第5話
鶯谷で降りるべきであったと、少しだけ後悔した。
土曜日の上野駅は酷い人混みであった。
皆があの汚いお尻をしたぐーたらなパンダを見に行くのかと思うと、僕の中でなんだか得体のしれない優越感が湧き上がった。
人気もの、流行りものを冷めた目で見てしまう僕は、ともすれば天邪鬼と揶揄される存在なのかもしれない。情けないことに僕は、そういった流行りものを全く楽しめないわけではないにも関わらず、ただそれが流行であるという理由だけで馬鹿にしてしまうのだ。
しかしそのような捻くれた性根の背景として、そもそも僕は物事を人並み以下にしか楽しめない、いわば享楽への不感症を患っているのかもしれない。
人が楽しめているものを上手く楽しめなことは、自らの感受性の低さを思い知らされるようで辛い。ならばせめて周囲の人間を貶めることで傲慢な優越感を楽しもうと、何事につけても斜に構えてしまう、そんなろくでもない状態に僕はあるのかもしれない。
とはいえ、まさにその流行に流された人々の間で、彼らの生み出す人波に流されるばかりの今の僕は、彼らを馬鹿にする資格などとうに失っていた。
傲慢さえ許されず、僕の自尊心は泡と消えた。
僕はウォークマンの音量を少しだけ上げた後、キョロキョロと辺りを見渡して、待ち合わせの時間まで座っていられる場所を探した。
その折に、後ろから僕の名を呼ぶ女性の声がした。
「山本さん?」
確かめるように囁かれたその言葉は、しかし安物イヤホンのちゃちな密閉など容易にすり抜けた。
僕は振り返りながら、慌ててイヤホンを外し、
「おはようございます」
と挨拶をした。
「おはようございます。同じ電車だったみたいですね」
待ち合わせ相手の鈴村さんはそう挨拶を返して、駅を振り返った。
「中央線ですか?」
そう尋ねたところ、
「はい。さすが休日だけあって、中々に混雑していましたね」
と、苦笑いしながら未だ人の減らない改札を見やる鈴村さんは、なんだか少し疲れている様子だった。
「お疲れ様です」
いつものような形式ばかりの挨拶ではない。本心からそのような言葉をかけると、鈴村さんは「えぇ、山本さんも」と今度こそ綺麗に笑った。
「とりあえず歩きましょうか」
そう言って返事も待たずに歩き出す鈴村さんの隣にのんびり並ぶと、彼女はこちらをちらりと見てもう一度笑った。
「実は今日、山本さんは来てくれないんじゃないかって、そんな気がしてたんです」
突然の指摘に僕はドキリとした。
なぜならまさしく彼女の言う通り、僕は何かと理由を付けて今日の待ち合わせを断ろうと画策していた。妙に思念のこもったメールを送った手前、改めて顔を合わせるのが恥ずかしく思われたのだ。
動揺を押し込めて、僕は努めて笑顔を保ち「どうしてですか?」と尋ねた。
「それはですね……」
鈴村さんはゆっくりと空を見上げ、全開の太陽に少しだけ眉を寄せた。
「私が山本さんの立場なら、多分もう私とは会いたくありませんから。何と言いましょうか、あのメールはまるで山本さんなりの告解であるように思えたんです。少し表現が良くないかもしれませんが、私はあのメールから、自身の短所……利己心を私に披歴したことで、その利己心を受け止めているというただその一点において、無自覚に利己的な人間よりもましになれるのではないかと、そんな山本さんの願望を感じました。
違っていたらごめんなさい……別に穿った見方をしたいわけではないんです。でも私がああいった自己批判を試みるとしたら、その先に何らかの救いがなければやってられませんから……少し話が逸れましたが、罪の告白なんて匿名でもなければ気持ち的に難しいでしょう? 幸いメールなら顔を見る必要はありませんし、私と山本さんを繋ぐものはそのメールだけです。その後直接出会う可能性を避けてさえいれば、仮想的な懺悔室が完成することになりますよね。だから今日も会ってはくれないんじゃないかと思っていました」
鈴村さんはそう言って立ち止まると、「ごめんなさい、失礼なことを言って」と真剣な表情で頭を下げた。
鈴村さんのお辞儀が周囲の人間から奇異の目で見られるのではないかと、僕は「いいえ、いいえ」といつもより少し大きな声を出して制止する。
そのおかげかは分からないが、鈴村さんはすぐに顔を上げてくれた。
特に掛け声もなく、僕たちは再び歩き始める。
僕はほっとして、今度はゆっくりと口を開いた。
「あのメールが懺悔であったのか、それは僕自身にも分かりませんけれど、でも今日待ち合わせをドタキャンしようと考えていたのは事実なんです。だってあんな長文のメール、しかも僕の情けない思想ばかりを記したメールを送った後に、僕はどんな顔をして鈴村さんに会えば良いのか分かりませんから」
「でも来てくれましたね」
「はい。もしかしたら開き直っているだけなのかもしれません。今さら鈴村さんに対して何を恥じる必要があるのか分かりませんから」
「確かに」
頷く鈴村さんに、僕は少し意地悪な質問を投げかける。
「でも鈴村さんは、僕の立場を察してくれていたんでしょう? なのに、どうして誘うことを躊躇わなかったんですか?」
「いえ、躊躇いはしましたよ。ただ、最終的に誘おうと決心したのは……まあ一言で言えば、嬉しかったからです」
「嬉しかった? 何がですか?」
僕が首を傾げると、鈴村さんは少し照れくさそうに頬を赤らめて、口元に垂れ下がった髪の毛を耳の後ろにかけた。
「何でしょう……その、たぶん、山本さんが真面目に考えてくれたことが嬉しかったんです。一応連絡先を渡してはいましたけれど、でも正直なところ、本当にお返事がいただけると思っていたわけではなくて、もしいただけたとしても……」
鈴村さんはそこで一旦言葉を切ると、少しだけ躊躇った後に再び口を開いた。
「その、自分で言うのもなんですが、私って男性の方からすごくモテるんです」
「はぁ……」
突然の自慢話に意図を掴みかねたものだから、僕はまるでため息のような相槌を打った。確かに鈴村さんの容姿は異性の歓心を買うに十分なものを具えているのだろうが、それが先の会話に関係することとも思われなかった。
僕の困惑を感じ取ったのだろう、鈴村さんはなお一層頬と耳を紅くしながら、「つまりですね!」と早口にまくしたてる。
「もし山本さんから連絡をいただけたとしてもそれはあの質問に対する回答ではなくて、例えばデートのお誘いかもしれないなって、そんなことを考えていたんです。ごめんなさい、別に山本さんのことを馬鹿にするつもりはないんです。でもそういうやり方で異性との関係を深めていく人も少なくないでしょう? だから私、自分で勝手に連絡先を渡したくせに、後になってそれをちょっと後悔しちゃって」
「はぁ……」
そういうものだろうか。
世の恋愛事情に明るくない僕は、鈴村さんの早口な言い訳に対しても、その正当性を判断する術を持たない。ただ間を持たせるためだけに、吐息交じりの相槌を打つ他なかった。
しかし鈴村さんの耳は僕のそれに糾弾の響きを聞いたらしい。酷く消沈した様子で、険しく口元に皺をつくった。
「……ごめんなさい、失礼なことばかり言ってしまって。私が言いたいのはつまり、山本さんから連絡が来るにせよ、来ないにせよ、事は私の望む方向には進まないのだろうと、そう予測していたということです。だから……だからこそ、すごく嬉しかったんです。例えば一文、『人助けの理由はやっぱり分かりませんでした』ってそう記してくれるだけでも良かったのに、実際に送られてきたのは丁寧な長文です。風が吹く、とでもいうのでしょうか、私はあの添付ファイルを開くとき、本当に誇張でも何でもなく、パソコンの液晶から風が吹き出してくるような錯覚に襲われたくらいで……本当に感動したんです」
突然に妙な喩えで以って熱弁されると、少し恥ずかしくなる。
僕は照れ隠しに、
「なんだか照れてしまいますね」
とわざとらしく後頭部を掻いて見せた。
鈴村さんはそんな僕を見てふふふと温かい笑みをこぼした。
「言ってる私の方も恥ずかしいんですよ? まあとにかく、あのメールからは山本さんの誠意が感じられたものですから、やはりメールではなく直接会って、きちんとお礼を言わなければならないと思ったんです。それで躊躇いながらも、お誘いのメールを送ってみたら、なんと許諾をいただけたというわけで」
「そんな事情なら、こちらももっと早く誘いを受けるかどうか、返信するべきでしたね。正直、鈴村さんのメールは件名もないし、本文も『上野公園に行ってみませんか』としか書いてありませんから、何事かと思いましたよ」
鈴村さんから受け取ったメールの文面を思い出しながら、思わず苦笑すると、鈴村さんは心底申し訳なさそうに首を垂れた。
「それについては本当に申し訳ないと思っています。まあ私は普段からメールの文面がいい加減なんですけれど、あの時は特に居ても立ってもいられないという感じで、文章の推敲なんてもちろんしませんでしたし、実際にメールを送り終えるまで、誘われた山本さんの気持ちを考える余裕なんてなかったんです」
鈴村さんはそう言って顔を上げると、「でも」と意地悪な視線をこちらに向けた。
「それにしても山本さんの返信は遅すぎます。せめて予定を確認中だとでも送ってくれたらよかったのに、お誘いのメールを送って一週間経っても何の返信もないものですから、その間私、気が気じゃありませんでしたよ?」
本気で責めているわけではないことは、声音を聞けば明らかであったが、指摘の内容自体は正しく僕の不備を捉えていたものだから、少し狼狽させられる。
「いや、その、ごめんなさい……ただ混乱してたのは僕も一緒で、あの長文メールを送って、鈴村さんとはもうこれきりだとばかり思っていたものですから、直接の再会を望まれたことにも驚かされましたし、そのお誘いのメールはやけにいい加減で情報がやたらと少ないしで、そもそも返事をすべきなのやら迷ってしまったんです」
「なるほど。まあ、お互いさま……ということにしておきましょうか」
と、こちらをちらりと見やる鈴村さんは、どこか楽しそうだった。
僕はそんな彼女になぜかホッとしながら「そうしてください」と相槌を打つと、続けて、今日ここに来るまでの間ずっと気になっていた疑問をぶつけた。
「それで鈴村さん。僕の送ったメールは役に立ちましたか?」
長すぎて全部を読む気はしませんでした、などとは鈴村さんの丁寧な性格を思うに考えられないが、結果的には彼女にとって意味のない文字の羅列に過ぎなかった可能性は十分にある。
作文の添削を受ける気持ちで、少し緊張しながら返事を待っていると、鈴村さんはその緊張を吹き飛ばすような元気な声で「もちろん!」と親指を立てた。
「まあ、もちろんあのメールの最後に書いてあった通り、結局、山本さんの生き方が利己的なものであるとしたら、打算からの脱却を目指す私の目論みは失敗したのかもしれません。でも、あれを読んで考えたことがあるんです。聞いてくれますか?」
「はい」
僕が頷くと、鈴村さんも一つ頷き返してから続ける。
「私も山本さんも、自らの利己的な精神を恥じているわけですが、この恥じらいは本来必要のない悩みである可能性があると思うんです。なんせ、そもそも利己的でない人間なんて存在しないはずですから」
初っ端から随分と横暴な意見ではあるが、言わんとせんことは理解できる。
「まあ確かに、人生の全てのシーンを集めれば、必ず利己的な振舞が混じっているのは確かでしょうね」
そう同意した上で、やはり横暴に過ぎるだろうと、
「でも、こと人助けに限って言えば、純粋な優しさゆえに人助けをする人もいるんじゃないですか?」
改めて反論を試みた。
しかし鈴村さんも、恐らく彼女なりの自問自答の中で、優しさとは何かしつこいほどに考えてきたのだろう。冒頭から話の腰を折りにかかったような不躾な異論にも戸惑った気配はなく、落ち着いた様子で頷いた。
「はい、少し悔しいですけれど、そういう本当の意味で優しい人も確かにいるでしょうね。でも、優しい人たちも、ある意味で利己的なんじゃないかと思うんです」
「どうしてですか?」
「結局、優しい人たちは、人が喜ぶ姿を見ることで自らを喜ばせることが出来るんです。あるいは人助けの場合は相利的と呼んだ方が正確かもしれませんが、少し大雑把な考え方をすれば、利己的な行動の最低条件は、その行動により自らに利益がもたらされることでしょう? だとしたら、人を喜ばせてその結果自分も喜べるのなら、それはもう利己的な要素を持つと言っても差支えないように思えます」
「まあ、確かにそういう面もあるのかもしれません。でも優しい人たちがみんな人助けという行為を楽しんでいるのかは分からないんじゃないですか? それこそ、ある種の自己犠牲的な考えで、本当は嫌だけれど、相手のためを思って行動を起こすことだってあるでしょうし」
大した美辞麗句であるが、一体誰のことを思い浮かべてそのようなことを言うのかと、僕は少しむず痒い気持ちがした。
「もちろん、そういう自己犠牲的な優しさを具えた人もたくさんいると思います。でも私は、その自己犠牲でさえ利己的だと思うんです。例えば、自己犠牲的に人助けをする人たちは、その行為に伴う手間と、相手を見捨てた時の罪悪感を秤にかけて、罪悪感に悩むくらいなら人助けをした方がましだと判断しているのではありませか?」
そう言って、鈴村さんは僕の目をじっと見つめた。
僕はその主張の真意が察せられて、少しだけ顔をしかめざるを得なかった。
あまりにも極論に過ぎる。
「その考え方だと、人助けに限らず人の為すものは全て利己的であるということになりませんか?」
と語勢に字面以上の批判を込めて、異論をぶつけてしまった。
しかし彼女は「その通りです」と言ってのけた。
「それこそ電極に繋がれて操り人形にされたなら話は別ですが、人の行動は基本的にその人自身が心で決断することでしか実現されません。そして、その決断は客観的に見てどうであれ、少なくとも本人の無意識の実感としては最善手、つまり物理的・心理的な利益の総和が最大になるものを選択している筈です。
そもそも、人は与えられた環境の許す範囲でしか行動を選択できません。ですから、それが仮にどれだけ悲劇的なシチュエーションの中の、客観的にはなんの利もないような不合理な決断であったにしても、決断を下すという過程を挟んだ時点で、少なくともその環境下では自らに最大の利を為す、ある種利己的な側面を持つことになると思います。
自己犠牲にしたってそうです。自己犠牲を払うか、それを拒否して罪悪感を背負うか。そんな逃げ場のない状況に追い込まれたとして、そこで為された決断は、それがベターだと他ならぬ自身の心で判断する、どこか利己的なプロセスの末に生じたものであるはずです」
「……そう考えると、自己犠牲なんて言葉はもはや現実的な存在感を失ってしまいますね。意思が介在した時点で利己的であるなら、もはや犠牲という言葉は似つかわしくありませんから」
「そうです。あるいは、何の目的意識もなくとられた行動が、偶々自身に害為して、代わりに誰かを助けたなんてことになれば、それは結果として自己犠牲の条件を満たしているかもしれません。もちろん私たちはそれを自己犠牲とは呼ばないでしょうけれど」
そう言って鈴村さんは寂しそうに微笑んだ。
彼女の考えを聞いて僕は複雑な感情を抱いた。
全てを利己心と定義する彼女の主張は、あるいは先の分析で発見された利己的な僕を肯定するものである。周囲を自らと同じ位置まで引きずり落とすことが出来るならば、悪くもない仮説であるはずだ。
一方で、彼女の主張を容易には受け入れられない僕もいる。
どうしてだろうか?
どうして僕は、鈴村さんの意見をすんなりと飲み込むことが出来ないのだろうか?
誰かの幸せを願う優しさが、利己心なるどこか無機質な言葉で片付けられてしまうのは、センチメントを欠いた僕の直観においてさえ即座に納得の行くものではないということだろうか?
……いや、その分析は単なる見栄に過ぎない。
素直になりさえすれば、深く考えるまでもない。僕の本心が別のところにあることなど明らかであった。
つまるところ、僕はあの頃の自分だけはどうしても否定したくないのだ。
仮に彼女の言う通り、どんな決断もただ僕自身の利己心の帰結でしかないとすれば、中学生の僕が抱いた怒りは一体何だったのか?
あの頃の僕は、例え臆病に押されるばかりであったにしても、正しく評価されるべき優しさを持っていたはずだと、信じたかった。
そのようなことを思うと、少しムキになってしまう。
「でもやっぱり、優しさでさえ利己的だというのは、少し意地の悪い考え方じゃありませんか? 確かに、どんな行動も突き詰めてしまえば利己的であるのかもしれませんけれど、だからって、僕らの我が儘と彼らの優しさの根底にあるものをひとくくりにしてしまうのは、それこそ横暴に過ぎる考え方だと思います」
彼らとは一体誰の事なのか、ここに至っても正直な気持ちを表に出せない自らに失望しながらも、僕がそう語調を強めて言うと、しかし鈴村さんはそんな僕を見つめながら、なぜか嬉しそうに目じりを下げた。
「その通りなんです!」
と大きく頷いた。
「少し話が回り道してしまいましたが、本当に話したいのはここからです。私は別に優しい心の尊さを貶めようというんじゃありません。重要なのは、どれだけ議論をこねくり回して優しさが利己心に通じているのだと主張しても、やはり優しい人は素敵であることに変わりないという事実なんです。そして、そもそもですよ。そもそも山本さんは優しい人と優しくない人をどのように見分けていますか?」
思いがけないタイミングでの問いかけに少しばかり戸惑うが、これは決して難しい質問ではない。
「……優しい言動をする人が優しくて、そうでない人が優しくない人だと思います」
そう簡潔に答えると、鈴村さんはまたも大きく頷く。
「ですよね! 私も同じように判断しています! 私には人の心を読むなんてこと出来ませんし、相手の人となりを知ろうと思ったらその振る舞いを凝視するほかありませんから。でも、だとすると私たちは、行動そのものにはりついた優しさは認識できても、行動を動機づける心の中の優しさは、それこそ行動の主が他ならぬ自分自身でない限り、見えてはいないということになりませんか? これは非常に重要な事実で、つまり私たちが普段優しさと呼ぶものは、自分自身を対象にするときは心の有り様を指し示す一方で、自分以外の誰かを対象にするときは行動の性質を指し示しているわけです。
こう考えると、自己批判をあれこれと繰り返す自分が滑稽に思えてきませんか? 人助けという客観的には優しい行動をする山本さんを見て、世界中の七十億人は優しい人だと判断しているにもかかわらず、山本さんだけが違うものを見つめながら自分は利己的だなんて俯いているんです」
鈴村さんはそこまで言うと、素早く二回瞬きをした後に大きく息を吸った。
「私が今日、山本さんに会って本当に伝えたかったことは一つです。私はあの日老婆に手を差し伸べる姿を見て以来ずっと、山本さんのことを優しい人だと思っています。そして、山本さんがいつかご自身のことを優しい人だと思える日が来ると信じています。なんせ、『他人に嫌われるのが怖い山本さん』には、私を始め周囲の人間の意見を無視し続けることなんて出来ないはずですから、私が『あ』と言えば、『うん』と頷くしかないでしょう?
ついでに言えば、『自分勝手な山本さん』なら、自らの我が儘と余人の優しさは本来利己的であるという点で大差ないのだと、巧妙にご自分を慰めることができるはずですからね。だから私は信じていますよ、優しい山本さんがいつかご自分の優しさを自覚できる日が来るのだと」
そう言って鈴村さんは優しく微笑んだ。
彼女の言葉は、あるいは僕の意見と真っ向から対立するものであった。
人助けに付随する優しさと、それに対する周囲の評価。それらを理解した上で人助けに走る今の僕は、もはや行為の性質だけを以って優しい人間と断ずるには、あまりにも利己的であるはずなのだ。
結局のところ、僕と彼女では『他者』という存在の位置づけが根本的に異なっているのだろう。
『他者』の視線をとことん気にしておきながら、それでいて自分という存在を自身の内面によってしか規定できない孤独な僕。
『他者』の視線を受け入れて、正しく自分という存在に昇華できる彼女。
両者の思想が一致するはずもなかった。
しかし、だからこそ、彼女の言葉はきっと、優しさに満ちているのだ。ただ一人、足踏みも出来ない僕に、手を差し伸べてくれたのだ。
ひょっとして、僕はずっとこの瞬間を待ち望んでいたのだろうかと、そんな大げさな思いまで脳裏をよぎる。
先ほど抱いたはずの怒りに似た感情がふらりと姿を消して、ふと涙腺が緩むのを感じた。僕は下唇を噛みしめてそれを我慢すると、誤魔化す様にほんの少し早口で返事をする。
「行為の客観的な性質にしか目を向けないとしたら、打算で作り上げられたという鈴村さんの人付き合いも、ひょっとしたら優しさと表現できるのかもしれませんね」
僕の言葉を聞いた鈴村さんは「はい」と大きく首肯した。
「打算がどうだとか、そんな小難しいことを考えるのはもう止めにします。結局、生き方や性根なんてそう簡単には変えられっこありませんから。だから少なくとも今は、以前山本さんが言ってくださったように、見返りを前提にした人付き合いであっても、それは時に優しさと表現し得るのだと、そう信じることにしてみます。もちろん、その振る舞いが相手にどのような印象を与えているのか、常に敏感である必要はありますけれど」
まるで自分自身に言い聞かせるように、噛みしめるように、丁寧に言葉を紡ぐ鈴村さんの言葉は、隠し切れない決意をはらんでいた。
僕はそんな彼女に圧されながらも、小さく頷いてみせた。
「……うん、それがいいと思います。僕はそんなには割り切った考えを持てませんけれど、でもなんでしょう、それこそ鈴村さんの信頼を裏切らないためにも、殊更に自分を卑下したりはしないように心がけます」
なんだか恥ずかしい台詞を口にした気がして、僕が照れ隠しにそっぽを向くと、やはり鈴村さんは僕の方へと顔を向け、声もなく小さく一つ頷いた。
横目には彼女の表情を読み取ることはできなかったが、きっと微笑んでいるのだろうな、と僕は思った。
数秒後、ほんの少し首をひねって、鈴村さんの方を見てみると、想像通り、彼女はこちらを見つめながら微笑んでいた。
眼が合った瞬間、僕はなんだか心の奥から笑いが込み上げてくるのを感じた。
我慢できずに破顔すると、彼女もまた、大きく口を開いて笑った。ワハハとでも言っていそうなその口からこぼれ出たものが、およそ口の形と矛盾したハヒヒという奇妙な笑い声であったものだから、僕はやっぱりおかしくて、思わずフッと噴き出してしまった。
午前十時前の陽射しの下、僕と鈴村さんの額に一筋の汗がしたたり落ちた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます