その4

 ――光さえ届かない、上も下もない暗闇の奥。

 その中央に渦が巻いていた。

 轟々と音を立てて、周りのものを飲み込みながら流れ続ける真っ黒な濁流。その中には、

 怒りが、悲しみが、憎しみが、

 諦念が、無念が、疑念が、怨念が、

 ――ありとあらゆる人間の感情と記憶が渦を巻いて、色を飲み込みすぎて真っ黒に染まった濁流となって流れている。もはや個別の記憶や意志はほぼ存在しておらず、ただエネルギーとして流れているだけだが、ときたまその残りカスが「彼女」の中に飛び込んできてくる。しかしもうずっとこの夢と付き合っている「彼女」はその一つ一つにいまさら動じることはない。

 動じることはない――はずなのだ。

 ここ数日の「彼女」は違った。

 自分の中に流れ込んでくる「他者」の記憶が、苦痛に変わりつつあった。人の幸せな記憶が、辛い記憶が、悲しい記憶が――自分が「食べて」きたものの記憶が、流れ込んでくるたびに強い胸の痛みを覚える。

 今まではこんなことはなかった――いや、違う。ずっと感じてはいたのだ。その痛みを見ないように触れないように忘れたふりをしていただけで。そしてその痛みは今になって「彼女」を襲いつつある。

 濁流に流され、その中心へと向かっていく。黒い渦の中心。おそらくその始まりの場所。自分の存在の輪郭すらかき消してしまう暗闇の底へと降りていくと、やがて小さな光が見えてくる。か細くてかき消えてしまいそうな、けれど暖かな光。そして「彼女」が、二度とその手に触れることができないであろうもの。

 ――やがて声が響く。

「――姫様?」

 ――そして「彼女」は目を覚ます。




 ――目覚めると魔女は自分が泣いていたことに気づいた。

 いつもどおりの大広間。そこの隅っこで眠っていた魔女は締め切った窓の隙間から射す日の光で目を覚ました。固くなった身体をその場で伸ばしてほぐす。体の痛みは寒いところでうずくまって眠っていたからなのか、あるいはあの「夢」を見たからなのか、あるいは――その両方なのか。

 あの「夢」――おそらく普通の人間からしたら夢に当たるのだろう――を見るのは今に始まったことではない。魔女の中には自ら食べた人間の「魂」――すなわちその人間の生命力が常に渦巻いている。すでに個別の意識や記憶などはほとんど残っておらず、ただのエネルギーとして彼女の中に存在するのみだが、往々にして「食った」人間の記憶や知識の「残りカス」を引き出すことができた。事実この砦の中で小さいながらも畑を耕し食料を作ることができたのも名前すら分からない誰かの記憶のおかげだった。おそらく生前はこの地域の農夫だったのだろうが今となっては知りようもない。

 あの「夢」もまたそうした「残りカス」の産物だった。時折ああして魔女は黒い濁流の渦とその中に流れる「他人の記憶」のイメージを睡眠中に見ることがある。「記憶」と言っても、程度の差こそあれぼやけた風景と、それに付随するシンプルな感情のイメージが流れ込んでくるだけではっきりとした像は結ばない。そして最後は必ず光さえ塗りつぶされるような真っ暗な空間に落ちて終わる――何度も見てきた夢だ。いまさら動じるものではない――けど今朝は――

 ――人の記憶が、感情が流れこんでくるたびに強い痛みを感じた。そして最後に見た光景――か細くて今にも消えそうな光――その中で聞こえた声――

(――なんで今さら)

 まだほんの少しだけ湿っている目元をさすりながら魔女はその場でしゃがみ込む。本当に――本当に今になって何故心を痛めているのか。そんなふうに自らを自嘲し、なじる。自分はそんな風に心を痛めることすら許される身分ではないというのに。本当に何故――とそこまで考えて魔女は自分のすぐ横になにかが置いていることに気づいた。

 木でできた食器の中に完全に冷え切ったイモの入ったスープが入っている。いつもあの娘が魔女に汁物を持ってくるときのものだ。魔女は少し寝ぼけた頭でその意味を考え――次の瞬間眠気が吹き飛んだ。

(あの子――!!)

 すぐさま飛び起きて大広間のドアのほうへと向かう。案の定いつも寝るときにかけておく蝶番がかかっていなかった。おそらくまだ魔女が寝ている間に鍵がかかってないのをいいことに部屋に入ってきて、そして――

(見た――? 見られた――?)

 自分が背筋を丸めて、痛みを堪えるようにうずくまって眠る姿を。涙を流しながら眠る姿をあの娘に――?

 魔女は広間を飛び出した。砦の廊下をずんずんと猛スピードで進み、砦の入り口の戸を半ば壊す勢いで開け、外に出る。自らが進んだ後に、黒く細長い点々を付けながら、娘の元へと猛然と向かう。魔力で直接娘の元へと飛んだほうが早いのだが――そのことには一切思い至らない。

 雪のせいで微妙におぼつかない足元を気にしながら、魔女は自分の失態を責める――一番見られたくない、見せたくないものをあの娘に見せてしまった。その顔は怒りか、羞恥か、あるいは外の寒さのせいか――ほんのりと朱に染まっている。許してはおけない、いざとなれば「食って」やる――と考えるその一方で、別の思いもまた奥底にあるのも彼女は分かっていた。

 ――見られたのがあの子で良かった、と――




 さっきまで頭の上にあった太陽が灰色の薄い雲に隠れてうっすらとしか見えなくなる。リンが息を吐くと目の前が白く染まった。ほのかに熱をもった白い霧はすぐに周囲に溶け込んで見えなくなる。少し冷えてきた――首筋に巻いた布を口元までずりあげながら、リンはぼんやりと虚空を見上げる。

 いつもの林の中。リンは右手に弓を持ち、木陰に隠れながら例によって獲物が出るのを待ち受けていた。砦に来てから、もう何度目かになる狩り。すでに勝手知ったるもので毛布を仕立て直した厚手のマントにくるまり、できるだけ身を小さくしながら獲物が巣穴から出てくるのを待つ。先程までは太陽が出ていたのもあって十分に寒さを防いでいたが、今は少しばかり冷気が染み込んでくるようだった。この分だとしばらくしたら細かい雪がちらつき出すかもしれない。

 ――と、目の前の茂みの中から不意に音がしてリンは身体を強張らせた。弓に矢をつがえ、いつでも撃てるように構える――もちろん周りに注意を払うのも忘れない。時間にすればほんの少し、だがずるずると引き伸ばされた時間の果てに、灰色のふかふかとした体毛をまとった獣が姿を現す。

(狼――!)

 いまだ生々しく残る先日の記憶。弓を握る手に不必要な力がはいるのを感じる。数は一匹。身体の痩せ具合から見るにこの間襲われたやつとは別なもののようだったが、群れが近くにいないとは限らない――いやいると考えたほうがいいだろう。幸いこちらには気づいていないようで、背後に別の個体がいる気配もない。仲間を呼ばれる前に始末したほうがいいだろうか――リンがそう考えていると同じ茂みのなかから何か飛び出してきた。同じ灰色の体色の獣――ただし四肢や身体が明らかに短く、ふかふかとした冬毛に身体全体が埋もれているようにも見える。まるで灰色の毛玉だ。

(子供――)

 リンが矢をつがえたまま構えていると、同じ草むらからもう一匹灰色の毛玉が飛び出してきた。そのままもう一匹のほうにぶつかって雪の上をゴロゴロと転がりだす。どうやらじゃれて遊んでいるようだ。母親の方はといえば周りを警戒しつつ、二匹が仲良く遊んでいる様を愛おしそうに眺めているように見える。

 リンは弓を構えた手を下ろす。寒さは相変わらずだが、周囲の空気が少しずつ弛緩していくように感じた。一応周りに気を付けつつその場に座り込んで親子の様子を観察する。すると不意に、狼の灰色の体毛が魔女の髪と重なった。

(――泣いてた、よね)

 ――今朝、魔女のいる大広間にいつも通り食事をもって向かうと、普段はしっかりと鍵がかけられている扉が開いていた。中に入ると広い部屋の奥、その片隅に魔女が丸くうずくまって倒れている。何事か――慌てて近づくと、床に布を敷き寝息を立てているだけだと分かってほっとする。いつもこんな風にして眠っているのか――そんな驚きと共に近づくとその体が小刻みに震えているのに気づいた。

 大きいと思っていたその体は想像以上に小さく、丸くうずくまるとリンの両手で抱えて持てそうに感じた。今、魔女はそんな小さな身体をさらに圧縮して身体を震わせながら眠っていた。固く、力いっぱいに閉じられたまぶたからは細い涙の筋が静かに流れ口元からは言葉にならない嗚咽が漏れている。――泣いている。そのことに気づくのに少し時間がかかった。

 手に固く握りしめていた料理の入ったお椀を魔女のすぐそばに起き、音をさせないように急いで部屋を出た。そして砦の廊下を小走りで駆け抜け、自分の部屋に戻った。見てはいけないものを見た――そんな気がした。

 それからしばらく自室(厳密には魔女の部屋だが)でボーッとしていたが、日が高く登ってきてから狩りの支度をして砦を出た。正直少しだけ――砦から離れたかった。そして今に至る。

 ――二匹の狼の子供はあいかわらず互いを軽く噛んだり組み付いたりしながらじゃれていて、母親は周囲を警戒しつつそれを見守っている。リンはそれを見ながらほんの少し身体の奥がじんわりと暖かくなるような感覚をおぼえるが、今朝見た光景が身体の内側をずっと駆け巡っていて、それが頭の中を通り過ぎるたびに心の奥に冷たい隙間風が通るように感じる。

(なんて――)

 ――なんて寂しい光景だったんだろう。リンは眼の前のどこでもない場所を見つめながら思う。あの人は――自分が来るまで、ずっとあんなふうに生きていたのだろうか。そのことに思い至り、リンはひどくいたたまれない気分になる。普段は自分が今使っている部屋で眠っているとしても、今朝見た光景はあまりにも――彼女に「似合いすぎて」いた。誰もいない大広間の片隅で一人小さくうずくまり、身体を震わせ泣きながら眠る――あれが彼女の本質ならば――

(――いくらなんでも辛すぎるよ)

 ――少なくとも自分には弟がいた。身内がおらず厄介者でしかない小さな村の中でも自分の帰りを待っていてくれる「誰か」がいた。けれど彼女にはそれすらいない。あの砦にずっと一人ぼっちで、朽ち果てることすらできず生きている――

(――なんにも、できないのかな)

 リンは手のひらを強く握りしめながら、そう思う。本当は分かっている、あの魔女に――自分ができることなど恐らくなにもないのだと。そもそもいつ「食われ」てもおかしくない身分だというのになぜ彼女を慮る必要があるのか――自分の中の冷めた部分がそう主張する。それでも――

(それでも――あんな寂しいところに一人ぼっちにしておくのはイヤだ――)

 今この場で彼女の抱え込んでしまったものを見なかったことにしてしまうのは――彼女が自分でも知らない間に伸ばしている手を振り払ってしまうのは――それこそ自分自身を見捨ててしまうことのような気がした。たとえ彼女がそれを望まなかったとしても。

「――何してるの」

 ――後ろから響いてきた怜悧な声で、リンは現実に引き戻される。慌てて振り返るとそこには当の魔女が仏頂面で立っていた。思わず後ろに飛び退くようにしてリンは後退りする。後ろに狼の親子がいることは完全に頭から飛んでいた。

「何よ、そんなびっくりして」

「いや、びっくりしますって! 一体どうしたんですか」

「えっと……」

 魔女は言いよどむ。そこでリンは魔女のドレスの裾一面に粉をふったように雪がついていることと、白い顔がほんのり朱に染まっていることに気づいた。心なしか呼吸も荒い。以前狼に襲われたときにリンのもとまで「飛んで」きたときとはえらい違いだった。どういうことかとリンは考え、すぐに答えにたどり着く。

「……ひょっとしてここまで走ってきました?」

「……それが何か?」

「い、いえ」

 リンは首を横にブンブン振った。こないだのように魔力で「飛んで」くれば良かったのではと少し思ったが、言えばその真っ赤な顔がますます赤くなりそうだった。しかし、ここまで来たということは――

「あの――すいません今朝は、その――」

「……別にいいわ。私も不用心だったから」

 魔女はいつも通りの白いそれに戻りつつある顔で言った。冷たくなってきた外気もあってか少し冷静になってきているようだった。それから冷たい顔を少し歪めて微笑む。まるで自嘲するような笑み。

「――バカみたい、こんなの」

 そうつぶやいて足元の雪を軽く蹴り上げる。何度も何度も。そのたびに宙を舞った雪が陽の光を反射して小さくきらきらと輝く。

「どうでもいいことで怒って、バカみたいに何も考えないで走ってきて――おかしいわ、こんなの」

「――どうでもよくないですよ」

 リンの言葉に魔女が蹴り上げる動作を止める。キョトンとした顔をこちらに向けた魔女にリンは言葉を継ぐ。

「偶然とはいえ、あなたの部屋に勝手に入ったのは本当だし――誰にだって、見せたくないものとかきっとあってそれを勝手に見ようとしたのは本当だし、それを怒られるのは当然のことだから――だから、怒っていいんです。だってあなただって――」

 そこで話が切れる。なんと言えばいいのだろう。リンが困っていると魔女が微笑んだ。先程とは違う、慈しむような笑み。

「――大丈夫よ、もう怒ってないから」

「でも……」

「いいの」

 魔女はそう続けて、リンの手を取る。それでそれ以上続けられなくなった。

「ところで――さっきから何見てるの」

「ああ、あれです。あの――」

 そう言ってリンが後ろを振り返ると狼の親子はすでに姿を消していた。リンたちの物音に気づいてどこかに行ってしまったのかもしれない。

「あー、行っちゃったか……」

「何か珍しいものでも?」

「狼の親子がいたんです。母親とちっちゃいのが二匹」

「へえ……撃たずに見てたの? 気づいてないならそれこそ好機でしょうに」

「……そういうところですよ、魔女様の」

 リンは少しムスッとした顔を魔女に向ける。それから親子がいた方向を向いて、薄い笑みを浮かべた。

「……撃てないですよ、あんなに幸せそうだったのに。きっと魔女様だって、撃てなかったと思いますよ」

「……そうかしら」

 魔女はリンと同じ方を見ながら答えた。その視線はどこか遠く、別の場所を見ているようにリンには思えた。

「私は――あなたみたいに優しくないわ」

 そう言って魔女は背を向け立ち去る。リンはそれに一瞬何か言おうとして、何も言えずに見送った。しばらくするとあたり一面に細かい雪が舞いはじめ、世界を一段と白く染め上げていった。

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