その5
――いつもと同じ夢だと思った。
黒い濁流、流れ込んでくる人の感情、そして存在すらかき消す虚無へと落ちていく――
けれどその夜は違った。真っ黒な闇の奥に見える小さな光、その中に落ちていき――気がつくと魔女は、部屋の中にいた。
くすんだ金色に包まれた、豪奢な作りの広い洋間。その真ん中にある天蓋付きのベッドに魔女は寝かされていた。――いや、違う。寝かされていたのは別の「誰か」で魔女はその「誰か」の目を通して見ているだけだった。そうしているうちに魔女は次第にここがどこで、寝かされている人物が誰かを思い出す。
瞬間、魔女は叫ぶ――ダメ、「あなた」はここにいちゃいけない。
そう思うが、内側から声は届かない。そうこうしているうちに「誰か」は右手を無茶苦茶に振り回しだした。何かを掴み取ろうとするかのようなやその手は、やがて「誰か」のすぐ脇にいた一人の少女に向けられる。次の瞬間、声が響く。もう二度と聞くことの叶わない、優しい声。
「――姫様?」
そして――
――暗闇の中、眠っていた魔女は跳ね起きた。
呼吸は荒く、浅くて早い。全身はひどく震えていて、汗びっしょりだった。しばらく暗い広い空間にハアハアと犬のように呼吸を撒き散らしたあと、両手で顔を覆う。声にならない叫びが、喉の奥から漏れ出る。
――いつもと同じ夢だと思った。黒い濁流、流れ込んでくる人の記憶の残りカス、その果てに待つ黒い虚無――今や絶え間ない苦痛として彼女を襲うもの。そして最後にはっきりと見えたもの――
(「あの子」――)
ずっと目を背けてきたものの象徴。自分という存在の起点。それを今眼の前に突きつけられている。
原因は分かっている――あの娘だ。
自分は「あの子」を思わせるあの娘の存在に安らぎを見出しつつある。それはこの砦に来てから――いや、その前からずっと――彼女の人生に欠けていたものであり、もう二度と手に入らないものだと思っていたものだった。それゆえにあの娘を――自分を恐れながらも手を伸ばしてきたあの娘を――自分が生き永らえるために失うことを恐れている。
膝を抱え、身体を小さくする。――今さら、許されるはずもないのに。そう思う。自分が死なないためにどれほどの命を「食らって」きたか。今にして思えば、黒い渦の夢を見るたびにそれを思い出してきたのだ。それなのに――
やがて、魔女は立ち上がる――覚悟を決めなければ。そう心に言い聞かせ、広間の扉を開き外に出る。
砦の廊下は相変わらず突き刺してくるような冷気に満ちていて、一歩歩くごとに身体が芯まで冷えていくようだった。時折外から高い風の音が聞こえてくる。しかし今の魔女にはそうした外から入ってくるすべてのものが身体を素通りしていった。もっと早くこうするべきだったのだ。そう思いながら、ともすれば止まってしまいそうな足を早めていく。
魔女はそうして自分の寝室――すなわち今はリンが寝泊まりしている部屋へと向かっていく。けれど少し走るような足取りは、早くなったり遅くなったりを繰り返していた。
部屋の鍵は開いていた。不用心な、と思いつつもドアを静かに開け、部屋に侵入する。無造作に置かれた調度品の中でも特に目立つ天蓋付きのベッド。その中でリンは無防備に眠り込んでいた。魔女が入ってきたことには一切気づいていないようで、呑気なものだと半ば呆れながらその寝顔を見つめる。その無邪気な姿を見ているとためらってしまいそうで、目をそらしながら右手を娘の方へと伸ばした。
――そう、簡単なことだ。この子の胸に手を当て、「食べたい」と思えばそれで終わる――
――が、そうならなかった。
確かにリンの胸に手を当て「食べたい」と願った――だが、娘の身体は吸収されず、相変わらず彼女の目の前で寝息を立てている。おかしい、なぜ――そう思って自分の右手を見つめ、気づく。
――望んでいないのだ。心が、彼女を「食う」ことを。
次の瞬間、魔女はその場で座り込み声を押し殺すように泣き出した。目からは細い涙が流れ、喉の奥から引きちぎれたような嗚咽が漏れ出す。ずっと、ずっと押し殺してきた感情が堰を切って溢れ出し、魔女を押し流していく。
私はこの子を「食べられない」――その結論がどうしようもなく突きつけられる。いやきっとそのずっと前から――自分は誰かを犠牲に――無慈悲に奪っていることを自覚してなお生きられる人間では無かった。
「どうして――」
魔女は眼の前の暗闇に向かって問いかける。こんなことを言う資格などないと分かっている。だが、問わずにいられない。
どうして、自分はここにいるのかと。
どうして、自分はただ、人並みに善良で無知な娘でいられなかったのかと。
「――魔女様?」
眠たげな声が魔女を現実に引き戻す。見るとリンが目をこすりながらこちらを見ていた。その様子を見て魔女は自分がしようとしていたことを思い出し、深い羞恥に包まれる。
「なんで、ここに――? というか、泣いて、ます……?」
「それは――」
ダメだ。もう一瞬だってこの子の前に立っていられない。そう思って魔女はすっくと立ち上がる。少しでもこの子の視界から離れたい、それだけしか考えられなかった。
――が、次の瞬間手を掴まれた。
見るとリンが魔女の方をまっすぐ見つめ、その手をしっかりと掴んでいた。その視線に耐えきれず、魔女は目を逸らす。
「……離して」
「……いやです」
リンはためらいがちに、しかし毅然とした声で言い放った。そしてその手を一段と強く握ってくる。まるで自分の半身をつなぎとめようとするかのように。
「……ここに、いてください。何があったか分からないし、わたしにはきっと分からないことかもしれないけど、話せば楽になれるかもしれないでしょう?」
「……聞いても、幻滅するだけだわ」
「それでも……このまま帰したくないです」
リンはますます手に力を込めてきた。もう絶対に離してくれないだろう。そして魔女にはもはやその手を振り払うだけの余力は残っておらず、その場にへたりこむしかなかった。
暖炉の中で赤い小さな火が、パチパチと燃えている。
魔女はベッドの縁に背を預けるようにして座りながらぼんやりとそれを見つめていた。リンはといえば時折暖炉の中に薪をくべながら、小さな火を大きく育てている。だいぶ手慣れたもので、火は薪を放り込まれるたびにその体を大きくしていった。
「……ここの暖炉使えなかったはずだけど」
「掃除しました。暇だったので」
「……そう」
もういまさら何を言われても驚かない。まったくたくましい子だと改めて魔女は思う。
「寒くないですか?」
「……大丈夫よ」
魔女の体にはリンが持ってきた毛布がかぶさっている。リンは「良かった」と言ってごく普通に隣に座ってきた。あまりに自然なその態度に魔女は思わず身を固くする。
「……私は魔女よ、寒くたって死にはしないわ」
「……死ななくても、寒いのは辛いですよ」
リンは膝を抱えながら言った。その言葉に魔女は自分の周りの空気の冷たさを思い出す。そして暖炉の火の暖かさも。眼の前にいる少女が、ちゃんと生きて自分とこうして話していることも。
しばらく互いに無言だった。リンも魔女も一言も話さず、時折暖炉の火が爆ぜる音と、外で吹き荒れる風の音だけが部屋の中に響く。やがて魔女がポツリと、「ごめんなさい」と小さくつぶやく。
「あなたが寝てる間に……『食べよう』としたわ。最低だった。ごめんなさい」
「いえわたしはそんな……」
リンは何か言いかけてすぐさま口を閉じる。こちらの意志を汲んでくれたようだ。魔女は満足し、また暖炉の中の火へと目を向ける。
「……優しいですよ、魔女様は」
「え?」
リンの小さなつぶやきに魔女は驚いて返す。リンは魔女の顔をまっすぐ見返してきた。オレンジ色に照らされた顔は優しく微笑んでいる。
「……だって、優しくない人はきっとあんな風に泣いたりしないです。誰かを傷つけるようなことをしてしまいそうになって泣いたりなんか」
「そんなこと……ないわ、私は――」
そこまで言いかけて魔女はハッとする。自分は今「あのとき」のことを話そうとしている。ずっと言いたくても言えなかったことを、この子に――
魔女は一瞬その身を固くし、口ごもる――だがやがて意を決したように話しだした。
「私は――優しくなんかないわ。だからこうしてここにいるんだもの」
魔女は小さいけれど一語一語はっきりとした言葉で話しだした。その真剣な様子にリンも姿勢を正し、魔女の顔を見つめながら聞き入る。
「……昔、私がまだ人間だったころ私付きの従者の子がいたの。あなたと――そう変わらない年の女の子だった」
魔女は思い出す。栗色の短い、ふわふわとした髪の毛を揺らしながら、あちこち走り回っていた小さな体の彼女を。
「私が暮らしていた地方の貴族の家の末っ子でね。私のことをいつも『姫様』と呼んでいたわ。確かに領主の娘だけどそこまで大層な身分でもないし、恥ずかしいからやめてと言っても聞いてくれなくて」
――少なくとも私の中では「姫様」ですよ――そう真面目な顔で断言されたことを思い出す。慕われていることは間違いないのだが、少々大げさにすぎるのでは思い何度かたしなめたのだが、聞いてくれなかったので結局好きに呼ばせた。その無条件で寄せられる信頼が時折むず痒く感じるときもあったが――愛おしいと感じるときのほうが多かった。
「小さい体をいつもパタパタと動かして、いつも私の後ろを付いて回っていたわ。よく働いて、よく笑って……本当に、いい子だった」
パチパチと音を立てて燃える火を見つめながら、魔女はここ数年出したこともないような声で話していたことに気づく。リンはといえば魔女の言葉を一字一句聞き漏らしたくないとばかりに耳をすましていた。そのどこか滑稽なぐらいに真剣な様子に、魔女はあの子の姿を重ね合わせる。
「あの日――この体になって、最初に『食べた』人間があの子だった。
もともと弱っていたのもあって、悪魔と取引したあとも私の体が死にかけのそれであることに変わりなかった――騙されたのか。あるいは幻覚だったのか。とにかく『死にたくない』という思いのまま虚空に手を振り回して――その先にあの子がいたの」
その瞬間起こったことは忘れたくても忘れようがない。側で看病していたあの子の体が、手を伸ばした瞬間、黒い砂となって魔女の身体の中に入って消え失せた。
「何が起きたのか分からない――いえ、何が起きたのか『すら』分からないままだったでしょうね。私自身ですら分かっていなかった。でも、さっきまで全く動きすらしなかった体が嘘のように軽くなったのが分かって、何が起きたのか分かった――私は、あの子を『食べた』んだって。
――そこから先のことはあまり思い出したくない。あの子を『食べた』瞬間、人並みに優しくて愚かだった娘は壊れていなくなった。そこにいたのは焼け付くような怒りと悲しみだけに取り憑かれた『魔女』だけだった――そして、あとは皆知っての通り」
リンは神妙な顔をして聞いていた。その表情からは何を考えているのかは魔女には読み取れない。けれどそれを見ていると不思議と安らいだ気持ちになれた。
「――死にたくなかった、けどこんな風に生きたいわけでもなかった――ただ、普通に生きて、死んでいきたかっただけなのに、今はこんなところにひとりぼっちでいる――
――けど、お似合いの罰だわ。たくさんの誰かを――あの子を食い物にして生き延びた――楽なほうに流れてしまった私には」
外からは一段と強い風の音が聞こえてくる。暗く、ほんの少し埃っぽい部屋には時折薪が爆ぜる音以外なんの音も響かない。ふと、久しぶりに魔女は強い孤独を感じた。これまでも何度となく感じてきたもの。いつもそこにあって離れないもの――
「――でもそのおかげでわたしはここにいます」
叫ぶような声が、暗闇に響いた。魔女は隣のリンの顔を覗き込む。少しだけ泣きそうな目をしていた。
「――あなたがあの日助けてくれたから、こうして生きてます。こうやって、あなたと話ができてます。あなたと一緒だから――ひとりぼっちにならずにすんでます。あなたに――」
リンの手が隣りにいる魔女の手を強く握ってくる。冷たくて――けれど温かい手。
「あなたに『食べられる』までは――わたしが、そばにいます」
リンの手に力が込められる。ひどく弱々しくて、それなのに、魔女はそれを振り払えない。
「――勝手だわ」
「はい」
「――無責任よ」
「はい」
「――何もできないくせに」
「はい」
言葉が重ねられるたび、魔女の手を握る力が強くなる。彼女の手を、振り払えなくなる。
けれど、それはそれほど悪いことではないような気がした。
魔女は虚空を仰ぎ、小さく息を吐く。そして少し緊張しながら切り出した。
「――ねえ、あなた名前は」
「え?」
「名前よ。あるでしょう」
「えっと、リンです」
「じゃあリン、何かお話して――そうしたら許すわ、あなたのこと」
リンは一瞬ポカンとした顔を浮かべていたが、ややあってその顔が輝くのが薄暗闇の中でも分かった。その表情の変わりぶりがなんだかおかしく、愛おしい。
「えっと、じゃ、じゃあ」少し言葉を上ずらせながらリンは話し出す。赤い小さな火に照らされた暗闇の中に、小さくてかき消えてしまいそうな声が響く。それを聞きながら魔女は、黒い水面に浮かぶ船を思い浮かべる。光を飲み込んで鈍く揺らめく水面と、そこに浮かぶ小さな小舟。今までそこに乗っているのは自分だけだったが、今はリンが一緒だった。
そして、それは一人で浮かんでいるよりずっとマシだと思えた。
翌朝、リンはいつも通りの時間に起き、いつも通り食事を大広間にいる魔女の元へと持っていった。魔女はいつも通り仏頂面でそれを受け取り、リンもまたそのまま出ていこうとした――けれど違うことが一つだけ起きた。
魔女がその場で器の中の料理を食べ始めたのだ。目を丸くしているリンを尻目に勢いよく料理を口の中にかきこんでいく。
そして、すっかり空になった器をリンに見せると、ニヤリと笑った。
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