8.燃える蛹

 おれは矢羽根シロの好きなものを覚えている。


 しかし奴を、例えば誰かに紹介するためにであれ、一言で表そうとするのは骨が折れる。


 一文字なら比較的簡単だ。


 空、と。


 漠然と曖昧に何かが足りない。空虚と言い切ってしまえば何かしら満たされる予定があるようで違和感を覚える程度には、奴の行動全体にパワーというものが欠けている。


 その空っぽな心内の表情に被せる形で、対する相手に応じたハリボテの人格をぺたぺたと貼り付けて会話する。


 ある時は、シスコン気味な。ある時は、口先だけが空回る。道化じみた仮面の数々。


「どうして香織じゃなく、あんたなのかしら」


 されどそう出会い頭に言われて束の間、シロはどんな顔で応じるべきか迷った。


 放課後の教室。残っているのは古暮とシロだけ。奴らはその日の日直ペアで、分担して日誌の記入と黒板周りの清掃を行っていた。前者を古暮が。後者はシロが担当した。


「矢羽根って言うから期待したのに」

「日直は女子同士で当たらないでしょ」


 黒板を横方向にスワイプしながら、教室の一辺を端から端まで移動するシロが冷静に指摘した。


「あんたの名前、本当に矢羽根なのね」


 振り返ると、彼女は日誌の最初のページに挟まれたクラス名簿を見ていた。男子列の一番下に自身の名前を見つける。


「矢羽根いつきって響きも素敵よね」

「妻帯じゃなく婿入りなのか」


 熱心に見ているから何を考えているかと思えば、とシロはため息を吐いた。


「古暮香織でもいいけど」


 彼女の何気なく名簿をなぞる手元がひとつの名前で止まる。綾宮拓郎。おれの名前だった。その動作には気付かなかったふりをして、シロは黒板を消す作業へと戻る。古暮の方も日誌の続きを書き始める。


「綾宮シロ」

「ぼくの昔の名前だ。けれど、その呼び方はあまり好きじゃないな」


 苦言は聞き流される。


「腕を折られかけたらしいわね」

「少し前にね。香織にでも聞いたの」

「この前の部活の後のお茶会で、程よく過保護されてるようで」

「その日本語は語義矛盾っぽさがあるな」

「そこで訊きたいのだけど」彼女はシロの茶化しを無視した。「殴打魔の顔は見た?」

「見てないよ」

「どうして?」


 その質問にシロは巫山戯られてるのかと戸惑うが、どうも向こうは真剣そのものであるようだった。


「どうして……」

「腕を折られかけたということは、こう正面から」と古暮はシャーペンで角度を表す。「襲われたわけよね」

「でも顔はよく覚えていないんだ」


 と、シロは誤魔化した。


「みんなそう言うらしいのよね」

「みんな?」

「殴打魔の被害者。警察しか握っていない情報なんだけど」

「……」


 どうして警察しか握っていないはずの情報を彼女が持っているのかと首を傾げる。


「言ったでしょう。持病の探偵癖よ」

「はぁ」

「でもだからこそ、顔を覚えていないあんたは間違いなく殴打魔にやられたと考えていいのかもしれない」


 なるほど、とおれは一人頷いた。


 本来なら顔を覚えていないがゆえに同一性が保証されないはずのところを、逆に顔を覚えていないからこそ何かしらの手段で顔を覚えさせない殴打魔の同一性が保証されてしまう。なるほど一見道理は通っているようには見える。しかし警察の秘匿情報がこうして漏れている以上、模倣犯は不可能でも模倣被害者なら演じることが可能だ。


 殴打魔がシロを襲った事実は、犯人側のこちらからすれば自明のことなのだが、客観的に見ると奴の事件は複雑な様相を呈しているようだ。古暮は言った。


「あんたは珍しいの。殴打魔に襲われていながら、重症に至っていないから」

「……殴打魔じゃなくぼくのストーカーだったって可能性もなきにしも」


 白々しくも奴は嘯いた。当然のように無視される。


「私はふたつの可能性を疑ってるの。ひとつはあんたが殴打魔の身内である可能性」

「……」


 おれは心中で正解と喝采し、賛辞の意を込めて拍手を送った。


「ふたつめはあんたの妄想」

「妄想……」

「殴打魔の噂を聞いて自分もそのうち襲われるのではないかと恐怖するあまり、いつの間にか妄想が現実に起こったことになってしまう」

「仮にそうだとして、腕の怪我はどう説明するの」

「そっちは自己暗示。多少の湿疹や腫れ程度なら思い込みで作ることはできる。双子の一方が傷付けられると、もう一方も同じ箇所にミミズ腫れが浮かぶなんて話は聞いたことないかしら」

「……まぁそこまで持ち出せば、どうとでも説明できるよね」

「気を悪くしないで欲しいわ、ただあんたを疑っているだけなの」

「どう考えればその言い方で、ぼくが気を悪くしないと思ったんだ」


 古暮は眉を顰めて打ち明けた。


「シロ兄ぃって呼び名は、香織の口から何度も聞いていたのよ」

「……」

「その名前が出る時の香織はいつも泣いてた。綾宮シロ。それは私の大切な人を泣かせる私が憎んだ人の名前。だから私はあんたの名前が嫌い」

「……ぼくもその名前は嫌いだっての」


 古暮は目を逸らさなかった。


「そうね。詳しい事情は聞いてないけれど、きっとあんたは変わったんだと思う。この頃のあの子はよく笑うようになったから。でももしあんたが再びあの子を傷付けるなら、私は今度こそあんたが許せなくなる」

「……」

「あんまり変なことには関わらないでちょうだいね」


 シロは手についたチョークの白粉を払って落とした。


「……日誌書き終わったなら部活に行こう、香織が待ってる」


 古暮は嬉しそうに小さく頷いた。




 矢羽根シロには好きなものも嫌いなものもごく一部の例外を除いてほとんどない。


 そしてその例外的な感情を向ける相手が、植物だ。


「……」

「し、シロ兄ぃ……あの、シロ兄ぃ?」


 花壇に向かって水を掛けているだけでやたら楽しそうなのだから幸せだ。そのせいで周りは話しかけるにも語調に申し訳なさがにじみ出る。


「シロ兄ぃってば!」

「え、何?」

「その顔やめて」

「……」


 シロは自分の顔に手を伸ばす。笑みの形に口元が歪んでいた。


「自覚ないのかもしれないけど、シロ兄ぃ一人で植木いじってる時かなり気持ち悪いよ」

「……そうなんだ」


 実際、自覚はなかったようなので半ば唖然としていた。


「昔からだよね」

「そうだっけ」


 本人は忘れているようだが香織同様、おれも覚えている。シロはたしかに植物と向き合っている間、傍から見れば薄気味悪いほどにニヤニヤとしていた。今もその癖は治っていないらしい。


「けど懐かしいな。たぶんシロ兄ぃはもう、あの場所に行くことはないんだよね」

「そうだね。子どもの時以来、行ってないけど」


 それは昔の奴らの遊び場。誰にも秘密で三人だけが知っていた。


「でもどうしてあそこで遊ばなくなったんだっけね」

「あれ、シロ兄ぃ覚えてないの」


 シロは首を傾げた。おれも内心で訝しむ。


「今の時期はちょうど楽しいことがあるかもだから、いつか気が向いたら行ってみなよ」


 香織は隠し事を嬉しがるように、踵を翻した。取り残されたシロはしばし呆然としたあと、まぁいいかと肩をすくめて再び目の前のアカシアに水をやる。


 しばらくして。


「だからシロ兄ぃ、顔ってば」

「……痛いひょ。香織」


 引っ張られて振り向き、目が合えば笑いながら離される。赤くなってしまった頬をシロは自覚なさそうに撫でた。


「……もうこっちは良いから、図書室裏に行ってちょうだい」


 腕組みしたまま、空のじょうろを下げて香織は困ったように言った。


「でももう少しなんだけど」

「私がやるから、というかシロ兄ぃ気付いてる? さっきから下校する子たちに変な目で見られてるよ」

「……」

「土いじってる時の顔、もう少しで良いから何とかしなよね」


 そんな声を背中に浴びながら、大人しく図書室の裏まで回る。


「また香織じゃなく、あんたか」

「やぁ、バネさんも早くおいで」


 そこで先に作業を始めていたのは古暮と真尻だった。


 珍しい取り合わせだと思ったが、それ以上に真尻の手にしている物の方が奇妙だった。


 ビニール袋に割り箸。


「……何やってるの?」

「毛虫取り」


 と箸につまんだそれを振ってみせた。バネさんの分もあるよ、と置かれた割り箸を指差す。


 奴にしてみれば虫は好きでも嫌いでもない。が、植木にたかる限りシロには排除の理由が与えられる。割り箸を割りながら、彼女らから少し離れた場所にしゃがむ。葉と葉の間に隠れた標的を毟ってはビニール袋に入れていく。


「……女子って意外と平気なの」

「ややっ、グレっちは無理だからアブラムシ係」

「あぁ、霧吹き」


 彼女は白濁色の霧吹きを持参していた。その中身は牛乳を薄めたもので、これが存外アブラムシによく効く。


「正直アブラムシでも見るのさえキツいの」

「……無理しないで」


 真尻は首を傾げた。


「そんなにキツいかな。見てると痒いけど、それだけじゃない?」

「ちまちま群がってるのが嫌。いっそ枝ごと燃やさない?」


 過激な上に本末転倒だと、その場にいた全員が思った。言い訳気味に続ける。


「憎いからね」


 苦笑しつつ、話を変える意図で真尻が口を開いた。


「そういえば、また殴打魔が出たらしいね」


 おれはその話題にふと真顔になる。シロや古暮も同様だったようだ。されどシロの方はあえて振り向くことをせず、手元の作業に戻る。


「近く?」

「そこそこかな、深夜の散歩に出ようとしたところをだって」

「不用心ね」

「まぁ、男だからって油断してたんじゃない?」


 それで打ち切りになりそうだった話題を、しかし古暮が続ける。


「それって、朝刊に載っていたの?」

「え? ううん。休んでる友達のお兄さんが殴られたとかって」

「その子、紹介してもらえたりしない?」

「……別に良いけど、グレっち。どうして?」


 少し面白いものを見るような目で真尻は尋ねた。


「桐花は知らないか。私ね、じつは探偵癖があるの」


 聞き慣れてしまった単語に、シロは再開していた作業の手を止めた。何度も聞き流していたが、たしかに彼女の首を突っ込みたがる気性は異質だ。探偵癖。言い得て妙だと思ったらしい。


 彼女らは会話を続ける。


「ほうほう、それで?」

「私が殴打魔を捕まえられないかって」

「へぇ……そりゃまた、物騒だなぁ」


 真尻は尋ね返してしまったことを後悔するかのように苦笑いした。一方でシロは、道理で先ほど自分が詰められていたわけだと得心する。古暮の関心はシロそのものよりむしろ殴打魔の方にあったわけだ。


「でもまぁ、紹介自体ならしますわ。明日とかに期待しといて」

「ありがとう」

「……あ」


 結局、口を挟む間もないままに傍で盗み聞きするような形になってしまったシロは、それを見付けて思わず声をあげてしまう。古暮と真尻が振り返る。


「煙草」奴が指差した先。花壇の内側には吸い殻が落ちていた。

「妙だね、高校は全面禁煙なのに。あとここは図書室の真裏だから休み時間でも司書さんに見られかねないのに」

「用務員か工事の人たちじゃない」


 古暮の言葉に、シロは首を傾げながら頭上を眺めた。図書室の階上の何処かの窓から投げ捨てたかと見上げたけど、そこに目立つ窓はなかった。屋上からかもしれないと、肩をすくめる。


 花壇に捨てられた見知らぬ不良生徒の吸い殻を拾いながら、一方で彼は漠然と思っていた。クロが捕まってそれがぼくの兄だと知られたら困ったことになりそうだな、と。


 おれも似たようなことを考えていた。この物語に名探偵は必要ないと思うがな、と。


 この女、邪魔だな、と。珍しく二人の感想が一致する。




 帰り道で香織にさり気なく尋ねてみた。


「いーくんの探偵癖? あれたぶん、本気だよ」


 何を今更といった具合に返されて、シロは呆れる。


「周りは危ないから止めようとか言わないの」

「あれで強いからね、いーくん」


 鞄を持ってない手の方で宙に拳を出してみせる。何らかの武術を表しているつもりらしいけど、それが何かさっぱりわからなかった。


「にしてもさ……」

「それにたぶん、周りが何言っても止まらないよ」


 少し諦めたような声音だった。


「あの子、捕まえるって言ったんでしょ? 警察に突き出すじゃなくて」

「……たしかそう」


 だからどうしたと言うのだろうとシロが考えていると、香織は呆れたように視線を逸らした。


「たぶん捕まえたらそのまま、いーくんが必要十分と思えるだけの罰を与えてから見逃しちゃうつもりだよ」

「……ほう」


 彼女こそがこの街の法律だったのかと、シロは宙を見上げる。曇り空だった。


「ハンムラビ法典に憧れてるから」

「まだ若いのに、やたら古めかしい法律を順守してるね」

「綾宮くん、ヤバいかもね」

「……」


 危うく歩調を乱すところだったシロは、すんでのところで平静を装った。むしろその方が怪しくないかとはおれの意見。


「殴打魔の話じゃなかったのか?」

「だから、綾宮くんの話じゃないの?」

「さぁ、違うんじゃない?」

「そっか」


 互いに視線を交わさないまま、話を変えるように香織が言った。


「そういえば、いーくんまた焼くとか言ってた?」

「毛虫? 言ってたな。いつもなんだ……」

「シロ兄ぃ、どう思う?」

「過激だなって」

「でも、結局。今日シロ兄ぃたちが集めた毛虫もゴミに捨てちゃうから最後には燃えるんだよ」

「そうだけど……」


 話は変わったつもりだった。でもそれはシロの方だけだったのかもしれない。


「なら、捕まった時点で燃やしてあげる方が優しさじゃないかな」

「……そうかな? 逃してやる方が余程わかりやすく直接的に優しさだと思うけど」

「でもそんなことしたら、私たちの花壇の葉っぱは穴だらけになって、最後には枯れてしまう」

「なら、別の場所に逃がしてやるとか」

「逃がした先で、別の花を傷付けるかもしれない。それに、もう食べられてしまった葉っぱの持ち主は怒ると思うよ。毛虫を憎んでると思うもの」

「……」


 何の話なのかすでにわかっていて、シロは黙りこんでしまう。


「見せしめが必要なんだよ」


 香織はどこか遠くを見ながら薄笑いに呟いた。


 居た堪れないまま、それでも香織が憎み続ける存在を許してやって欲しくて続けた。


「それでも……毛虫だって、いつかは蝶になるんだけどな」

「たしかにそうだね、蝶は綺麗だよね。もしかしたら私たちが育てようとしたお花より、綺麗かもしれない」


 彼女にとっての毛虫は綾宮クロなんかじゃない。


 彼女が憎み続ける相手は、彼女自身だった。


「だからね、もっと残酷な方法で燃やすの。罪を裁かなければいけないの」

「……」

「罪を犯したその時点で燃やして罰するなんて優しすぎるよ。だってただ死ぬだけだよね、そんなの。本当に憎むべき相手を罰するのに、ただ殺すなんて生ぬるくて優しすぎるよ。だからもし本気で相手を後悔させるような罰を与えるなら、その毛虫が蛹になるまで待って、あと少しで蝶へと生まれ変わって幸せになれるってところを、ライターで炙るんだ。教訓なんて何もないし更生なんてする余地もないほどに。真っ黒に縮んで内側から火を噴いてのたうち回ることもできないまま、灰になるまで何度も火を点けるの」


 そうやって、きっと。私は綾宮クロに殺される。


「……」


 夕刻は過ぎて、秋陽に放課後は短すぎる。すっかり暗くなってしまって互いの顔さえ見えないままに、いつの間にか脚を止めたシロを香織は振り返った。彼女がおれによく向ける、目元は泣きそうに口元だけが歪んだあの薄汚い笑みだった。


「いーくんは殴打魔を捕まえて、結果的に私を守ってくれるはずだよ。だからシロ兄ぃは、安心して綾宮くんを守っていれば良いんじゃないかな」


 そして駆け寄ってきて、シロの手を取りいつもの笑みを作り直した。


「帰ろう、シロ兄ぃ」




 おれはその日の晩も、自室で手紙を書いていた。


 今日は瑠璃華を訪れる用事もない。貨物車の線路を走る音が秋虫の鳴き声に混じり、雲ひとつない夜空を小刻みに揺らす。本棚ばかりで机さえないこの部屋でも、手紙くらいなら書ける。高めの本棚を机代わりに。低めのそれを椅子代わりに。いつか読んだアメリカの喜劇小説の主人公は、叔父から受け継いだみっしりと本が詰まる箱をベッド代わりにまで使っていたが、似たようなものだろう。あまりに静かで、身動ぎすればわずかに血の臭いがしそうなほどに穏やかな夜だった。


 手紙。この世界に生まれた手紙のうちの一部は届くべき相手にたどり着かないまま、宛先不明で郵便局に溜め置かれる。戦死体のように袋詰にされて役割を果たすこともせず誰に開封されることも埋葬されることもないまま少しずつ腐っていく。


 想いの証し。


 いや、ひょっとしたら郵便局に務める人間も少しは頭を使うのかもしれない。紙束を放置し続けて梅雨時にカビの温床を野放してしまうのも、何かのきっかけで受け取りに来るだろう人を早々に諦め捨ててしまうのも忍びないくらいのことは、思うのかもしれない。




 手紙はヤギの餌です。


 街で一番大きな郵便局には、必ず一頭のヤギが飼われています。地下室の柱に鎖で繋がれて、毎日届く腐りかけた宛先不明の手紙を食べることが彼の仕事です。それらはこんな味。


 些細なすれ違い。小さな言葉の不足。互いの捉え方の差。


 胸焼けになるほどそんな想いを喰らい尽くすヤギは、しかし一度も正しく届いた手紙を食べた経験がなく、ついでに言えば山に登ったこともありません。山の羊と呼ばれるにも関わらず。


 彼らの夢はいつか山に帰ることです。鎖から解き放たれ、いつか死んでしまった時にきちんと山の一部へと還るような場所でひっそりと暮らす。


 その夢はきっと、正しい想いの手紙を食べ続けていればいつか叶うのだろうと彼は信じています。役割を果たしきり、秘めたる想いが完璧に一から十まで余すところなく伝わった手紙。しかしそんな真っ当な手紙は郵便局の地下までは届きません。ひょっとしたら、正しい言葉で書かれた手紙なんて代物はこの世界の何処にもないのかもしれません。なればこそ彼の夢はきっと叶いません。


 めでたくなしめでたくなし。




「……」


 おれは暴力が好きだ。それは自身とこの世界の関係を一瞬で変えてしまう。跡形もなく、されど何かが残る形で。統制された無秩序。誰にも制御され得ず、されどだからこそ誰もがその動きを予測し利用することができる。極限に乱雑な部屋は整理された部屋と見分けがつかなくなる。


 きっと心の繊細さに比して、現実はあまりにも解像度が低いのだろう。だから人は単純すぎて見えない未来の不安とゴミゴミとした過去の不満で簡単に心を病めて幻想に逃げ込む。


 おれは自身と世界との関係性を見失ってから、どれほどの時間が経ってしまったのかわからない。現在に地続きの記憶。それを手元から辿れば、おれは気付いた時にはすでにこの部屋にいた。


 されどその時からすでにおれは綾宮クロで、歯崎瑠璃華と付き合いがあった。おれがふらふらと何かに引き寄せられたかのように辿り着いたあの公園で、奴は初めて会ったつもりのおれに生きてたんだと尋ねて一頻り、前触れのない馬鹿笑いをした。それ以来バイトとして雇われ続けている。


 学校に通い始めたのはつい最近。シロがこの街に戻って来てからだ。


 だからたぶん矢羽根香織を憎み始めたのはこの記憶の続く地点よりずっと前の過去。


「……」


 振り返った。ここは綾宮家のクロの自室。そして元はシロの部屋。


 思い浮かぶ光景。記憶。血塗れの。


 おれはこの部屋の中央で包丁を片手に立ち尽くす。シロは泣きじゃくっていた。


 おれが殺したのはシロの両親だった。


 おれと血が繋がる方の一人は天井を睨んだまま魚のようにぴくぴくと唇の端を震わせていた。シロの新しい父親だったのかもわからない男は自分で吐いたアルコール臭い吐瀉物に顔を埋め、床を掻きむしって剥がれた爪に指し囲まれるように死んでいた。


 たった一年前の過去なのに、そんな悲劇は一度もなかったとでも言いたげなほどの清潔さでこの部屋は片付けられて、ただ時のなすがまま埃を積もらせていく。すべてが遠くなって忘れ去られる。


 おれは手紙を書いていた。書いている。書き続けるだろう。


 誰に届くとも知れない。ヤギの餌。


 そして地獄を忘れるなと結ぶ。忘れているのはおれの方なのに。それでも過去が忘れ去られることを許せない衝動だけはおれの存在を支える感触がある。


 おれは便箋を畳み、封筒に入れて糊で封をする。宛先を書く段になって、急に呼吸が苦しくなって机の上に放り出す。


 十七通。それが宛名のない封筒の数だ。おれは新たな便箋に手を伸ばした。


 そうやって今夜も朝が来る。机に積まれた届かない手紙がまたひとつ増える。

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