4.マンソン。平家物語

 ぼくは綾宮クロを知っている。


 ぼくの腕を折り損ねた夜。彼は一人、明かりも付けないまま自身の部屋に寝転がっていた。人のこと言えたものではないけど彼の部屋もいい加減に殺風景で、ぼくの部屋と違って、こちらは物が少ないというより明らかに足りないにも関わらず、足の踏み場もないほどに雑然としているがゆえ、人が住んでいるという事実への違和感が湧き上がる。


 ちなみに折り損ねたというのは某妹への配慮込みの虚偽申告、ってわけでもない。香織に隠した凶器がどれほどの硬度だったかは知らないけれど、医者に見せたぼくの腕には幸いひびひとつ入っておらず、たぶんあれでもクロは手加減してくれたんじゃないかなとぼくは思っていた。湿布ひとつで処置を済まされた挙句、妹に付き添われて診察室から出てくるという何だかなぁな光景の一パーツとしてその構成に貢献しておきながら、のんき極まりなく当事者意識さえも地面すれすれだとは自分でも思うけれども。あるいはクロにとって憎みきれるだけの取っ掛かりが、ぼくという存在に足りなかったか。


 ところで以下、病院でのやり取り。


「たしかに先月、ぼくはこの口から部活にでも所属して汗を流せと言ったけど、骨を折るまでやれとは言ってなかったつもり」

「歓迎会が厳しくて」

「もしかして歓迎されてないのでは」

「……やめてください。架空の話のはずなのに、ちょっとヘコみましたよ」

「陥没はしてない」

「腕の骨が陥没してたら怖いですね」

「そういえばどうして外傷を負って、精神科に駆け込んでいる?」

「妹に引きずり込まれました。顔見知り以外信用できないってことでしょうね」

「なるほど、そっちがぼくの患者か」

「失礼な。左腕が折れたと言っているのに彼女から見て右の腕を引っ掴んでぼくをここまで連れて来てくれた妹の頭がパッパラパーだとでも言うつもりですか」

「なんだ両方か」

「そろそろ真面目な話しませんか、先生」

「ハシゴ外すの上手ね、君。というかなるほど、彼の話をしに来たのか」

「普通に来ると妹が変に心配しますからね」

「別に彼は病気でもないんだけど……」

「妹を撲殺しようとしたんですよ?」

「殺意は疾患じゃないから、この場合、君が頼るべきは警察だね」

「でも――」

「そういえば、この付近では無差別に人を殴るのが流行っているらしいね。何か知ってるかな?」

「どどどうしてぼくに尋ねますか、もももちろん初耳です」

「君のように腕で済まなくて下半身や脳機能に麻痺を残した人もいる」

「……」ツッコめよ。

「誰か死ぬか、誰か捕まるか。どちらにしろ時間の問題だ」

「クロが犯人だと?」

「逮捕されるのが心苦しいか? それで手遅れになるのはもっと困るんじゃない」

「……どうにかなりませんか」

「一度助けたからと、ネコ型ロボット扱いされても困る」

「………………」過剰な自己評価だな、おい。


 とまぁ、巫山戯た会話だったとはいえ、耳に痛いものがなかったわけでもないので。


 いやなきおくをでりぃとしますか?


 はい。


 おきのどくですがぼうけんのしょ13ばんはきえてしまいました。


 あなたは主人公の道を渋々諦めて、地の文を終身の職とする決意をしました。してください。しましたね。


 ようこそ、こちら側へ。


 以上、どうでもいい回想終わり。さて、お仕事の時間だ。地の文でクロのお話だ。


 今、彼が寝転がるその空間は物が少ないというより足りないにも関わらず、多少の散らかり具合を幾月跨いで許す彼自身の部屋だった。信じられないことに、その場所には机と本棚以外の一切の家具がなく、それでも収まりきらずに床に平積みされた蔵書のタイトルらはぼくが見てもわからないほどの難しさ。


 ……読書苦手なんだよね、ぼく。


 それはともかく、タンスのたぐいもなく無造作に脱ぎ散らかした衣類の散らばる床の上。開け放した窓の向こうは大きな線路と川べりが近く、車速独特の振動をクロは背中越しに感じていたに違いない。


 時は十九時前。夕闇の残り香が空の端にしがみつく、一家団欒な晩御飯にちょうどよい時分。されど静寂に沈んだその屋内が他者の動きにかき乱されることはない。


 一人暮らし、と説明できればどんなに気が楽か。


 実際は彼の現状を精密に把握させようと試みるなら、もう少しだけ複雑な説明を要する。とある事情の所以で、彼の家には両親が不在だ。そう、ちょうど一年前のあの日から。この部屋に明かりが点けられていないのも、この部屋に限らず家中すべての蛍光灯が外されているからだし、開け放した窓から漏れる気の早い街灯の照らしで彼の部屋、もとい室内を傾注の上に精査してみれば、ミリ単位の層を成す埃も視認できる。


 それでもクロはここに住み続けていた。


「……」


 住処に次いで、彼自身を一言で紹介しようとすれば、憎悪という文字を当てることになるだろう。これはまだ少年と称して良いはずの彼自身の年齢に比較してみると、ちょっとしたものだと思われる。ぼくなんか彼と同い年で十七だけど、そも一言で表せるほどの個性を持たないし、無理くりにそのたぐいを探したところで静寂とか謙虚とか、虚弱とか。精々そのあたりと思うのだけれど。


 憎悪。


 傍から見ていてさえ痛ましいほどに、彼は多くのものを憎んでいた。その範囲は多岐にわたり、好きなものは存在した過去さえすでに思い出せない。しかしぼくの観察するところ、取り分け彼が最も激しく嫌悪していたのは、誰からも愛されるべき、善良なる無垢だった。


 それは世界そのものを敵に回しかねない拒絶だった。


「……」


 季節は仲秋。陽がすっかり暮れきってから水音にわずかな虫の声が混じり、やがて勝る。明かりのない室内を照らす紫紅の夕雲。網戸越しの喧騒に、彼はひょっとして疎外感など覚えたりしないのだろうか。例えばぼくはこういう情景に弱い。どこまでも取り残されて誰にも救い上げてもらえないような孤独感。


 ありたい自分を使って世界と関わるのは本当に怖いことだと思い出す。


 そんな折、ぼくはもっと他人に同化しようと心に改める。誰にも気にかけられないほどの無個性にして非接触。波風のない冷たい砂浜で腐らないままに凍る猫の死体のような生き方。誰の隣にでも存在しながら、一昨日の記憶風景にも取っ掛かりなく忘却の彼方。それこそがぼくの望む自身のあり方で、いつか彼らの側に回ってこちら側に取り残される者どもを嘲笑ってやろうという、腐りきった性根の裏返しだろうとは思う。そして無論その時、彼岸にクロは立っているのだろう。持て余す憎悪を疑いさえせず、冷笑するこちらを気にもかけないまま。あるがままにあるのだろう。羨ましい。


 されど羨ましいという名前の感情は彼の方こそが馴染み深いのだと思う。彼はそういう風に作られたのだから。彼の憎しみは自分が持たないからこそのそれであり、自分が劣らないものには、彼だって憎悪より先に憐憫や同族意識が湧き上がり、その同情や親愛こそが彼の手元を狂わせるはずだ。


 今日、ぼくの腕を折り損ねたように。


 そうこう考えているうちに、こちらの落ち込みも知らない彼は軽く勢いを付けて床から立ち上がった。よし、と一声出して。階下へと降りていく。


 さて、どうもこの瞬間であったみたいだ。彼がぼくの妹を殺そうと決意したのは。


「刺殺、扼殺、毒殺、銃殺。いや」



 やはり撲殺か、と。呟いた。




 翌朝。明度の高い朝陽が散り散りに窓ガラスを反射し、今日一日の予定を思い出すように黒い瞳をそばめて電柱際に降り立ったカラス。誰も見送るもののない自宅に鍵をかけて、ため息混じりに首を鳴らしたクロは学校へと向かう。過酷な残暑をわずかに生き残った蝉の声も遠く、人とすれ違わない川沿いの草地を選んで歩く。風に乗るオイルの匂いに電車の橋を軋ませる音が乗り金属質な細やかさで響いてきた。


 ヘッドホンで人工的に周囲の音を遮断する。マリリン・マンソンは人間の美しさを皮肉に讃えていた。


 美しき人々よ。木を見過ぎていて森が見えていない。サイズ程度の話題で精一杯。


 最低な人々よ。人並みになりたいのなら猿相手によろしくするのはやめろよ。


 クロはやがて校門をくぐる。ヘッドホンを外して校庭の中央を突っ切らず。金木犀の揺れる校舎内渡り廊下を通って昇降口へと向かう。誰に話しかけることもないまま靴を履き替えて階段を登り教室へと至る途中、寄り道するかのように廊下の道中立ち止まり、右手の窓から校庭を眺めた。彼の眼下では、コの字型の校舎に囲われる形の中庭を生徒らが思い思いに固まって登校のために通り抜けていく。しかしクロが注視したのは校舎列の端でトタン板に囲われた、見慣れない空き地だった。何らかの新しい施設でもできる予定なのかもしれない。


 彼とて目に止まっただけで特に興味があったわけでもないらしくすぐに目を逸し、脚を進める。自身の教室にたどり着き、誰一人へとも目もくれず自席へ。突っ伏す。


 伸ばした手先を見ないままに、耳元からずれたヘッドホンへと手を伸ばしかける。そうして、その日も一日が過ぎ去ってくれるのをやり過ごすつもりだった。


「あの、綾宮くん」


 期待はたやすく瓦解する。


 億劫そうに持ち上げられた胡乱げな視線に臆することなく、わずかな憤りを見せて彼の前に立っていたのは矢羽根香織だった。


「昨日、私の兄を襲わなかった?」

「……」


 それは静かな戦いであった。誰も気付かないままに火蓋を切られた彼女ら二人にとってのその会話は、こんな日常の空間で行われるべき平穏さを欠片も有していなかった。しかし加えてぼくはこうも思うのだ。こんなこと言ってる場合じゃないんだろうけど。朝の喧騒に紛れて、周囲の誰もその会話に耳を傾けていなかったのは僥倖だった。


 むろん彼らにとってではなく、主にぼくにとって。当事者二人はそんなこと歯牙にも掛けないだろうけれど、この場合、最も体裁が悪いのは襲われておきながら妹に追求を任せる形になっているぼくだ。ちなみにこの場面。ちょうどぼくが席を外していた時分のことだった。


「別に」クロがようやく口を開く。視線を逸しもせず。

「でもシロ兄ぃが腕を痛めたって」

「おれを見たのか?」


 その問いに香織は悔しげに口をつぐむ。当然だ。クロは彼女に襲撃の過程を見られるなんて愚行を犯さない。


「シロ兄ぃを恨んでいる人なんて、あなたくらいしか」

「恨んでない」


 再び遮られて妹は苛立ちを滲ませる。口を開きかけて。


「おれはシロを恨んでなんていない。おれが憎んでいるのはお前だよ。矢羽根香織」

「……」


 すべてを悟って理解が浸透し、香織は却って穏やかに相手の言葉を飲み干した。


 何て顔だろうと、クロは笑った。


「シロを傷付けようとした? 違うよ、おれはお前の頭蓋を割ろうとしたんだ」


 周囲は誰も気付かない。変化した彼女の表情にさえ。


 いや、それは言い過ぎだ。二人のやり取りをその一人だけが見つめていた。


「自分の世界が綺麗なものだけで構成されていると頭から信じているような脳髄がかち割られるその際の発色を見てみたかったんだ」

「……………………うるさいな」


 何て顔だろうと、クロは再び笑った。


「次は成功させる」


 そのまま目の前の女を無視して、席を立つ。教室を抜ける。


「……」


 残されて空席の手前に立ち尽くし、香織は自身の口元が笑みに歪んでいるのをなぞった。


 その様子を、一部始終見られていたことに気付いて。


「大丈夫だよ、いーくん」


 微笑み直す。



 骨折も陥没も割断もしてはいないけど、腫れてはいた。


 診察を受けた先で丸一日は患部をよく冷やすよう言われて、しかし冷やし続けるにはそれなりの用意が必要だ。例えば冷蔵庫にアクセスできる環境を整えるだとか冷却部がずれないよう安静にするだとか。医者の言いつけに忠実であろうとすれば、転属二日目にして学校を休むこととなり周囲からの虚弱児の謗りは免れ得まいが仕方ないと思っていたら、香織が悪気なく提案した。


「保健室で氷をもらって来ればいいじゃない」


 むろん悪気があるはずもないけれど、昨晩、片手に氷枕を取っ替え引っ替えその箇所の体温が摂氏一桁を割ったことはなく、患部より先の五指の感覚もすでになければ、一睡もできなかったどころかむしろお前はいつ寝ていたんだと問い詰めたいほどに冷やされ続けて。むしろ悪意なく相手を構い殺しかねない妹の嫁入り先に寒気を覚え始める。とはいえその寒気も単に冷やされ過ぎて風邪を引いたせいではないかという気もする。


 というわけで、ぼくは今朝の下駄箱前でようやく昨夜から続いていた妹の監視を逃れ。されど言いつけ通り大人しく保健室から氷代わりの熱冷まし用ピタッと貼り付く系のシートを頂戴して、今はちょうど教室へと戻るところだった。ところでこれ、頭以外に使うの初めてだ。


 看てくれた保険医はそのまま休んで行け言ってくれて、思い返せばぼくも今朝の寝起きまではそのつもりだった。しかしやはり、ただでさえ留年を経験している身の上だし、ぼくが欠席した際の香織の心労を思えばと丁重にお断りしてきた。


 さて、教室に戻れば。香織は空席に向かって立ち尽くしていて、こちらが近寄るのに気付いてゆっくりと顔を上げた。


「……あ、シロ兄ぃ。結局、氷もらえなかったんだね」

「……」


 一瞬、返事が遅れたのはその口元が笑って見えたせい。もしかしたら光の加減での間違いだったか、ぼくの腕元を見てそれは不満そうに尖った。先制して言い訳が口から飛び出る。


「冷やし過ぎも良くないって言われたよ」言われてないけど。氷をもらい直して来いとの再指令を受けるも面倒で、ぼくの口先は懸命に自主回転を続ける。「低温やけど寸前だって」これも言われてないけど。

「……嘘吐くなら、ちゃんと調べてから使おうよシロ兄ぃ」


 あれぇ?


「それよりね、シロ兄ぃ。紹介したい人がいるんだ」

「紹介したい人?」


 首をかしげる。昨日の転校生たるこちらから自己紹介するならまだしもされる相手となると、まさか今日の転校生でもいるのか。


「ほら、昨日の帰り道で話したでしょ、いーくんのこと」

「あぁ」


 大切な人、ねぇ。


「義兄さんと呼ばれる筋合いはない」

「へ?」

「ごめん、気持ちが先走っちゃった」

「……あわわ」


 よく考えたら香織も偽妹だし、ぼくは義偽兄になるのかもしれない。義偽兄。ちなみに読みはぎぎけい。まだ素直に他人と言った方が親しげだけど敵愾心は隠せず、発音の雰囲気もそこに予見されるだろう人間関係のきしみを暗示している。


「それで、ね。この子がいーくん」


 と指された方を見ると、やたら整った容姿の中央からこちらへと突き刺さる視線にぼくは晒されていた。


 恐らくは自分の席らしき椅子に座ったまま頬杖を突き、無遠慮にぼくを見上げている。余った足を机の下に交差させていて、座って僅かにぼくの顎の下。たぶん立ち上がった時の身長はぼくより高く、目鼻立ちが整っており教室で人気ランキングを投票した時、ダークホース的に女子の票が集まるのはこういうタイプなのだろうなと思った。ふと気付いてその顔が不機嫌そうに歪んでる分を加算し、ブラックホール的の方が正しいかもしれないと思い直した。


 しかしその見た目には一概には説明しきれない致命的なエラーがあって。つまり、えっと。


 あと女装してた。というか。


「……まさか女の子?」

「初対面から驚くほど失礼な男ね、誰よこれ」


 と、やはりどこからどう見ても女子の制服にしか見えない衣類を着ていて、ショートカットゆえか中性的な顔の作りゆえか、見ているだけのぼくに劣等感を抱かせるほど爽やかに男前な女子生徒だった。


「……その失言はさすがに擁護できないよ、シロ兄ぃ」

「いや、てっきり」


 大切な人って言うから。彼氏かと。


 何がどうしてとは言わないけど、ぼくは安心した。


「紹介するね、シロ兄ぃだよ」

「あれ……でも、さっきの」


 と彼女は困惑したように、香織とぼくを見比べた。彼女の言いたいことはわかっていたから、先回りして疑問を解消するふりをした。


「似てないのは血が繋がってないだからだよ」


 むろんそんな誤魔化しは上手くいくはずもなく。


「……そう」どこか釈然としない顔をしていた。しかし大らかな性格らしい。「まぁ、いいわ」というより大雑把か。ともかく彼女のその性質のお陰で、できもしない下手な釈明をせずに済んで助かってしまう。見計らって香織が途切れた紹介を続ける。

「改めまして、こっちは古暮いつき。愛称いーくん。私の親友なのだ」


 よろしくと返され頭を下げ合い、滞りなく親しくなれそうだと思った。


 もちろん幻想だった。


「ところでお義兄さんと呼んでいい?」

「………………」


 あれ、急浮上してるこれは第二妹の線か?


「もう、冗談やめなよ。シロ兄ぃ本気にするから」


 何だ、冗談か。


「私は本気なんだけどな」


 本気じゃないか。


 というか、何だこの女。まさかぼくの妹志望じゃなくて、ぼくの妹を妻帯希望か。


「妹はやらんぞ」また先走った。違う、ジャストタイミング。

「今はそう言っていても、私たちの結納では妹をよろしくと泣き顔晒すことになるんじゃない」

「義偽妹にやる妹はありません」

「……あわわ」


 一方の偽妹は反応パターンの持ち合わせが少ないらしく。見飽きた慌てぶり。可愛い。


 そして鳴り響くは、始業チャイムの鐘の声。諸行無常の響きあり。


 たけき者かな、いーくん。精々は今のうちに驕っているがいいと内心のぼくが琵琶をかき鳴らした。べんべけ。

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