2.転入生。そして再会

 おれは矢羽根シロを知っている。


 なんてったって、特別な日だったから。その朝、奴はもちろん使い慣れない目覚ましをかけていた。されど先週の購入以来、その猫の足音より微弱な電子音が起床の役に立ったことはまだ一度もない。今日も半分寝惚けたままのシロは手を伸ばし、観る夢より容易くスイッチを切ってしまった。


 そして幸福の残り香。しばしの静寂。


 突如ドアが廊下側から勢い良く開かれる。部屋の扉を開けた当の少女は案の定、その空間がいまだ暗闇に包まれているという事態に呆れたらしくつかの間、足を止めて嘆息し。しかし埃と洗剤の匂いが混じる空気をそのまま大きく吸い込んで。


「シロ兄ぃ、朝!」


 目覚まし代わりにしてもあんまりな当たり前の事実報告を手榴弾のように投げながら、そいつは躊躇いの欠片さえなく年上の男の部屋に侵入した。低身長に短いポニーテールがボレロの襟元に揺れて。


 矢羽根香織。シロの妹だ。


「朝だよ! 起きて!」


 香織はすでに着替えた制服姿のまま部屋を横切り、兄を跨いだベッドの端に膝立ちしてカーテンを開ける。朝陽が部屋いっぱいに照らし込み、シロの部屋を明るみのもとに引きずり出す。そこに配置された家具類は高校生の部屋のものにしては少し奇妙な塩梅であった。


 まず一番に目立つのはこたつだ。もう夏も終わるとはいえまだまだ時期外れで、そもそもこの部屋の余剰スペースより大きい。つまりここでは使いものになるはずがなく、その通り隅に立てかけられている。次いでその手前の布団類が詰められた収納ケース三段積み、紐で縛られたダンボール類やバケツ、釣り竿、大工道具、カーペットと雑多なものが整頓されつつもどこか無秩序に層を成している。


 そんな私室というよりは、むしろ物置にベッドを無理やり置いてとりあえずの私室としたような部屋の主は。妹の声を右から左へと聞き流しつつ、天井をやぶにらみに睡魔と格闘していた。


 微妙な間ののち。


「……起きます」


 そう無気力な寝惚け声に奴は布団から寝癖まみれの頭を起こすが、一方でそれに合わせてベッドから一歩退いた妹は日本語の不可思議に首を傾げる。


「起きますって、それ。事後報告じゃん?」

「……事前報告は、無理でしょ」


 まさか反論があるとは思ってなかったのか、一瞬言葉に詰まる。


「えぇい、寝言で気張りん!」


 そんな不毛極まる精神論のお陰でもないだろうが、ようやく頭が回ってきたらしきシロはとりあえずベッドから窮屈そうに這い出す。続けて奴は目の前の彼女と意思の疎通を試みた。


 本人からしてみればこれ以上、妹の手を煩わせるも心痛極まり、何より今となっては奴に残っているのはひたすらに自分との戦いである。言うなればシロは勝負に勝ってなおかつ試合にも勝たないといけない身の上にあり。そこには一切の彼女の助力は介入する余地もなく、故にこれ以上の介錯は不要と。


「あーはいはい、わかった。わかった――」


 妹はそう言いたげな不明瞭な口元の動きを雰囲気で読み取った。


「じゃあ、早くね」

「……うん、ありがとう」


 矢羽根香織はできた妹なのだ。


 さて、残された兄の方は一人になってしばらく部屋の片隅に直立。ひとつの壁を向いたままに、今度は低血圧に抗うべく、そのまま数秒を立ちっぱなしで血が巡るのを待つ。彼女の足音が消え去った頃にようやく半眼が解け、昨夜自分で用意したはずの制服をぼちぼち探し始める。


 つい先ほど気を利かせた妹が部屋の外に吊るしていたそれを見つけるのは、それからさらに二分を要した後のこと。


 九月十七日の七時三十八分。快晴なり。


 家を出た奴らは連れ立って登校路を辿っていた。


 住宅街をあえて抜けないままに、大通りに沿って伸びる一方通行の裏道を、たまに抜ける車とすれ違いつつ歩く。この道を通る利点はまず人通りが少ないこと、車道が遠く会話に差し支えないほどに静かであること、そしてアパート列に遮られて、朝陽に晒されないことである。


 季節をひとつ戻って夏休み前には、香織がここを一人で歩いていても、同じような考え方をする送り迎えの婦人方が自転車の荷台に我が子を乗せて走る姿も散見され賑やかなものだったのだが、陽の光を厭うよりむしろ懐かしむ季節となりつつある今では、日陰多きこの経路を変わらず歩くのは奴ら二人くらいになる。


 兄妹の話題。というより先刻からその女の口にする言葉は八割五分、兄への心配がメインだった。


「シロ兄ぃ、私の教室の場所わかる? 職員室まで迎えに行こうか?」


 これではもはや心配というより過保護だと思いながら。どうにか安心させようとの多少の余裕を演出してみる。


「担任が連れてってくれるでしょ。というか去年まで、ぼくも同じ階の教室に通ってたって知ってる?」

「あ、そっか……」


 しかし妹はなおも不安そうに隣の顔を見上げている。


「えっと……」思わず口を滑らせてしまう。「大丈夫だよ、頑張るから」


 聞く方の彼女からすれば何ひとつ安心できないその言葉に。


「……むー」


 妹がますます眉をひそめてしまって。シロは自身の無神経な言動を少し反省する。反省した。そして今、挽回せんとす。


 過保護ってくれる年下の少女のために、自分だって初めてのクラスに緊張しているのを努力して、それでもことさらの笑顔を用意する。


「というわけで、今日からは同級生としてもよろしくな。妹よ」

「……うん、シロ兄ぃ。まぁ、程々によろしくね」


 ようやっと見せてくれた笑顔に。

 きっと大丈夫だとシロは予感した。

 それらすべてが作り物だと、おれは知っている。




 校舎の前であの女と別れて、見慣れた校舎を職員室へと向かう。そこで初対面の教師に挨拶し、そのまま連れられる形で初侵入の教室に足を踏み入れ、黒板に書き慣れない名前を書いた。


 矢羽根志郎。


「今日からうちのクラスの一員となる矢羽根くんだ。事前に伝えた通り、矢羽根香織さんのお兄さんにあたる。普通は兄弟姉妹を同じクラスにしたりはしないんだが、彼の場合は少し特殊なんだ。故に、色々と周りのサポートが必要な場面もあるだろうが――」


 長々とした担任教師の言い添えの最後にシロは頭を下げた。


「よろしくお願いします」


 クラスメイトの拍手の中、辞儀から顔を上げる際に一等に熱を込めて拍手している香織と目が合い、照れ混じりの苦笑を噛み殺す。好奇の視線をくぐり抜けて緊張のまま与えられた自席につく。後ろは振り返らなかった。


 ホームルームの終了に伴って担任が去り次第、シロは即座に新たなクラスメイトに囲まれ質問攻めにされる。


「転入生先輩は何か困ってることある? たぶん教科書とかって去年から変わってないよね」

「うん、大丈夫。というか香織に確認してるからその辺りは問題ないよ」

「聞いた?」これは横から黒髪の少女。「香織だって。たしかバネちゃんと、血は繋がってないんだよね?」誰だバネちゃん、とシロの作り笑顔が歪みかける。

「うん、シロ兄ぃとは幼なじみ」


 と、これは横から香織本人が言い添えた。何故か嬉しそうに。その隙にシロは持ち直す。


「今はもう妹だけどね」

「バネちゃんが、妹系幼なじみ。ってことは偽妹か。惜しいような美味しいような」

「お前はちょっと黙ってろ」


 と、隣からこづかれるのが約一名。しかし懲りずに続けて。


「あれ、やっぱり年上?」

「そうだね、一年休学してたから。でも」

「だからっておれは敬語、使わないからな」

「……むしろありがたいよ」


 言おうとしていたことを先取りされて、笑う。きっと距離を置かれるだろうと予想していたが、想定外に自身が好意的に受け入れられていることを感じ、恐らくは妹の人徳が大いに影響しているのだろうと思うにつけ、与えられた恩に見合うだけの馴染む努力を人知れず決意する。


「あ、そうだ。バネさん、部活って入ってた?」


 バネさん……。と、シロは再び顔の筋肉に力を入れる羽目になった。その俗称が定着しないことを祈りつつ。


「去年までは忙しくて。だけど医者にも勧められたし、今年は新しく始めようかと」


 おぉと早合点した運動部連中が沸き立つ。しかしそこにガードするような手振りで割り込む香織。


「ややっ、期待しても無駄だよ男子。シロ兄ぃはやる部活、もう決めてるんだから」

「お、それって何部だ?」


 何部だろうな、とこれはシロも同意見。当事者ながら自分のドナドナ予約先を存じないらしい。


「どうせこの態度、間違いなくバネちゃんと同じ部活だって」


 なるほど、と納得するシロ。


「いかにもなのだ!」


 しかし何人かが首を傾げる。


「というか矢羽根、何部け」

「たしか、園芸部だよね」


 と、シロ。自分のことのはずなのに、周りが先に浮きだってしまった話題にようやく追いつく。


 何だぁと数人は期待はずれだったらしき声をあげつつ、でもまぁこれからよろしくと残して奴の席から離れていき。


 シロの席周りに残ったのは当の園芸部三人。むろんの香織と。


「お、じゃあおれが部長だからよろしく。久留和っての」


 そう手を振ったのは最初から親しげに話しかけてきていた男子生徒。彼は淡い茶髪を浮かせて制服を着崩しながらも、控えめな背の関係でそのたぐいの威圧感はなく、人好きのしそうな素直な笑みを向けていた。


 久留和道真。


 次は自分の番だと、彼の隣に立っていた女子生徒はサイズのぴったり合ったブラウスの上に、これまた定規を当てたような直線で切りそろえた髪を揺らした。


「あたし平部員の真尻。よろしくね、バネちゃんのお兄さん」


 こちらは日本人形のような整った見た目ながら語調の端々、皮肉な笑顔に大雑把な性格が伺えた。その気になれば猫をかぶれるタイプかとシロが思っていると、久留和が解説してくれていた。


「そいつはお察しの通り、オタクだ」

「るさいなぁ、もう」


 否定しないところを見ると訂正の必要もなく肯定できる程度には、浅からぬ趣味なのかもしれない。


 真尻桐花。


 香織が顎に手をあてて、指折り数えた。


「園芸部の部員はあと、もう一人。今日は遅刻してるみたいだけど、その子と三人、それから今日からシロ兄ぃも含めて五人かな」

「あれ、ちょっと待って――」と、シロは嫌な予感を押し隠しつつ、首を傾げて尋ねる。「全員同じクラスなの?」


 香織以外が苦笑いし、香織本人は気まずげにしょんぼりする。シロの予感は加速する。


「うー、去年までは先輩がいたんだけど今年入ってから卒業しちゃって。私自身も去年は部活サボりがちで友だちを誘うこともしなかったせいで、春には私一人になっちゃったから、廃部対策で頼み込んで入ってもらったの」

「帰宅部も飽きてたから入ってあげたの。ただなぁ欲を言えば、園芸部ってもうちょっとコンテンツ力上がって欲しいのよね。具体的にはタイトル四文字系アニメ作品が出てくるとか」

「だからお前は黙ってろと……。あ、ちなみにおれもお飾りの部長」

「でもがっかりしないでねシロ兄ぃ。もちろん園芸部もどきってわけじゃなくて、たまにはちゃんと活動してるんだよ」

「そっか……」


 たまには、という点が引っ掛かったけれど。


「五人も部員がいれば色々なことが出来そうだしね」

「「「……」」」


 どうしてか周りがまた気まずそうに黙りこんだ。


「え……」


 そこでタイムアップ。わけを尋ねる暇もなく、鐘の合図で一限が予告され、三々五々に散らばり。教科の担当教員が入ってきて号令。授業が始まる。されど慌てることもなく机脇にぶら下げた鞄から、自前の教科書とノートを取り出したシロは、ふと思い出したように振り返り。




 ようやくおれの存在を認め、目が合う。




 教室に足を踏み入れた時から後部席のおれを意識していたくせに今この瞬間までずっと無視していたのは、いないことにしたままきっと本当におれがこの場からいなくなってしまえばいいと思っていたから。


 だけど願い虚しく、おれはここにいる。


 奴の席から左斜め後ろの席。この場所からおれはシロに向けて、笑顔で手を振って見せるまでした。憎悪を込めて


 対する奴の顔は、おれにとって見慣れ過ぎていて、奴にとって作り慣れすぎた本来あるべきその表情を浮かべた。


 無。


 なんの感情も伴わないそれはシロという存在に最もふさわしい表情で、先ほどまでこちらが気味悪くなるくらい周囲に向けていた顔のすべてがやはり作り物だったのだとおれは嬉しくなった。休学し学年を落とし名字を変えて家族を変えてさえ、奴は何ひとつ変わっていない。おれが何ひとつ変わっていないのと同じように。


 なんてったって特別な日だった。そうして幕を開ける奴の渇望し続けた日常に、おれは呪詛を吐く。周りを見渡してみろよシロと。


 お前の地獄はまだ続いているじゃないか、と。

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