第2話





建物は素晴らしい。

なにせ、雨風を凌いでくれる。

忌々しい寒気や、逆に過ぎた暖気からも多少守ってくれるし、何より吹雪いていない。

素晴らしい。文明万歳。


……まあ、それはそれとして。



「ええっと、この状況は一体…?」

「……。」



返答はない。

……いや、この表現は適切ではなかった。

正確には返答がない。


横長の台を挟んで正面には、忙しなくワタワタと手を動かし、身振り手振りで何かを伝えようとする命の恩人がいた。

何を言いたいのかさっぱり伝わってこないが、一生懸命であることは伝わった。

一生懸命であることしか伝わってこなかったが。



私はたしかにあの雪の中で死を迎える、そのはずだった。

それを助けてくれたのが目の前のこの人物。名前はわからないが、体の動かなかった私を担いで雪山を下山をした……なかなかにガッツのある命の恩人だ。


恩人殿には幻覚などではなく、やはり頭がなかった。

この建物──宿屋というらしい──に来るまでに見かけた人達には頭があったから、特異な人物であるのだろう。


どうやら、こちらの言葉は聞こえたり、姿は見えているらしい。

故に、一方的なコミュニケーションを図ることは可能だが……



「すまない、何もわからない。」

「……!」



逆は不可能である。

頭がないのだから、当然口もない。

と、なれば言葉を交わすことは不可能だ。


素直に謝ると、恩人殿はピタリと動きを止め、数泊置いてから前のめりに項垂れた。

落胆、しているのだろうか。

その姿があまりに痛々しく、大変申し訳ない。


何か声をかけようとしていた所で、壁とは唯一違っていた板が開く。

あれいいな、閉まるから暖かさが逃げないし、開け閉めで簡単に出入りが可能だ。



「旦那、言われていた紙とペンをお持ちしましたよ」



そう言って入って来たのは恰幅のいい中年男性だった。

宿屋に入った時に一度顔を合わせていた人物で、人懐っこい笑顔が印象的だ。


待ってました、と言わんばかりに恩人殿が立ち上がる。

表情はわからないが、心なしか嬉しそうに見えた。うん、喜んでくれてよかった。


白いペラペラと小さい筒……ええと、紙とペンを受け取り、台に置いて何かを始めた。

紙の上でペンを動かすと、黒い何かがペンを追って現れ刻まれていく。


不思議とずっと見ていたくなる光景だがじっと見つめるのも不躾だろう。

傍に立ったままの男性に話しかけることにした。



「この腰掛けいいな、フカフカで座り心地がいい」

「腰掛け…ソファのことですかい?最近おろしたばかりですからね、よく沈むでしょう」



ソファ。

ソファというのか、これ。

雪と同じ色をしているのに、冷たくはない。

体重をかけると弱く反発しながらゆっくり沈んでいくのがなんとも面白い。



「これは?この台は?」

「はあ、机ですか?不思議なことを聞きますねぇ」



机!

作業をするのに適した良いものだ。

何かを置いておくこともできそうだし、非常に便利なものだといえよう。


その後も、しばらくは部屋の中にあるものの名称を聞いて時間を潰していた。

恩人殿の邪魔をしたくないという気持ちもあったが、単純に好奇心を止めることもできなかった。


窓、ドア、絨毯、暖炉、ベッド……。

色々な名称。色々な機能。

それぞれがそれぞれの役割を誠実に果たしている。


素晴らしい。

やはり、文明万歳。



やがて時計の長い針が別の数字へ2回ほど動いた頃、カタン、という音が聞こえた。

男から恩人殿へ視線を戻せば、紙にはたくさんの黒い軌跡。

ペンが机に置かれているので、どうやらそれを置いた音であったようだ。


そのまま紙を差し出されたので、受け取りはしたが……これは、なんだろう。



「この黒いのはなんだ?」



その言葉に、また命の恩人が固まったように見えた。

代わりに、もはや教師の顔をした男が首をかしげる。



「……字が、読めないので?」

「字?これは字というのか?そうか、この黒いものは字というのか…!」

「いやインクのことではなく、インクで書かれた文字……ええと、この模様のようなもののことですよ」



文字?と首を傾げれば、恩人殿はヘタリと自分の腰掛けていたソファへと倒れこんだ。














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