その3

 白い冷たい日差しが雪原に降り注いで輝いている。

 少し前までの天気が嘘のような外の眩しさに、リンは目を少し細めた。外は相変わらず突き刺してくるような寒さだが、日が照っている分少しだけ温かく感じる。薄く力弱い日差しだが、それがあるだけで山や森はガラリとその姿を変えてくる。

 リンは周囲を少しだけ確認し、ドアを開けてそっと外に出る。砦の入り口周りにも雪はだいぶ積もっていたが、少しだけ柔らかくて湿っているように思えた。リンは小さく深い足跡を雪原に刻みつけながら森の方向へと向かう。時折冷たい風が吹き白い地面の上を滑っていくが、ごくごく穏やかなもので身体を揺らすほどのものではない。一歩ごとにザクザクという音を立てながら、白い息を切らしてまっすぐ進む。

 右手に目を落とす。半月状に反ったしなやかな木の棒の両端に、何本かの糸をって一本にした弦を張った簡素な弓。砦に残っていたものをリンが修理したものだった。弦を左手で弾くとブウンという音を出して震える。村で使っていたものよりはるかにボロいが、とりあえず使えなくはない。たぶん。

 後ろの方を振り返ると、魔女の砦が目に入る。森の少し開けた、小高い丘に立つ砦は、灰色の石の表皮を弱々しい日差しの中に晒してそこに立っている。逆光でうっすらと黒く染まったそれは、相変わらず強い存在感をもってそこに立っているが、同時にそれはひどく薄ら寂しい光景のようにも思えた。

 家はそこに住む人間の姿を映し出すと、聞いたことを思い出す。すると次の瞬間打ち捨てられた砦が、ふいに魔女の姿に重なった――




「――狩りがしたい?」

 リンの言葉を聞いて魔女が冷ややかな声を出す。リンは少しうつむきながら「は、はい」と応えた。

 リンが魔女に砦に連れてこられてから数週間が経過しようとしていた。あの後も魔女はリンを「食べる」ことはせず、彼女は魔女に「食われる」のを待つ日々を送っていた。「待つ」と言っても魔女が日々食べたり飲んだりしなくてもいいのと違って、リンはそういうのがなければ当然飢え死にする。魔女は一切リンの世話等はしてこなかったが、幸いキッチンなど砦にあるものは自由に使っていいとのことだったので、リンはありがたくそれらを拝借した。おかげで衣食住等人並みの生活を送ることができたが――

「たまには普通の肉が食べたいと思いまして――ここ数日天候もそんなに悪くないですから巣穴の中から外に出てきてる動物も何匹かいるんじゃないかと」

「干し肉じゃダメなの。少しばかりあったでしょう」

「ダメじゃないけど、何日も食べてると――」

「ふうん」

 魔女は椅子――広間にあったえらい人が座っていたらしい背もたれがひどく高いものだ――の肘掛けに頬杖を付きながら少し不満げな声を出す。ここらへんはどうもピンと来ないらしい。リンが半ば諦めていると魔女が口を開いた。

「――道具は? というかやったことはあるの?」

「え、あ、はい。砦の中に弓と矢がありましたので直せば使えると思います。あと狩り自体は何度か――」

「ふん――」

 魔女はリンの方を値踏みするように見つめてくる。すでにここ数週間の間にもこうしてリンは魔女と何度か話しているが、その赤黒い瞳で見つめられるたびに強い緊張感を覚えずにいられない。ましてや黙っているとなおさらだ。いつその「恐ろしい魔女」としての部分をむき出しにしてリンに襲いかかってくるか――そういう風に考えてしまう。

「――まあ、そうね、結界の中から出なければいいわ」

 ――魔女から出てきた言葉は意外なものだった。リンは驚いて聞き返す。

「え、いいんですか」

「あなたのことは常時『見てる』し、何か不審な動きをすればすぐに分かるわ――逃げようとしなければこちらとしては特に何もする気はないとだけ言っておく」

「でも――」

「しつこいわよ――そもそもこっちがさっさと『食べない』のが悪いわけだし、あんまり無茶な要求してこなければなるべく叶えるわ――ただ」

「――ただ?」

 魔女はおもむろに立ち上がってリンに近づき、その赤黒い瞳で見つめた。一瞬その瞳が鈍い光を放ったような気がして、リンは身を強張らせる。

「もしあなたが結界の外に逃げるような素振りを見せたら――その時はすぐさま駆けつけて『食べる』から」




 雪が積もった森の中。その中に小さな穴ぐらがある。小さな足跡がなければ気づかないが野うさぎの住まいだ。

 そこから少し離れた地点でリンは木の陰に隠れ、息を殺していた。

 ここは数日前にすでに目をつけていた。魔女は結界に近づき過ぎさえしなければ砦の外に出ることを許していたので、ここ数日の間、特にすることもないときは気晴らしにあちこち歩きまわっていた。するといくつか穴ぐらを見つけた。何度か村の大人に混じって狩りをしたときに見たことがある――野うさぎの巣だ。

 それを見たときリンは狩りをすることを思いついた。我ながらわがままだとは思うが――正直干し肉には飽き飽きしていたころだった。幸いある程度経験はあるし、道具――壊れているが直せば使えそうな弓――なら砦内にあるのを確認していた。

 とはいえ――経験があるとはいえほぼ素人に近いリンがそうそう獲物を取れるはずもなく、すでに二匹ほど逃していた。日暮れも近い。たぶんこれが最後だ。

 気配をなるべく消し、物音を立てないようにしながら座り込んでいると魔女のことが思い浮かんだ。というよりここ数週間考えることといったら彼女のことだった。

 ――あのとき、思わず手渡したスープは結局手すらつけられずに大広間のドアの前に置かれていた。リンは外に放置されてすっかり冷たくなったそれを持ち帰り外に捨てたが、翌日も、その翌日も自分が作った料理を魔女の部屋の前に置いておいた。

 理由は分からない――けれど放っておけなかったのだ。「要らなくても『必要無い』わけではない」そう言った瞬間の魔女の表情が強く突き刺さっていた。彼女の表情はまだ、自分でもよく分からない何かにしがみついている――そういう弱さを持っていて、それはどこか自分自身のことのような気がした。――と、次の瞬間、茶色のふわふわとした毛のかたまりが姿を現しているのを見て、慌ててリンは構える

 ――野うさぎだ。少しだけ暖かくなったので巣穴から出てきたのだろう。緩くなった雪の上をぴょこぴょこと動く姿からは強い警戒は感じられない。こちらには気づいていないようだった。リンは息を殺し、弓に矢をつがえる。

 野うさぎの行きそうな方向を狙って――弓の弦を放す。矢は空気を切りつけて飛び――野うさぎの身体に命中した。

(よし――!)

 リンは陰から飛び出し、獲物のほうへと向かう。野うさぎは射抜かれた直後もしばらく林の中を走り続けていたがやがて少し開けたところで止まった。リンが近づくと矢が身体の真ん中に深々と突き刺さりそこから血が流れ出ている。心臓か、そこに近い太い血管に当たったのは確実だった。リンは懐からナイフを取り出す。

(――ごめん)

 ナイフをウサギの身体の奥深くへと突き刺し、息の根を止める。先程まで命が宿っていた亡骸を前に少しの間感傷に浸ってから、急いで持っていた布袋の中にそれを入れた――どのみち一人分だ、これだけあれば十分だろう。地面に落ちている赤黒い染みをなるべく見ないようにしながらリンはその場を後にしようとする。が、次の瞬間足が止まった。

 ――木の陰の中になにかいる。それもたくさん――

 リンはその場で硬直し、身構えた。影は薄暗がりの中からリンの姿をうかがい、注意深くこちらに近づきつつある。リンもそれに合わせて少しずつ後退するが、足が思ったように動かずじわじわと距離を詰められていく。やがて影は暗がりから日の元へとその姿を晒す――灰色の体毛にぴんと尖った耳、金色に輝く目。そして大きな口から除く乳褐色の歯――狼だ。

 暗がりから姿を現した狼は三匹。どれも冬毛の下の肉はげっそりと落ちており、歯の間からは透明なよだれとこちらの腹まで響くようなうめき声が絶えず流れ出ている。傍目から見てもここ最近ろくにものを食べていないことは間違いなく、リンを久々の食べ物として見ていることは明白だった。リンは布袋の中のウサギの亡骸をしっかりと抱えながらゆっくりと後退する――弓をつがえたところで一匹仕留めている間に他の二匹がすぐに飛びかかってくる――それならばタイミングを見計らってウサギの肉を投げてそのすきに――と、その時前の方からだけでなく後ろの方からもうめき声が響いていることに気づいた。即座に後ろを振り返る。

 ――いた、後ろにも二匹。じわじわとこちらへと距離を詰めてきている。囲まれている――そのことに気づくまでさほど時間はかからなかった。リンの足が止まったのを見計らい、オオカミたちは円を小さくして追い込む。そのうめき声はリンを包囲して共鳴し、静かに恐怖で押しつぶしていく――と、そのとき。

 リンの正面にいた二匹の狼のうちの一匹が突然横に吹き飛んだ。

 他の狼たちとリンが反応する間もなく、その体が進行上にあった木にぶつかってぐにゃりと曲がり、白い地面に落ちて動かなくなる。続けて、吹き飛んだ狼の隣にいた狼もその反対方向にものすごい勢いで吹っ飛び、あっという間に林の暗がりへと消えて見えなくなった。どういうことか。リンが後ろを振り返った瞬間、眼の前に黒い影が飛び込んでくる。

「――下がってなさい」

 魔女はリンに有無を言わせず後ろに下がらせると右手を残った三匹に向けて突き出した。するとちょうどこちらに飛びかかってきた狼が頭から縦に真っ二つになり、輪切りになった亡骸がリンの両横に落ちて白い地面に赤黒い染みを作る。続けて向かってきたものは瞬間動きが空中で止まり、そのまま空高く打ち上がったかと思うと地面へと叩きつけられた。骨が砕ける音がし、そのまま地面にして動かなくなる。

 一瞬で仲間を屠られ、最後に残された一匹はその場に貼り付けられたように動けなくなり、ただ突然現れた黒い影の方向を見て唸っていた。魔女は一歩前へ進み、よく通る声で叫ぶ。

「――下がりなさい」

 狼は一瞬怯んだようだったが、未練がましくその場で唸っていた。その様子を見て魔女は一瞬眉を潜め、今度はぞっとするほど低い声を出す。

「――下がりなさい狼藉者」

 瞬間狼はその場で飛び上がり、自分が出てきた森の暗がりへと踵を返して駆けていった。高い声を出しながら一目散に駆けていくその姿を見て、リンはまるで子犬のようだと思った。

「……大丈夫?」

 魔女にそう言われてリンは魔女の服の端をしっかりと握っている自分に気づいた。慌てて手を離そうとしたがうまくいかない。手が震えているのが寒さか、それ以外の理由か分からなかった。そんな様子を見て魔女がリンの方に手を伸ばす。

 瞬間リンは思わず身構え、その様子を見て魔女は伸ばしかけた手を引っ込めた。一瞬の動揺のあと、何かを諦めたような淋しげな表情をうかべる。いつも彼女の表情に張り付いている、とても冷たくて心が痛むなにか――

 瞬間、リンは魔女の引っ込めた手を取りこちらに引き寄せていた。魔女の赤黒い目が、驚きで見開かれる。

「――怖くないの」

 魔女はどこか探るような声でリンに問いかける。リンは少し震えながらその手を強く握る。

「……怖いです。でも――助けてくれました」

 ありがとうございます。リンは魔女の目を真っ直ぐ見ながら言った。魔女はひどく戸惑った表情を浮かべつつリンの頬に触れる。氷のように冷たい手。ほんの少しだけ震えている。

「……ケガはないみたいね」

「はい」

 魔女は安堵したような表情を浮かべながら、しばらくリンの頬に触れていた。冷たい手の奥にほんの少しだけ温もりが宿ったような気がした。




「……あなたも物好きよね」

「何がです?」

 砦に向かう帰り道、話しかけてきた魔女にリンはそう返す。リンの手には先程獲ったウサギの入った布袋。対して魔女は自分が倒した狼の亡骸を引きずって歩いていた。それなりに重量があるはずなのだがそんなことを一切感じさせない足取りだ。

「料理よ――作ったって食べないって分かってるでしょ」

「ああ――」

 リンは理解した。そもそもよく考えてみるとこの人とこんな雰囲気で話す事自体始めてかもしれない。

「……作り過ぎちゃうんです。いつも二人分作ってたから分量が分からなくて」

「ふん、どうだか」

 魔女はなにもかもお見通しと言わんばかりに鼻息をならす。その様子がなんだかおかしくてリンは少し微笑んでしまう。

「……それに『必要無いからって要らない』ってわけじゃないんでしょう。だから畑仕事なんてして食べ物を作ってたわけですし」

 ――リンは少し前に砦の中庭に畑の跡を見つけていた。どうやら畑を耕して野菜を作っていたのは確かなようだった。彼女が本来必要でないものに――「人間らしさ」に執着している証。

「――そう思ってるならいいじゃないですか、必要なんかなくても。わたしも――ただやりたいからそうしてるんです」

「――ふん」

 魔女はそっけなく返す。けれど足元の雪のようにその態度はほんの少しだけ柔らかい。

「――あなたはいいお姉さんだったんでしょうね。面倒見良さそうだし」

 魔女はふいにそうつぶやいた。何気ない言葉だったがリンは一瞬心の奥が強張るのを感じる。

「――どうかな。本当にいいお姉さんだったら、ちゃんとそばにいてあげるだろうし」

 それは掛け値なしに本当の言葉だった。少なくともリンの中では弟に対していい姉でいたことは無いような気がした。「買いかぶりすぎですって」そう薄い笑みを浮かべながら小さく答える。

「そうかもしれないわね、けど――」

 魔女はそこでふいに目を上げた。どこか遠くを見るように。

「私の家族もあなたみたいだったら――私もこうじゃなかったかもしれない」

 そう言って魔女はそれきり黙り込んだ。やがて砦が見えてくる。徐々に厚い雲に覆われつつある空から差すオレンジ色の光に照らされ、今朝そこから出たときと同じようにそこにあった。砦までリンも、その少し前にいる魔女もただ無言で歩く。少しずつ冷えていく周囲の空気に合わせて、二人の間にある厚い氷がまた固くなったような感覚をリンはおぼえる。

 リンの目の前の魔女と薄い光に照らされる砦が改めて重なって見えた、そんな気がした。

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