第4話

 メールでは文字数の限りもありますから、テキストファイルを添付しました。

 お暇な時にでも読んでみてください。


 ***


 あの日鈴村さんとお話しして以来、僕が人助けをする動機は何なのか、ずっと考えていました。

 人の心を完全に読み解くことなど元より不可能で、その考察を自分自身の心に向けたとして、結果はさして変わらないでしょう。あるいはあの老婆を助けようと思いついた瞬間に、その思い付きの裏側を精査すれば、ひょっとしたら僕の真意が垣間見えたのかもしれません。

 しかし鈴村さんとの会話を通じて自らの行いにあれこれと手垢を付けてしまった今、もはやそれについて客観的な視角など得られはしないでしょう。なんにせよ、僕がどれだけ記憶を探り、そこに分析を加えたところで、正しい答えに辿り着く日は来ないように思われます。

 しかし、答えが見つからないからと容易に諦めてしまうのは、鈴村さんの言葉を借りるとすれば、あまりにも情けないことでしょう。それがどんなものであれ、解答用紙の空欄を無くさなければ僕はいつまで経っても前に進むことができません。ですから答えが見つからないなりに、僕は自分という人間を見つめ直すことにしました。

 そもそも人助けとはどのような性質を持った行為なのでしょうか? 

 一つ断言できるのは、人助けとは多くの場合、相手に利する行為であることです。多くの場合と留保を付けたのは、ひょっとしたら嫌がらせ目的で、例えば一人で事を為そうと志す人間に横やりを入れるような、人助けの皮をかぶった余計なお世話も存在するかもしれないからです。

 とは言え、少なくとも僕は嫌がらせ目的で老婆に声を掛けた訳ではありませんから、この例外については考えないことにします。

 話を戻しますが、人助けは相手に利する行為です。つまり行為自体が優しさと言う性質を帯びているように思われます。そして多くの場合、行為の背景にも優しさが存在している筈です。

 しかし、その認識は果たして正しいのでしょうか?

 つまり、例えば鈴村さんが考えたように、お礼を言われるのが嬉しくて、そのために為される人助けもあるでしょう。そんな利己的な欲求に基づいた人助けを優しさゆえの行いと判断するのは抵抗があります。

 しかし同時に考えなければならないのは、お礼のために為された人助けであっても、時に優しさが付随する可能性もあるということです。

 ふと優しさに突き動かされて為した人助けへの対価として、相手が次々と心地の良いお礼の言葉を並べてくれたならば、それをもっと聞きたいと、当初の目的が鳴りを潜め、ただそのお礼のために行為を深化させることもあるでしょう。

 あるいは逆もまたしかりで、最初から求めるものが感謝の言葉であったにしても、そもそも困っている人を見つけるその視力には少なからぬ優しさが前提として備わっているように思えます。

 もちろんいずれの場合も優しさだけが原動力となっているわけでありません。あくまでも動機をなす一要素として優しさが機能したに過ぎないのでしょう。

 しかし、この要素としての優しさを見逃せば、あらゆる議論が正しい方向を見失ってしまうような気がします。なぜならば、この優しさを肯定すれば、以前僕が否定したあの説がひょっとして真理である可能性すら生じるからです。

 その説とはつまり、このメールの中で何度も例示しているように、僕の人助けはお礼を言われるために為されている、という利己的な精神を想定した仮説です。

 以前お話しした通り、僕は手助けした相手にお礼を言われなくとも別に何とも思いません。だからこそお礼を目的に行動を起こすことはないと断言しました。

 しかし実際のところ、手を差し伸べられた人間は、それが本心であるかどうかは知る由もありませんが、大抵の場合お礼の言葉を口にします。統計データなんてありはしませんが、僕の実感で言えば九割五分以上の人間は素直にお礼を言う習慣が身についているように思えます。結果、僕はお礼を言われる快楽を知ってしまっていることになります。

 この事実を踏まえて考えると、僕の人助けは礼を求める下心と純粋な優しさ、その二つによって動機づけられている可能性が生じます。なにしろ僕は、助けられておきながらお礼を言わない人間なんてほとんどいないのだと知っているものですから、偶々そういった人間に遭遇したとして、これはレアケースなのだと容易に切り捨て、その時ばかりは両輪の片側たる優しさを偏重することで、自身の人助けに価値を見出すことができるのです。

 一要素としての優しさは非常に強力です。これの存在を認めてしまえば、利己的、利他的の別を問わず、人助けに対するありとあらゆる動機が認められるように思えます。なにしろこの優しさは、およそどんなに我が儘な人間であっても少なからず具えたものであるはずだからです。

 しかし、もし優しさと下心の両輪をもって僕が人助けに駆られるのだとしたら、不自然な点が一つあります。それは、僕が見知らぬ人には手を差し伸べる一方で、身近な人間を手助けしたりはしないことです。

 見返りを求めるならば、身近な人間に恩を売った方が間違いなく得られるものは大きい筈です。あるいは優しさこそが主要な駆動力であるにしても、相手を選ぶ優しさは果たして本当に優しさと呼べるのでしょうか。

 こうしてまたしても僕の思考は暗礁に乗り上げてしまいました。

 しかし、幸いなことに議論を前に進めるための打開策はすぐに見つかりました。それは非常に単純な話です。

 今までは人助けをしたくなる前向きの要因を探って、残念なことに、結論が得られませんでした。だとすれば、逆の場合、つまり人助けをしたくなくなる後ろ向きの要因に目を向ければ、案外、素直な結論が導かれるのではないかと考えたのです。

 僕は同じ人間が全く同じように困っていても、毎回それを助けるわけではありません。例えば暇なら手助けしますし、忙しければ見てみぬ振りをします。

 異なる人間が同じシチュエーションで困っていても、その両方に手を差し伸べるわけではありません。例えば相手の見た目が僕の苦手な厳ついお兄さんであったなら、きっと僕は目を逸らしてしまうでしょう。

 あるいはそんな僕の心中に秘められたものは本来優しさなどではないのかもしれません。しかし言葉の厳密性はともかくとして、ここで僕が『優しさ』と呼んだものは、まさしく相手次第で一時的に変容し得るものであるようです。

 この事実は極めて重要で、知人に対しては優しさが形を失う理由を見つけられたなら、それは僕が僕自身を知れるその端緒を開くものとなるでしょう。

 知人を助けたくない理由。

 実のところ僕はそれに一つ心当たりがあります。

 結局のところ、僕は人に嫌われるのが怖いのです。

 人助けという行為は得てして相手に好印象を与えるものです。嫌われるのが怖いから人助けをしない、というのは一見理屈に合わないように思えます。あるいは人に好かれたいならば積極的に人助けをするべき、という意見であれば大勢が同意するところでしょう。

 しかし、人助けという行為は、単に喫茶店で会話を交わすのと同様に、いわゆる人付き合いに内包されるものです。つまり、人助けというものは、本質的に人との関わりの中でしか為しえません。

 どんな形であれ人と人とが関わりを持つ時、そこには感情のやり取りが生じます。もちろんそれが好意的なものであれば万々歳ですが、実際にはそればかりではありません。

 何の拍子に相手に嫌われるかわからない、ともすれば言葉遣い一つで相手を不愉快にさせるかもしれない、人付き合いとはそんな緊張感をはらんだ行為なわけです。

 一つ確認しておくと、人付き合いに関する僕の絶対的な指針は、人に好かれることではなく、人に嫌われないことです。幸か不幸か、僕は必ずしも誰かと一緒でなければ生きられないような人種ではありませんから、嫌われたくないのなら、より正確に言えば嫌われたという実感を得たくないのであれば、そもそも人と関わらなければ良いことになります。

 実際、自分で書いていて少し悲しくなりますが、僕には友達と呼べるような知人はいません。大学という組織に属する以上、級友らとの間に最低限の関わりは維持していますが、それは少なくとも感情のやり取りを実感せずにいられる程度の付き合いでしかありません。

 つまるところ、今現在の僕の生き様は、人に嫌われたくないのならば人と関わらなければ良い、という考え方をおよそ正しく反映したものであるようです。

 ただ一つ問題なのは、嫌われるのが怖いから人助けもしない、という考え方は、確かに知人との関係性を説明するに有用である一方で、見知らぬ人との関係を定義する上でも効力を発揮するように思われる点です。

 もちろん知人と見知らぬ人、どちらに嫌われた方がダメージが大きいか、それは考えるまでもありません。そもそも人助けという行為自体、相手に嫌われるリスクが極めて低いのです。見知らぬ人に嫌われる危険よりも、優しさと下心による動機づけの方が勝っているとしたら、僕が人助けに駆られることも得心のいくことです。

 しかし、殊僕自身のことを考えた時に、たかだか優しさや下心に突き動かされた程度でわざわざ危険を冒すことなんてあり得るのか、僕は疑わずにいられません。

 というのも、僕の臆病は筋金入りなのです。そしてその臆病を形成した少年期の出来事は、今も記憶に新しく僕の人生を縛っていることは間違いありません。

 一つだけ断言できることがあります。僕は臆病を抑え込んでまで発揮できるほどの優しさは持ち合わせていません。それだけは確かです。

 では、優しさがさしたる力を持ちえないのだとしたら、重要なのはもう一つの原動力、下心だということになります。

 先の議論では簡単のために、この下心を単にお礼の言葉を求める心として扱いましたが、果たして人助けに関する僕の利己心の正体はなんなのか、それを改めて考察することは、もはや避けられないように思えます。何しろ、優しさというワイルドカードに寄りかかることができない以上、僕の人助けに対する動機はその下心が一手に引き受けざるを得ないはずで、たかがお礼などというものはそれこそトラウマを覆い隠すだけの快楽を与えてはくれないでしょうから。

 結局、僕は人助けの見返りに何を求めているのでしょうか。これはなかなか答えの出ない問でした。なにしろ、僕は今までの経験上、助けた相手からおよそ言葉以上のものを受け取った記憶がないのです。

 こうして議論はまたしても行き詰ってしまいましたが、それを打ち破るヒントを与えてくれたのは他ならぬ鈴村さんの存在でした。

 人助けは一種の人付き合いだと言いました。では人付き合いの一般的な性質を考えた時に、僕と誰か、両者の間に起きたアクションの結果は果たしてその二人の間だけにとどまるものでしょうか?

 例えば二人の人間が口喧嘩をしていた時に、突然片方が暴力に訴えたとします。きっと周囲の人間は、喧嘩の原因はさておいて、暴力を振るった人間を危険な人物とみなすでしょう。

 僕の人助けにしてもそうです。僕が老婆の荷物を持ってあげて、老婆がお礼の言葉を述べて、それを見た鈴村さんが僕に興味を持って、もはや僕の行動の影響は当事者間に留まってはいません。

 僕たちの行動はしばしば第三者の視線によって制限、あるいは誘導されます。換言するとしたら、周囲の人間からどのように見られたいのか、それを指針として僕たちは行動を決定するということです。

 では、周囲の人間から良く思われたいがために僕は人助けをするのでしょうか。お恥ずかしい話ですが、これは僕の性格に正しく合致した仮説だと思います。知人と直接かかわるわけではない以上、嫌われることへのリスクを回避した上で、一般的に善行と見なされる人助けを遂行することができるわけですから、僕にとってこれ以上なく効率的なポイント稼ぎと言えます。

 僕は先の議論で、自分は人に好かれたいのではなく嫌われたくないのだと述べましたが、実際のところ僕は、嫌われることを恐れながらもどこかで好かれたい気持ちを捨てきれずにいたようです。

 しかし一つ疑問なのは、身近な人間ならともかく、見ず知らずの、それこそ一生直接的な関わりを持たないような通行客たちに良く思われることは、僕にとってそれほど魅力的なことなのでしょうか。

 また同時に奇妙なのは、前回鈴村さんの前で老婆の手助けをした際、辺りには十分な目撃者はいませんでしたが、果たしてその少ない観客で僕の顕示欲は満たされたのでしょうか。

 残念ながらこの二つの疑問に対する答えは、自分でも未だに見つけられないままです。僕自身としては、ささやかな幸せに対しきちんと自覚的でありたいと常日頃から志しているつもりなので、数少ない観客から向けられた刹那的な歓心を存分に楽しめているのだと思いたいところです。

 しかしひょっとしたら、僕はもっと強欲で、人助けでは満たされなかった充足感を何か他のアクションで補充することもあるのかもしれません。

 また、これは一つの思い付きにすぎませんが、今こうして自分自身を分析している僕は、まさしく常に存在する第三者と呼べるのかもしれません。つまり僕は人助けをするとき、そんな自分を上から眺めながら、今の自分は人に好かれる要素を具えているに違いないと、内心ほくそ笑みながら自信を養っているのかもしれません。

 このおかしな仮説は、徹底的に自己中心的な行動指針という点において、ある意味僕の性格を最も正確に表しているように思えます。

 長々と書き連ねましたが、最後に改めて、僕がなぜ人助けをするのか、その僕なりの答えを示したく思います。

 僕の人助けは、実際に助けられる人のことを慮ったものではありません。あくまでも、その行為の結果僕自身が周囲から良く思われるに違いない、という予測に則った利己的なものです。あるいは善行を施す『素敵な自分、好かれるに足る自分』をどこか俯瞰的に眺め、自らを慰めるための自己満足的なものです。

 こう並べてみると、僕は自分で思っていたよりもずっと自分勝手な人間だったんですね。

 打算的、利己的な自らを正すために僕の人助けに注目してくれた鈴村さんとしてはあまり好ましくない結論かもしれませんが、これが僕なりの答えです。

 最後に、せめてただ一つ願うのは、僕が人助けにより周囲の歓心を買えると知った、まさにその契機となる最初の人助けだけでも、どうか僕の優しさに由来していて欲しいものです。

 それでは。

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