その7

 リンの弟が死んだのは、一年前の春が近くなった晴れた朝だった。

 その前日、いつぞやからの予定通りリンは大人に混じって山へと入り、いつもどおり獲物を探して山を歩き回った。けれど昼をすぎても本当に欲しいもの――ユキワリの花は見つからなかった。いつもならもう咲いていてもおかしくない時期なのに――そんなリンの焦りとは裏腹にやがて日は徐々に傾いていき、暗闇が森のなかに降りていく。さすがに諦めかけた矢先、森の斜面になったところにユキワリの花が顔を出しているのを見つけた。急いで駆け寄り、花を摘んで立ち上がろうとした瞬間。緩くなった雪で足元が滑り、斜面を滑り落ちた。

 気がつくとあたりはすっかり暗くなっていて、音一つ無い森の中に一人倒れ込んでいた。痛む身体を起こし背後を見ると長く緩やかな白い勾配が見える。ずいぶんな距離を滑り落ちてしまったらしい。柔らかくておぼつかない足元に何度か転びかけながら、張り付くようにして登っていった。

 村の方へと向かって道を歩いていくと、こちらに向かって近づいてくる小さな点が見えた。近づくとそれはリンを探しに来た村の大人の松明の赤い火で、その場で引きずられるようにして村まで連れて行かれた。

 村に戻るとなんだか様子がおかしかった。大人たちが探していたリンが見つかったはずなのに相変わらずせわしなく動き回っている。嫌な予感が外の夜闇のようにリンを飲み込んでいく。やがて弟を預かってもらっていた隣の家の奥さんから何があったのか知った瞬間、リンは身体中の血が凍りつくように感じた。

 ――リンが戻ってくる前に家から弟が消えた。おそらく探しに行ったのだ、と――




「――弟が山の中で見つかったのはそれから少しした真夜中でした」

 魔女を抱きかかえたリンはか細く淡々と語る。話し始めたときのいっぱいいっぱいな声は次第に冷静なものに変わっていた。けれどその声は小さく、ふとした拍子で止まってしまいそうだった。

「……その日わたしが入った山の奥の、斜面になってるところで倒れてるのを大人たちが見つけて……本当ならそんなところまで行けすらしないはずなのに……無理して必死で歩きまわって……そこで転んで……滑り落ちて」

 リンの声の震えがひどくなり、少し止まる。すると魔女がリンの手を握ってきた。その氷のように冷たい指が、焼け付くような痛みと共にリンを目覚めさせる。

「――風もなくて静かな夜でした。弟が普通に丈夫な子なら、助かったのかもしれません。けど――そうじゃなかった。見つけた大人たちが村に急いで運んだけど――着いた時にはもう、虫の息で――」

 リンは思い出す。弟が死んだ朝のことを。運び込まれた自分の家のベッドで、力弱い春の日差しを浴びながら冷たくなった弟のことを。夜中の間ずっと、失われていく命をつなぎとめようと弟の手を握りしめていたことを。

 その日の朝以降のリンの記憶は殆ど無い。毎日何かしら仕事をして、ものを食べ、眠る。そういうぼんやりとした記憶だけはあるが、日々のすべてが身体を通り抜けていくようだった。風のない草原の真ん中に一人で立っている――そんな気分。そうして季節が一巡りしようとしていた数ヶ月前――村に生贄の話が持ち込まれた。

 ――名乗り出るのに、躊躇は無かった――もし弟が生きていたら間違いなく候補の一人にはなっていた。自分にはもう身寄りが無いし、そういう人間が行くべきだ――そう言った。

 当然村人たちは揉めた。しかし持ち回りが巡ってきたとはいえその年の生贄に適当な人間は見当たらず、生贄を出すことで出る報奨金も無視できない――いや、もっと単純に、皆他に行き場のないリンを持て余していたのだろう。リンと村人たちの利害の一致――次第に意見も彼女を差し出す方向に固まっていき、リンもまた生贄として差し出されることを心待ちにして日々を送ることになった。そうしてちょうど今年最初の雪が降った晩、リンは石のほこらへと連れて行かれ――

 そして、今――

「……どうして」

 リンの声が再び震えだす。

「どうしてわたしを『食べて』くれないんですか……このまま生きて帰ったとして、もうあそこにも、どこにも居場所なんて無いのに……! あなたの……あなたのそばにしか、もう……」

「…………」

 魔女はリンの告白を黙って聞いていたが、やがてリンの言葉の言葉が途切れると両腕をリンの頭の方へと伸ばした。そしてそのまま抱き寄せ、耳元で囁く。

「……ごめんなさい、それでも私はあなたを『食べられない』」

「…………!」

 リンの身体がピクリと震えた。それに応えるように魔女はより強く抱き寄せる。

「だって、あなたのこと好きになってしまったんですもの。たとえあなたの願いでもそんなことできない。たとえそのことであなたに嫌われたとしても」

「……ずるいですよ、そんなの」

 リンの震えた声に少しだけ怒気が交じる。

「気まぐれで生かして……居場所を与えて……それなのに今さら……! いまさら、また一人ぼっちになれなんて……」

「……そうね、そのとおりだわ。でも……」

 魔女はリンを抱き寄せていた腕をほどいた。そしてリンの顔を見ながら言う。

「私は――あなたに生きていてほしい。あなたがいてくれたから、こうして一人寂しく消えないですんでる。あなたがこうして側にいてくれたことを――無かったことにしたくないもの」

「…………」

 魔女の微笑みにリンは何も返せなかった。頭の中がぐちゃぐちゃで、何の言葉も出てこない。

 ――と、次の瞬間、あるものが視界の隅に映り、リンは小さく声を上げた。

「魔女、様……それ……!」

「……思ったより、早いのね」

 魔女の声は冷静だったがリンの目の前にはそれどころではない光景が繰り広げられていた。魔女の白い指が少しずつ灰色になり、先端からボロボロと崩れつつある。小さな灰となった魔女の身体が風に吹かれて飛んでいく。一つの命が、どうしようもなくリンの手のひらからこぼれていく。

「……時間が無いわ……ねえ、リン。最後のお願い聞いてくれる?」

 いやだ、と叫びたかった。けれどもはやそんなことはできようもない。

 リンは目に溜まった涙を腕で拭い、しっかりとうなずいた。




「……ありがとう、ここでいいわ」

 魔女の言葉に、肩を貸して歩いていたリンはゆっくりとその場に魔女を座らせた。多少軽くなっていてもまだそれなりに重さを残した体に、少し柔らかくなった雪道。おかげで呼吸はだいぶ荒く、一息ごとに喉が焼け付くようだった。その場で呼吸を整え、リンは魔女の隣に座る。

 砦から少し離れたところにある小高い丘。周囲には木もあまり生えておらず晴れていると遠くの山々まで見渡せる――薄曇りの空からは春先の柔らかい日差しが少し水分を含んだ雪面をキラキラと輝かせていて、風は髪の毛を揺らすか揺らさないかというぐらいに穏やかだった。遠くには白い薄雲をその身にまとった白い山々がはっきりと見えている――とても静かで、穏やかな光景。

「――きれいだわ」

「――はい」

 リンもそう思った。なんだか寂しくて、でもどうしようもなく美しかった。泣きたいぐらいに。

「――ここに閉じ込められたとき、私が死ぬのにふさわしい場所だって思ったわ。何もな無くて、さっぱりして、寂しくて――でも、こんなにきれいな場所だったのね」

 魔女はそう言って、すっかり灰色になった手を虚空に伸ばす。まるで太陽の光を掴もうとしているようにリンには見えた。

「もっと早く気づけたら――いえ、気づけて良かった。あなたに――会えて良かった」

「……やっぱり、いやです……!」

 魔女の言葉にリンの押し込めていたものが再び溢れ出す。自分の目の前で命がこぼれていくという現実が、リンの心を焼いていく。

「こんなのって……こんなのってない……! あなたが死ななきゃいけないなんて……そんなのいやです……なのに……!」

「リン……」

 魔女は少し困ったような表情を浮かべる。この期に及んでまでそんな表情をさせてしまう自分に、リンは心底嫌気が差す。

 すると、次の瞬間魔女がその顔を近づけ――

「――――」

 ――なにごとか耳打ちした。短く、美しい響きの単語――それが名前だと気づくのにさして時間はかからなかった。

「今の――」

「私の名前よ――『人食い魔女』になる前の私の名前。あなたに覚えていてほしいの」

 灰色は魔女の首元を伝い、顔にまで広がっていた。崩れ落ちた腕と足が、風に舞って巻き上げられていく。そんな状況でも魔女の瞳はただリンだけを見つめていた。ただまっすぐに、リンだけを。

「――ねえ、リン。私は死なないわ。あなたが生きてさえいればあなたの中で生きていける。『人食い魔女』であったことには変わりないけれど、それだけではなかった私として――それは、なにより価値があることだわ。だから――」

 次の瞬間、魔女の身体からピキリという音と乾いた砂が崩れ落ちるような重たい音が響いた。リンは魔女に向かって腕を伸ばす。だが――


「生きて――生きて――幸せに、なって――」

 

 ――その身を抱きとめた瞬間為す術もなく全て崩れ落ちた。白い灰となった魔女の身体がリンを包むようにして宙を舞う。

「待っ――」

 リンの手をすり抜け、灰は空へと巻き上げられていく。まるで軽い雪のように。やがて高曇りの空と同化して、完全に見えなくなった。

 ――あとに何もない雪原に、呆けた表情のリンだけが残される。

 リンがふと手元を見るとそこには魔女が着ていたドレスが残っていた。思わずドレスに顔を埋め、ひとしきり声を上げないようにして泣く。それから、そっと顔を上げた。瞳に残っていた涙が、風に飛んで乾いていく。

「――忘れるもんか――」

 リンは小さいけれど強い声でつぶやいた。先程まで涙をためていたその瞳には、涙の乾いた痕と強い光があった。

「――あなたが『人食い魔女』で、大事な人だったこと、絶対に忘れない――この世から消したりなんかしない――だから――」

 その先は言わなかった。言う必要もなかった。

 リンは魔女のいたところから背を向け、歩き出した。一度も振り返らなかった。

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