その6
魔女はあの日からリンの部屋で眠るようになった。ベッドで眠る彼女の隣で、自分は毛布にくるまって。リンは自分がそこで寝ると言ったが、魔女はここでいいと言った。
毎夜、寝るまでいろんな話をした。魔女はかつて暮らしていたお城での話や、リンが来るまでどんな風に砦で暮らしていたかを。リンは村での暮らし向きや、数えるほどしか行ったことがない大きな街のことを。これまでお互いに積み重ねてきた沈黙を塗りつぶすように話はつきず、毎夜寝室の暗闇にはかすかだけれど、明るい声が満ちた。
昼には二人で家事や城の手入れ。晴れたときには狩りをして過ごした。リンは魔女に料理など身の回りのことを教え、代わりに魔女は簡単な読み書きなどを教えた。そして夜になるとその日のことを振り返って夜を過ごした。語ることは尽きず、城の外の雪のように思い出は積み重なっていった。
朝が来て、夜になって、また朝が来て。
やがて、一日の吹雪で塗りつぶされた時間が少しずつ短くなっていき、降り積もった雪が緩みだしたころ。リンは魔女と出かけた狩りの帰り、雪の中からひょっこりと顔を出しているその花を見つけた。
春が、近づいていた。
「……ユキワリの花だ」
「……ユキワリ?」
魔女は首を傾げた。リンはその場でしゃがんで道(獣道だが)の脇に咲いている花の近くに寄る。ここ数日続いた晴れ間のおかげで緩くなった雪の底から、少し紫がかった青い花が姿をひょっこりと姿を表している。
「春先になるとこうやって緩くなった雪の中から顔を出すんです。だからユキワリ。……そっかこんなところでも咲くんだ」
「へえ……」
「へえって、魔女様のほうがずっと長くこの山に住んでるじゃないですか。なのに知らないんですか」
「……別にいいじゃない。今まで気にしたことなかったんだもの」
魔女は少しふくれながら、ぷいとそっぽを向いた。その様子を見てリンはくつくつと笑う。
「もうちょっと周りを見ても損じゃないですよ。こんなにきれいなのに、もったいないです」
「……そうかもね」
そう言って、魔女もリンのすぐ隣にしゃがんだ。小さくて薄い花びらを指でなぞり、微笑む。
「……不思議だわ。こんな風に小さくて弱々しい見た目なのに、重たい雪を突き破って咲くのね。とても強い花だわ」
「これが咲くと、春が近いって分かるんです。どれだけ寒くても、そのうち暖かくなってきて、そのうちユキワリ以外にもいろんな花が咲きだす」
「へえ――」
魔女の白くて細い指が愛おしげに、花びらや茎を撫でる。初めて会ったときからは考えられないくらい優しい顔をした魔女に、リンは自然と顔がほころぶ
「……あなたみたいだわ」
「え?」
「この花よ。こんなに小さくて弱々しいのにとても強い。どれだけ辛くても必ず冬を乗り切って花を咲かせる――そうじゃない?」
「……そうでしょうか」
リンは弱々しく微笑む――少なくとも自分の中では、それほど強い人間でないことはどうしようもなく分かってしまっている。だからこそ、ここにいるのだから。
「そうよ。あなたもう少し自分に自信を持ったほうがいいと思うわ。でなければここまで生きてないもの」
魔女はリンの反応に少し不満げな表情を浮かべるが、それ以上は追求しない。眼の前の少女が謙虚なのは――少々謙虚すぎるてらいもあるぐらいだが――いつものことだった。リンは少しだけ胸をなでおろす。
「ねえ、この花採っていきましょう。窓辺に飾りたいわ」
「いいですね。じゃあわたしが持っていきます」
「お願い」
魔女はそう言ってリンが持っていた獲物を持って先を歩き出した。リンはユキワリの花を地面からむしり取り、両手に抱える。細い緑色の茎に、青く薄い花弁。とても強くは見えないその身を指でなぞる。
――生きている、確かにそうだ。本来なら死んでいたはずの自分が今こうして生きて、あの人と二人で暮らしている。けれど――
(――どうして、ここにいるんだろう)
――その思いはずっと消えない。おそらく自分という存在が生きている限り。
リンは青い花弁をもう一度撫でる。触れるだけで破れてしまいそうな薄い花びら。魔女は自分をこの花のようだと言ったが、それはある意味では間違っていないと思った。何かの拍子で生き残ってしまっているが、何かの拍子で簡単に壊れてしまう。それを分けてしまうのは、一体何なのだろう。
(――どうして――)
自分が生きているんだろう――何度目になるか分からないその問いかけに、答えてくれるものはいなかった。
「ユキワリの花? なにそれ?」
そう言うと弟は少し咳をして、寝床から少し起き上がってリンを見た。リンはかまどにかけていた鍋にフタをして弟の方を向かう。5歩もあれば家の端から端まで移動できてしまう、ほっ立て小屋同然の家。冬には冷たい隙間風が常に吹き込んで、住んでいる人間の体を容赦なく冷やしていくが、暖炉などに火が入っていれば多少はしのげた。
弟の寝床はそんな家のかなり奥まったところにあった。隙間風が少しでも当たりづらく、暖炉に少しでも近い場所。もともと体がそれほど強い方ではなく、寝床に伏せっていることの多い弟にとって、そこがいつもの定位置だった。
「だいたいこの時期に山の中に咲く花だよ。とても小さいんだけど緩くなった雪の中から出てきて花を咲かせる。少し紫がかかった青い花びらでとてもきれいなんだ。見たことないっけ?」
「あるわけ無いじゃない。いつも姉さんみたいに男の大人に混じって、山を駆けずり回ってるわけじゃないもの」
「あ、言ったな?」
そう言ってリンが弟の頭を軽く小突くと、舌を出して少し笑った。両親を早くに亡くし、弟も体がそれほど強くないリンの家では、本来同じ年頃の少女がやるはずのない仕事を他の男に混じってリンがこなしていた。
「……見てみたいな」
弟がポツリと言って窓のほうを見た。日が暮れて木戸がかかった窓の外からは絶えず高い風の音が響いている。暦の上ではユキワリが咲いてもおかしくない春先だが、村の周辺にはまだまだ冬の気配がしがみついていた。
「……今度採ってくるよ。近々狩りで山に入るからそしたらきっといっぱい咲いてるし」
「ほんと? 約束だからね」
「うん、約束」
リンはそう言って弟の黒くて柔らかい髪をなで、寝床に戻す。そして台所のかまどのもとに戻った。寝床の方から時折小さな咳の音が聞こえる。
――ここ数日弟の体の調子が良くない。冬になると寝床に伏せっていることが多いのはいつものことだったが、今年は体の調子が悪い日のほうが明らかに多かった。今ももう春先だというのに、ああして咳をしながら寝込んでいる――医者に見せられるなら見せてやりたいが、とてもそれだけの余裕はない――なら、せめて――
(――もしユキワリの花を見せてあげたら、喜んでくれるかな――)
そんなことを考えながら、リンはかまどの前で立ちずさんでいた。
――遠くから高い風の音が聞こえてくる。
魔女は暗闇の中、静かに目を覚ました。体を起こし隣を見ると、リンの寝顔が見え少し安心する。どんな夢をみているのか、その口元には笑みが浮かんでいて、それを見ていると魔女も自分の表情が緩むのが分かった。
――と、次の瞬間。魔女の体がぐらりと揺れ、その場でひざまずく。
崩れ落ちた瞬間、リンが寝ているベッドの端に腕がぶつかり大きな音を立てた。慌てて立ち上がり、リンの様子をうかがう。幸いにも聞こえなかったのか、相変わらず毛布の下でスヤスヤと寝息を立てていた。魔女は小さく息を吐きだし、改めてその図太さに真剣に関心する。
魔女はその場に座り込み、自分の手を見る――ここ数日、時折意識が飛ぶことがあり、その頻度は日に日に増えている。今日リンと外に出たときも、途中何度か倒れ込みそうになった――どうにか、気づかれないようにしているがそれももう限界だろう。
原因は分かっている――「寿命」が尽きかけているのだ。
生贄に捧げられてくるのは大抵老人か子供――「食べた」としてもどうしても目減りしていく。それでもそれまで食ってきた何千もの人間の生命力が残っていたので、どうにか生き延びられてきたが――
安らかな寝息を立てているリンの頬に手を伸ばす。すこしガサガサとしているが、暖かくて柔らかい肌――生きて、自分の側にいてくれる命の暖かさ。今この瞬間、リンを食べてしまえば間違いなくもう少しだけ生き延びられるだろう――けれど――
(――そんな命に、なんの意味があるというの)
魔女は立ち上がり、大きく息を吐く。怖くないなどと、絶対に言えない――けれど、今目の前にいる少女がこの世界から消えてしまうことのほうが、それ以上にもっと怖いことだった。
「私は――あなたを、絶対に『食べない』」
小さいけれど、毅然とした声で魔女はつぶやいた。暗闇に包まれた部屋が、静かに震えた。
リンが砦の中庭で倒れている魔女を見つけたのは、それから何日か経ったあくる日の朝だった。
魔女の目覚めはいつも早い。リンも昔から色々と忙しいのもあって目覚めは早いほうだと思っていたが、魔女はそれよりいつも早く目覚めて砦の中庭や大広間をブラブラとしていることが多かった。もともと眠りが浅いのか、それとも人ならざるものとしての体質なのか。リンの部屋で寝るようになってもそれは変わらず、リンより早く起きて自分の寝床を整えると部屋の外へと静かに消えていた。
だから、その日の朝もリンが目を覚ますと魔女の姿がなかったときもそれほど深くは考えず、いつもどおりのことと流してしまうところだった。ベッドの上で眠い目をこすりながら、隣の誰もいない寝床を見てそのままフラフラと部屋を出ていってしまいそうなところを、その日の朝はなんだか妙な胸騒ぎを覚えた。日に日に布団の外から出たくなくなる寒さが緩くなってきたからか、あるいは部屋のボロボロのカーテンの間から差す光の力が強くなってきていたからか。その予感はここ数日いつも魔女が待っている大広間にその姿が無いことで、確かな実感を持って襲いかかってきた。
砦の中を落ち着かない足取りで探し回っていると、予感がはっきりとした輪郭を結んでいくのが分かった――春になり少しずつ雪が溶けて、山や森が雪に埋もれていたその姿を露わにしていくように。
やがて、たどり着いた砦の中庭でリンはそれを見つけた。石造りの柱の陰から飛び出している細い足――魔女がいつも履いているかかとの高い靴を。
「魔女様――!?」
リンがそばに駆け寄ると黒いふわふわとした塊が石造りの床に横たわっているのが見えた。すぐ横により、抱き起こすとくすんだ銀色の髪が床に垂れる。その身体はリンより一回り大きいはずなのに、羽のように軽い。魔女の白い顔は苦しんでいる様子もなく、ただその意識だけが消え失せているかのようにピクリとも動かない。
――命が、身体から消えかけている。そんな確信がリンの中で芽生える。
「――リン?」
「魔女様!?」
リンの腕の中で魔女が目を覚ます。その声はいつもよりはるかに力弱くて、息を吹きかけるだけで消えてしまいそうだった。
「しっかりしてください! 一体何が――」
「そっか、私――寿命が尽きるのね」
「え――?」
小さくかすれた言葉にリンは呆けた声を出す。そんな様子のリンにお構いなしに魔女は続ける。
「……この体は不滅ではないわ。魔力を消費して維持しているだけだから、人を『食べ』なければいずれは消える。何年かに生贄を『食べて』いたけど――老人や子供ばかりでは目減りしていくばかりだわ」
「でも、それじゃ呪いが――」
「――それもないわ」
魔女は少しだけ息をつく。それから自嘲するような笑みを浮かべて話し出す。
「――言ったでしょ、目減りしていく一方だって。この身体にほとんど魔力なんて残っていないわ。それこそ呪いなんて撒き散らせやしない。
けど、かつてのこの辺の領主と領民が、不作のときの体のいい『口減らし』の手段としてわたしを利用することを思いついたの――王都から調査に来た魔術師にワイロを掴ませて、「魔女が死ぬと呪いが撒き散らされる可能性がある」と都合のいい報告を出させてね。そしてわたしも――それに乗ってしまった――」
魔女の口から絶えることなく真実が吐き出されていく。表向きの事情とはあまりにも違うもの。けれどリンは驚きながらもひどく冷静にそれを受け止めていた――きっと分かっていたのだ。全て、最初から。
考えてみればおかしい話なのだ。魔女が出れない結界を作り、そこで魔力が尽きて朽ち果てるのを待つ。それなのに魔力がカラになって死んだ魔女の身体から魔力の塊である呪いが撒き散らされる――というのは矛盾している。
けれど――重要だったのは可能性とそれに伴う体のいい理由だったのだろう。
決して肥沃とは言えず、冬になれば餓死者も出ることすらある――そんな土地で「魔女が死なないように生かし続ける」という相当な「理由」さえあれば十分だった。生き続けるためにかつてのたくさんの人たちがその嘘に乗り、その後の人たちも心のどこかでおかしいと思いつつも嘘に乗り続けた――おそらくリンも。
リンは思う。自分を含めた「生贄」とされた人々――けれど魔女も同じだったのではないかと。
「――あのときは死にたくないと思った。まだ死ねるほど『生きた』と思えなかった。だから嘘に乗った――けれどもう嫌なの」
魔女の手がリンの頬に向かって伸ばされる。いつにもまして冷たい手が触れた瞬間、ピリピリとした痛みが襲ってくるように感じる。とても冷たいのに――肌が焦げ付くような痛み。
「あなたのように見捨てられた人を食いつづけて生き続けるなんて――もう私にはできそうにない」
――瞬間、リンは魔女の右手を手に取っていた。呆けた顔をした魔女などお構いなしにその手を自分の胸に当てる。寒いはずなのに心臓から焼け付くような熱が押し出され、全身を駆け巡る。
「早くわたしを『食べて』ください!! そうすれば――そうすれば生きられるんでしょう!? だから早く――」
魔女はリンの胸から右手をどかし、首を横に振る。死を間際にしているはずなのにその顔は考えられないほど穏やかだった。
「……なんで……!?」
「言ったでしょ、『食べられない』って――私、あなたのこと好きだもの。好きな人を、『食べられる』わけないでしょう」
「……!」
リンは顔を伏せる。焼け付くように熱いまぶたは、震えていて何かの拍子に決壊してしまいそうだった。
「……どうして……」
リンはか細い声で問いかける。未だにその手には魔女の手が強く握られていて、小さく震えていた。
「どうして……またひとりぼっちにするんですか……どうしてみんなわたしを置いていくんですか」
「リン……?」
魔女がリンの頬に手を当てる。胸の奥から熱いものが喉をせり上がってくる。もう隠しておくことはできそうにない。理由もない。
この人に――わたしの全てを知ってもらうのは今しかない。
リンはかすれるような声で、話す。
「弟なんて――いないんです。ずっと前に、亡くなったから――」
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