎは、どう頑張っても似合わない情景だった。
「だからね、」彼女はトンボを肩に担いだ。「今日のところは見逃してあげる」
「……」
クロはスネたように鼻を鳴らした。古暮は薄く笑う。
「矢羽根シロも問い詰めたいし……」
……え?
「じゃあね」
あっさりといーくんは背を向けて、クロはこっそり嘆息した。
数分後のこと。ぼくは予告通りに問いつめられていた。
「それで、私を都合良く利用したあんたの理由と責任を明確にしてよ」
古暮は少し楽しそうだった。きっと性的嗜好が偏ってるに違いない。
場所は学校から少し離れて矢羽根家に近い喫茶店。店長のおすすめはワッフル。されど学生の身ゆえ財布の中身に寂しさを覚える二人の間には銅製の珈琲カップがふたつきり。ぼくのはブレンド。彼女のはウインナー珈琲。どちらもアイス。
テーブルの上に逃げ場を見つけられなかったぼくは、両手を上げて降参の意を示した。
「とりあえず感謝」
乾いた音。気付けば古暮に頬を張られた。本気よりは手加減されているとは信じたいけれど。
「……普通に痛い」
「最初だけは香織への義理で信頼してあげたけど、これ以上は無理よ」
「それは構わないけど、あまり話すことはないよ」
本当のことを言ったつもりだけど、古暮はぼくの言葉に不審を感じたようだった。
「なら、綾宮が殴打魔である証拠は?」
「彼の深夜徘徊と犯行現場を見たから」
「どうして彼自身の居場所でなく公園のホームレス宅を襲わせたの? それからどうしてあの一見関連のない行為で、結果的にあんたの言った通り綾宮は姿を見せたの?」
「……」
再び乾いた音。喫茶店という公衆の面前でやめて欲しい。カウンター奥の店長は何を勘違いしたのか不自然に目を背けているし、お気に入りの店なのに二度と来られなくなる。
「私はあんたの過去の事件を知っている」
彼女はその言葉を切り札のように差し出した。そして実際、それは十分にぼくを驚かせた。
「……」
「悪いとは思ったけど、調べたの」
「……どうして?」
ぼくはボロを出すほどに怪しかっただろうかと、内心の動揺を自身に誤魔化して、冷淡に尋ねた。
「あなたの顔が綾宮クロと瓜ふたつだから」
「……」
なるほど、そっちか。……もしやそれで顔を集中的に叩かれてるんじゃないだろうね。
それはともかく。
彼女がぼくを初めて見た時に何かを言いたげにしてたのはきっと、香織と似ていないことではなく綾宮クロと似すぎていることだったのだ。
「自分にとって当たり前のことだと、つい忘れてしまうな」
「双子なの?」
お、と思った。
「……双子だよ」
彼女の誤解に便乗して、ぼくはあっけらかんと嘘を吐いた。
「事件についてはどこまで知ってるのかな」
「新聞で読める限り、よ」
「じゃあ、どうして香織が関わってるのか知らないんだ」
「もちろん、彼が殴打魔になった理由も」
ならば話を作るのは簡単そうだと思った。されどまず先に、古暮の言う責任とやらを果たすことにする。
「精神感応って言って、信じる?」
「何それ?」
「テレパシーのことなんだけど。どちらかと言えば感覚共有みたいな」
「ふーん、それが?」
興味なさげに応じる。恐らくは信じまいと多少の躊躇いを覚えてしかし、ぼくはここに来て初めて正直に真実を告げてみた。
「ぼくとクロの間にそれがあるみたいなんだ」
「……」
呆れてる。見るからに呆れてる。
説明しろと言っておきながらこの顔だ。これからぼくを待ち受けている苦労は大いに予想できる。
もう二三の平手打ちで済めばいいけどな。
「私に双子の奇跡を信じろとでも?」
「別に信じなくてもいいけど」
「たしかにそれなら、綾宮が公園に現れた理由も説明できる。けれど」
「ちなみに今は、向こうから見られていないみたい。君に家を片された相方を探すのに忙しいらしくて」
「……けれどね、」無視して、話を続けた。「私はあんたが綾宮に虚偽の連絡をしたと思ったの」
……なるほど、そういう疑い方があるのか。
「それで君らをかち合わせた、と」
「そう。別にテレパシーなんてややこしいものは必要ない」
「……」
そうか、なるほどとぼくは妙に納得した。どうやらぼくはこの件においてはどちらか側に立つということができないらしい。何せ向こう側に筒抜けな盗聴器みたいなもので、向こうからの情報も読み取れはするものの、しかしその確度を自分単独では証明できない。テレパシーがスマホに信用を駆逐された超能力って先生の話は本当だったんだな、と。
「でもそれなら」
「それなら、どちらでも構わない」
先を言われた。
「そう、あんたを信用さえしなければいい。あくまで殴打魔の一味と思ってしまえば、騙されることもこちらの動きがバレることもない」
「……まぁとりあえずは、それでいいや」
「でも、」と古暮は続けた。「それでもあんたの責任がなくなったわけではない」
「……」
「話してよ、あの事件で何があったのか。あんたは誰なのか」
どうしてもそれを避けては通れないとわかってしまって、ぼくはため息を吐いた。
「……ぼくとクロと香織は幼なじみだった」
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