7.裏街道、殴

 ぼくはクロがわからない。


 彼には深夜、ふらりと徘徊をする癖があるらしい。終電もなくなる頃、彼は家を出て何処かへと向かっているらしかった。というのもぼくは途中までまったく行き先の見当がつかず、ある程度の道程を経るまでは現在地も怪しいほどだったのだ。


 しかし見たことのある道に出てみれば、予見される目的地のそこは彼にとっては行き慣れた場所で、ぼくにはあまり馴染みのない場所だった。やがて彼は予想した通りの経路を辿って、街の中心地へとたどり着く。


 県立公園。聞いた話では、五年前の県議が予算と保有地を使い込むことで、県民の憩いの場へと生まれ変わるはずだったこの場所は、遊具禁止、ボール遊び禁止、移動販売禁止などに始まる様々な大人の理想が積み重なって、子連れもカップルも集わないただの死に施設となりつつあるらしき、何事も押し付けすぎると上手くいかないという教訓の好例スポットだった。


 されどそんな土地と金の無駄遣いに感謝し、役所には足を向けて寝られないと思っているかもしれない人々もいるのだから、そう報われないものでもない。かもしれない。


 県民の戸籍が売り飛ばされて酒代に変わってないかは別にしても。彼らが県内の住民であることには違いない。


 クロが向かったのはそんな自宅がエコな青テント列から離れた場所にあるひとつ。


 しかしそこには目当ての人物がいなかったらしく辺りを見回して、少しうろつく。


 奇妙な声を聞いた。


「……うぇ、うぉぇん……んぅぇ」


 声のする方へと近寄ると、探していた人影があった。


「お、クロちむじゃん。おはよ」

「……はよ」


 その女子校生は上へと伸びる縄を背負うように引いていて、木の枝にかけられた反対の端で男がこちらに背を向ける形でぶら下がっていた。


「うぉおえん……がげっ、ぎょぎょぎょ」


 先ほどから聞こえていた南国鳥のような声の正体はこの男のものだったらしい。


「何してるんだ」

「見てわからないかな? 彼が首吊るのを手伝ってるの」


 そう言いながら体重をかけて縄を引けば、スーツを着た男が吊り上がり、つま先立ちするパイプ椅子がきしみを上げた。


「きょ、…………なむ……」

「あ、ヤバ。死んじゃう」


 途端、縄を手放し。男が椅子ごと転げ落ちて倒れこみ、そのままひゅーひゅーと咳き込む。


 しばらく眺めていると、肺病のような咳を続けながら立ち上がる。顔は真っ赤だったし涙目だったが見た目ほどに酸欠は酷くないらしく、失禁したスーツの尻ポケットから財布を取り出し、抜き取った紙幣を彼女に渡した。


「……ありひゃとう、ごひゃいまひた」


 何故かクロの方にも会釈して、ふらふらと公園の向こうに出て行く。


「何だあれ」

「たまに頼まれるの。仕事がキツいらしくて」

「……それでどうしてお前が縄を引いてるんだ?」

「一人でやると本当に死んじゃうからって……ほら瑠璃華ちゃん、こういうギリギリ見極めるの得意じゃん」

「……」


 それ以上詳しく訊く気にもならず、場所を移動して彼女のテントに戻る。


 公園の北区林間にたった一棟だけが群れを外れてぽつねんと建っている。改めて見てみれば、テントの家主たる彼女はそのテント以上に除け者らしい格好をしていた。


 ホームレス女子高生。いや、表記上はやはり女子校生が正しいのだろう。そんなタイトルでアダルティ方面に映像化されそうな彼女は、何処の学校のものかもわからない制服をまとったまま。ランタンを近場の枝にかけ、地べたにまんま置かれた車用シートへともたれ込んだ。


 そして自身の所有物を観察するかのように、クロを眺め渡した。


 歯崎瑠璃華。クロの現雇い主にして、元同棲相手でもある。


「どうよ久々の高校生活は。クロちん最近、また通ってるんでしょ?」


 ニッと相好を崩し、少し馬鹿にしたような口ぶりだった。クロは微妙に気分を害する。


「お前も制服を私服にしてるくせに」

「瑠璃華ちゃんのは趣味だしぃ」


 趣味というより詐欺だとは、クロの心中。


「知ってるかね、これを。レアな女子校のブレザータイプなんだけど、なかなか出回らなくてさ」


 聞いてないけど、と。これはぼくの心中。というか本当に女子校生(ただし服だけ)だったのか。


「んなことより、仕事行こう」

「えぇー、デートしようよ」

「補導されるっての」


 続けてぶぅ垂れる彼女を置いて、クロはさっさと繁華街の方向に歩き出す。


 制服のままついて来ようとするので、押し返して着替えさせるまでが毎度のお約束らしい。仲の良いことで。




 どんな街であれ表通りが栄えれば栄えるほど、裏通りの風景は凄惨なものになる。


 この街も例外ではなく、特に国籍を持たない出稼ぎの人間ばかりが吹き溜まる横丁まで彼らが出て行けば、集合住宅のベランダから汚物と見紛う洗濯物が干されており、ビルの裏口では新聞紙の上で薄着の女が死体のように眠っていた。


「見ちゃいけません」

「……やめろ、前が見えん」


 眠る女のワンピースの端から覗く下着を見ていたら、目隠しをされた。


 あれで発情すると思われている不名誉にクロの眉が歪む。


「見たいなら言ってくれれば、瑠璃華ちゃんのを見せてあげるから」

「見たい」


 言ったら本当にスカートを捲って見せてくれた。黒。


 頭を抱えたくなる。


「やめてくれ、街中で」

「にひひ、満足?」

「はいはい」


 彼女の服装は、制服を着替えて再びテントから出た時から、胸の形が出るタートルニットにチェック地の膝丈スカート、頭にはキャスケットといった、あんなボロいテントの何処にそんな服を隠していたのかと問い詰めたくなる程度には今風の出で立ちだった。しかし生憎の童顔ゆえかこれでも未成年しか見えず、補導されないようクロは祈るばかりだった。


 違法建築を繰り返した構造のおかしなアパート群の隙間を縫って、階段を降りたり上がったりを繰り返してようやくたどり着いた一室の扉をノックもせずに開け放つ。


「ヨーマさん、いるぅ?」


 間延びした声で暗がりに尋ねながらずかずかと奥に入り込む。


 布団らしき布の隙間から黒人の女が仏頂面を突き出し、こちらを確認するとあくびをしてから片言の発音で返事した。


「あんたか」

「何かいいのある?」

「ハリカエ十人月と、ハコビ四人」

「ぜんぶ買いたいな。張り替えの方は明日トラックで来るから」


 彼らは椅子を勧められたが、クロだけは仕事中だからと断り、瑠璃華の隣に立つ。向こうの女はベッドに半ば寝転がったまま腰掛け、彼女らの交渉が始まる。


 瑠璃華の仕事は、つまるところ裏稼業の求人紹介だ。特に上がりが少なくてヤクザやマフィアが絡まない、されどハローワークには載せにくい一般受けの悪い職業を不法入国者にあてがっている。ちなみに聞いた限りでは張り替えとは、盗品として流れてきたブランド物の鞄や財布がそのまま古物として売られては足が付くのを、手作業で識別番号から消したり書き換えたりする作業に当たるらしい。出所不明となったそれらはダミーの通販サイトやオークションサイトに流される。


 それから瑠璃華は運びと呼ばれた四人の年齢や見てくれなどについて仔細に尋ねて、女の方は机の上の何語で書かれてるかわからない紙束を読み上げた。メモを取る動作もなかったけれど、すべてその場で覚えたらしい。


「うーん、あからさまな外国人はなぁ……」

「捕まればイッパツ帰国だから」

「里帰りはまずいよねぇ」


 プロであればともかく、素人外国人の挙動不審は簡単に職質を食らう。また変装にも金がかかり語学力にも不安があるとなると、違法物品の運び屋はまずできまい。瑠璃華は首をひねっていた。


 一方でその間、完全に目が覚めたらしい女は台所に立ち、彼らにも茶はいるかと尋ねた。クロは湯気の上がるカップを受け取った。妙な臭いがして、警戒しつつ飲み下したが、ハッカ系の爽やかさが喉元にあって存外気に入った。


「安いけど、サクラとか。カメラの端にモザイク掛けられて映るだけ」

「これはやるね」一枚の写真を指す。「しかしガイジンで良いのか?」

「肌は黄色でしょ、まぁ何とかなる」


 じゃあ決まり、と携帯を取り出し暗記している番号を打った。電話帳に記録するなんて愚かな真似を瑠璃華はしない。


 電話の向こうと人のやり取りの話をしてから切る。履歴もすぐに消す。三分程度。


「あとは復讐屋の電話係かな」

「どいつも日本語は喋れないが」

「喋らなくていい電話よ。数字は打てるでしょ」


 またどこか電話番号を空打ちに電話して、今度紹介された人を連れて行くという話をして切る。先ほどとは別の携帯だった。


 しかしその電話を終えた時、彼女にしては珍しく一枚の書面を片手に眉をひそめた。


「この人はちょっと厳しいな。もうちょっと条件下げるか、マフィアに行くよう伝えて」

「したらばこいつマフィア行くよ。来月までに大きな金が必要なんだ」


 と、最後の一人の顔写真を指差す。


「身体を売る気はないの?」

「わからない。あるかもしれない」

「確認して。試薬かカクテルドラッグの検体くらいならあるから。じゃなければ田舎で農作業。まぁ土いじりだろうね」


 それで交渉は終わりらしく、瑠璃華は茶を飲み干す時間さえ惜しむかのように席を立つ。黒い女の方も彼女の忙しなさには慣れたもので、机の上を片しながら、思い出したようにクロの方を見た。


「美味かったか」

「鼻がむずむずしました」


 はははと笑われ、背中をばしばし叩かれた。




 来た時と同じように宙をのたくる廊下を行ったり来たりして、飲み屋街まで戻る。


 そこから今度はビル街の裏通り。業務内容の得体がしれない事務所がいくつも名前を連ねるテナントの間を歩いていた。


 やがて瑠璃華はひとつのビルの前で足を止める。


「あれ、ここなのか?」クロも遅れて立ち止まる。

「ここっすよ。卸した次は仕入れるの」


 今度は無遠慮に入っていくこともせずノックから始まり応接机に通されて、柔らかな座椅子の上で背筋を伸ばす。相変わらずクロは背後に立ち、どうしてかこんな深夜まで仕事をしていたらしきスーツ姿の男と話をする瑠璃華の安全を図る。時たま剣呑な目をして苛立たしげにクロを睨むので、視線で刺し返す必要があることを除けば、至って普通の会社員らしき日本人と書類のやり取りをする。もっとも、瑠璃華の方は手ぶらで手渡される紙に目を通しては返すを繰り返していただけだったのだが。数分ほどのやり取りで用は済んだらしくこちらもさっさと出て行く。


 同様にビルを数件回る。


 その次に彼らが向かったのは倉庫らしき大きなシャッターを持つ建物脇のプレハブ小屋。そこで待っていた作業服の男と話をする。こちらも日本人らしいが、口調の片隅に方言が残っていて身振り手振りも何処となく粗野だった。


「そっちの、がたい良い兄ちゃんも畑やらないか?」


 故意に交渉内容を聞き流していたクロが尋ねられる。


「農作業、ですか」

「稼ぎはいいぞ。変な草とか妙な花を育てるだけ」

「やめなよクロちんに声掛けんの。そも県外に泊まりでしょ」

「この前あんたが紹介してくれた兄ちゃんも良さげだったが」

「もうたくさん回してるでしょ。この子は違うから」

「しかし、もったいないなぁ……本当にやらないか?」


 男はやけにしつこく食い下がった。


「あ」

「何なら出来高でボーナスもあるぞ。実際に結構もらってるのも――」


 クロは男を突き飛ばした。


 瞬間、彼の頭があった位置にガラス製の灰皿が振り下ろされ、勢い余って床に叩き付けられ粉々に割れる。


「……あはっ、ダメだってんじゃん。クロに声かけちゃ!」


 瑠璃華は人を殺し損ねて、なお笑っていた。それは殺されかけた向こうも同じだった。


「ははは、すまねぇな。いい身体を見ると、ついよ……だが」表情を歪める。「灰皿は弁償しろよ」

「えー、そっちが悪いくせに」


 どうやら彼らの間ではよくあることらしい。そこから一度笑いあって、脱力したクロの存在もすぐに忘れ去り、彼らは仕事と人のやり取りの話を熱心に続ける。


 また瑠璃華の方が電話をいくつかかけて用事は済み、事務所を出る。向こうも今日はそれで事務所を閉じるらしく、灯りを落として車に乗り込む。


「冗談じゃなく困ったらうち来いよ、兄ちゃん」

「こらぁ!」


 怒られて苦笑しながら、軽自動車は追い越していった。


「クロちぃの四、五人くらい、路頭に迷っても瑠璃華ちゃんが養えるし」


 自分は四人も五人もいないと心内で思いつつ気のない返事をして、猫パンチを食らう。


「そういえば訊こうと思っていたんだが、人ってのはいくらあれば消せるんだ?」


 そうクロが尋ねたのは、繁華街まで戻ってからのこと。どう見ても堅気に見えない男が高級車のトランクにぐったりとした様子の男を詰めて、自身は運転席へと乗り込むのを眺めながらのタイミングだった。


 振り返った瑠璃華は何でもないことであるかのように答えた。


「どんな相手かによるけど、まともに殺すなら五〇〇万くらいが相場じゃないかな」

「結構高いな」

「後腐れのないプロに頼むならね。たぶん今は中国人でもこのくらいだと思うよ」

「死体を消すなら?」

「自分で殺して? もっとキツいんじゃないかな、人集めて身内で片付けた方が気は楽だよ。ほらバラバラにして山に埋めたり、トイレに流したり、煮込んだりするの。あれが一番簡単で海にまるごと捨てるのは、いつか絶対浮いてくるからダメね」


 そしてたった今気付いたように振り返る。


「作る予定あるの?」

「ノーコメントで」

「むむぅ……やめといたほうがいいよ」


 クロが視線を向けると、彼女にしては珍しい作り笑いさえ浮かべていない真顔で見上げられていた。


「まさか説教されてる?」

「それこそまさか。違うよ、瑠璃華ちゃんが言いたいのは面倒くささの話」


 例えばねぇ、と彼女は首を傾げた。


「食べられない焼き肉15kgってすごいと思わない?」

「何の話だ?」

「犬の話だよ」

「……?」

「つまりね、大型犬を殺しただけで食べられない肉が15kgも出てくるの」

「犬は食べられるでしょ」

「例えの話なんだから気にしない。それでね、人間の死体は四頭分の犬が死んだくらいのゴミなのさ」

「ゴミか。しかも業者さえ引き取らない」

「そう。で、一頭を運ぶのも一苦労。つまり殺すことよりも隠すほうが大変って話」

「経験あるのか」

「滅多にやらないから、経験ってほどでもないけど」と顎に指を当てる。「去年くらいかな、あまり馴染みでもない高校生の男の子がやってきて、急にこれを処理してくれって言われてかなり苦労したんよ」


 その話にはぼくも思い当たる節があり、その場にいたら視線のひとつくらい逸したかもしれない。


 しかしぼくがこの会話を盗み聞きしていることを露知らない瑠璃華は、おしまいと結んだあと首を傾げて尋ねた。


「相手は女の子?」

「まぁ……」


 わかりやすくむくれる。


「……むぅ」


 それどころか黙ってられなかったようで、スカートを翻してローキックを叩き込んできた。


「何だよ……」


 痛くはないけど、正直鬱陶しいという顔でクロは尋ねた。


 唇を尖らせたまま、そっぽを向いた。


「殺されるくらいクロちむに愛されたいけど、殺されるまでは踏ん切りがつかなくて悔しい乙女心」


 隠れて嘆息し、しかし見つかって睨まれ、またローファーが膝裏に当たる。


「あ、それよかさ」と、蹴りを止めて彼女は笑いかけた。「もうお仕事終わりだし、遊びに行こうよ」

「その童顔だと何処行っても通報されるっての」

「にひひ、そんなんじゃないって、わかってるくせに」


 わかっていた。クロは頬をかきつつそっぽを向く。


 残酷なことするぞぉ、と彼女は宣言した。




 彼らはまず使う道具を探した。


 住宅街を外れて建設中の敷地に入り込めば資材くらい簡単に拝借できる。しかし彼らの用事にとって都合のいい、体格に見合ったちょうどいい大きさのものとなると、手元がささくれていたり振り回せないほど重かったりでいくらか選別を必要とした。


 しかし最後には理想的な大きさのエレキギターを、廃墟に放り込まれた不法投棄物の中から手に入れた。


 瑠璃華は何度か素振りして、満足そうに頷いた。しかし別段自分で運ぼうという意図もないらしく。


「はい」


 クロに手渡す。


「……どうも」


 受け取ったクロは釈然としない物を感じながら、彼女が選んだそれを肩にかけた。


 そこからひとつも角を曲がらない辺りで、こんな深夜にコンビニへとでも行こうとしていたのか、自転車の鍵を外すためにしゃがむ男を見つけた。今日はあれね、と瑠璃華が指差す。頷きを返しながら周りをさっと見渡して人目がないことを確認。瑠璃華が追いつくのも待たずに駆け寄って行き。


 後頭部にギターを振り下ろす。


 瑠璃華はクロの背後でその様子をスマホ動画に収めながら、声を押し殺して笑っていた。


 自転車に突っ込む形で倒れこんだ男に、再度振り上げた楽器を不適切な方法で演奏する。肩の骨が折れた音がして、無造作に持ったネックの弦が手元で切れる。上から振り下ろすのでは思ったより体重が乗らないと気付いたクロは、横薙ぎに遠心力を乗せて背中の肋骨を叩き割った。倒れた自転車を迂回して、仰向けに後退りを空振る男の顔面にギターの表側をブリッジごと打ち込む。


 やがて男は脳震盪を起こしたのか白目を剥いてふらつくように背を地面につき、動かなくなった。


「瑠璃華ちゃんにも一発やらせてよ」


 スマホをしまった瑠璃華は張り付いた笑顔を解すかのように、頬をこねていた。


「……やめとけよ」


 しかし瑠璃華はその言葉も聴かず、ほとんど壊れかけた血塗れのギターをクロの手から奪っていった。彼女が持った途端、ネックが折れた。


 それでも瑠璃華は振りかぶって、気絶した男の口内にギターの側面を埋め込む作業に勤しみ始めた。一発どころではなかった。


 さて今更、言う必要もないことだとは思うけど。


 殴打魔の正体はクロと瑠璃華だった。


 だからどうしたと言いたいわけではなく、結局、ぼくを襲ったのも殴打魔カウントで正しかったらしいというくらい。


 やがてこれ以上は死ぬかもと瑠璃華は手を止め、彼らは撤収した。引き際の見極めはさすがに見事で、親切にも帰り道の途中で公衆電話から救急車を呼ぶ。


「楽しかったね、クロ」


 緑色の受話器を置いた彼女に微笑まれて、無表情で返す。


 が、そのまま瑠璃華にじっと見つめられていることに気付き、首をひねった。


「何だよ」

「何か思い出した?」

「……いや」


 向こうは目に見えて残念そうに微笑んだ。


「まぁそっか、まだ足りないよね」


 クロは自分が何かを忘れているのかと思うけれど、思い出せない。


「大丈夫だよ、クロちむは瑠璃華ちゃんが守るから」


 ほらこれ、と彼女が差し出したのは男物の財布。


「さっき拾ったやつ。と、あと今日のボディガ代も足しとくね」


 中から紙幣をあるだけ取り出して、そこに自身の懐からいくらか足してクロに渡した。


 それが一人で空き家に暮らすクロの生活費だった。握りしめてポケットに突っ込む。


「帰る」

「えぇ、もう帰っちゃうの」


 一転して残念そうな声が出てくる。


「明日も学校だし」

「って、前から言ってるけど、瑠璃華ちゃんのとこから通えば?」

「断る。寝てると襲ってくるだろ」

「いいじゃん、めっちゃエッチぃことしようぜ」

「やだよ」

「うー……どうしてあんな誰もいない家に帰るかな」

「最近はやることがあって」


 瑠璃華は首を傾げた。


「一人で? 何してるの……あ、ナニしてるの?」

「手紙を書いてる」

「はぁ?」


 素で呆れたような声が返って来て、クロは久々に小さく口元で笑った。


「もう……あんまり馬鹿なこと言わないでよ」


 しかしまったく信用されていないらしい。


「で、読ませる相手いるの?」

「いるよ」

「……また女の子?」


 また少し不機嫌そうな瑠璃華に、苦笑しつつ端的に答える。


「弟」


 元が抜けているなと、ぼくは笑った。

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